スペースシャトル

紫鳥コウ

 まだ死んだわけではない。でも、死にたいと思ったとき、もうあなたは生の地平にはいない。生と死の境界にもいない。あなたは浮遊する主体である――




 と、ようやくその数行を打鍵できたかと思うと、玄関のチャイムが鳴った。


 そして、少し遅れて、階段の方から「大山さんが来ましたよ」と、母が声をかけてきた。僕は「通してくれ」と返事をした。が、母に聞こえたのかどうかは分からなかった。


 しかたがないから自分で迎えにいこうと思い、椅子から腰をあげようとしたとき、部屋のドアがノックされた。「入ってくれ」――そう言うと、優しい表情をした男が姿を現した。僕は彼の顔を見ると、なんだか安心するのだった。


「先生、原稿の進捗しんちょくはいかがですか?」


 優しい表情をした男――大山は本棚の横にある丸椅子に座ってそうたずねてきた。


「まだ終わらない」


 僕は、正直にそう答えた。


「なぜです?」

「なぜ? そりゃ、いろいろ資料をめくりながら書いているから、遅筆ちひつになるのは当たり前じゃないか」


「〆切は近いですよ」

「分かっている。第三回までの連載分はできているのだから、少しは待ってくれ」


 また部屋のドアがノックされた。母が温かいお茶を運んできたのだ。テーブルに湯気のたつそれを置いてしてしまうと、母はさっさと一階に降りていった。


「お母さまを働かすなんて、先生はひどいものですね」

「ほかに家族がいないんだからしかたがない。本当なら、僕がくんできてもいいんだから」


 僕は、あるアフリカの国を舞台にした小説を書いていた。いままでずっと、アフリカ大陸の上に、主人公たちを生かしてきた。


 ほとんど文芸的ではない文章を使って。


 が、こんな五流、六流、七流……の書き手であっても、原稿の依頼がくるのだから、文学の世界とは豊穣ほうじょうな大地の上にできあがっているらしい。


 とにかく僕は、原稿を進めたかった。早くきりの良いところまで書いて、別の出版社から頼まれた短篇小説の作業に取り組みたかった。


 が、大山はふと、こんなことを言ってきた。


「これは西郷さんからのクリスマスのお祝いなので、貰ってやってくださいよ」


 クリスマス?――そうだ、そういえばもう、そんな季節だ。


 炎天下を舞台にした小説を書いていたものだから、文字の外の季節というものを忘れてしまっていた。


「お祝い? この本を?」


 それは、世界各国の民族衣装の図鑑だった。そして、僕が数カ月前に購入したものだった。


「そうです。西郷さんは、先生の新作を楽しみにしているので、少しでもお役に立てたらって、わざわざ本屋で買ってきたんですよ」


 西郷さん――それは、ある仕事で僕の担当をしてくれた編集者だった。彼女はいつも顔色が悪かった。よほど忙しかったのだろう。そんな彼女を見ていると、いちはやく仕事を終えなければならないという気になったものである。


「じゃあ、貰っておこう。お礼を言っといてくれ」


 こういう会話をしているうちに、クリスマスを実感してみたいと、思うようになった。大山に、一緒に外へ行こうと誘ってみた。「気分転換になって、筆が進むのなら……」――大山は、そう乗り気ではないみたいだったが、反対はしなかった。


 僕はさっさと茶色のコートを着て、大山と、冬のさなかに出かけていった。

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