思い出は月のように
神帰 十一
第1話 満月
「ねぇ……物語りを作って」
結婚して何年が経つのだろう?
加川は妻のカオルに突然 お願いをされた。結婚してからこれまでお願いは幾つもされたし、お願いは大抵において突然であるものだ。
それでも 「突然」と付けたくなるのは、お願いの内容が想像の外の物であったからであろう。
「何を言ってるんだい?」
日課のお風呂上がりのマッサージを妻に施していた加川は、動揺を悟られないように、オイルを取る振りをして 不自然無く カオルの体から手を離した。
突然のお願いに動揺したのではない。それも多少はあったが、結婚して何年経ったのか すぐに出てこなかったので動揺した……正確には動揺しそうになったのだ。
動揺の一歩手前の、けれど決して平常心とは呼ばない状態。どんなに仲の良い友人であっても 気がつかないような細やかな心の変化である。しかし それは夫婦であれば気がつかれてしまう心の変化であった。
ただでさえ気がつくのだ、直接 肌と肌を触れ合わせていれば尚のこと、その細やかな心の変化はカオルに伝わってしまうだろう。それを懸念して 加川は手を離したのである。
心の変化が伝わったからと言って、なぜ 変化があったのか、その理由まで 伝わらなければ問題はない。確証をつかまれなければ、これくらいの事なら「何でもないよ」 そう言って、押し通してしまうくらいの厚かましさは加川にもあった。
だが 加川には予感のようなものが働いたのだ。
これはカオルが結婚してからの事について、話しを展開して行くな。…そんな予感だ。
これが何なのかは加川にも分からない。一種 夫婦の呼吸のようなものであろうが、そんな、不明な物の正体を追及するよりも、大事なのは、加川が予想したように話しが展開した場合 、「結婚何年目だったか」 この確かには答えられない問いに、確実に答えなければならない義務が加川にはある。と言う事だった。
答えられない場合は……
それは、大袈裟か。
カオルはそれほど狭義な側の性格ではない。加川が覚えていなければ いないで、「ひっどぉーい」くらいで済ませてくれるであろう。
しかし加川は、女性が記念日や 積み重ねた歳月に対して思い入れがあるのは一般のイメージなので、それを自分は解っているのだから、やはり答えてやりたいと思うのだ。
だいたい単純に、覚えていないよりも 覚えられている方がカオルも喜ぶだろう。
加川がそんな殊勝、若しくは当たり前の事を考えていると、予想通りカオルが、「結婚してから」の話しを始めた。
カオルが話し始めてすぐに、動揺しそうになったのを心配したのは、杞憂だったことが分かった。
「私たちは、結婚してから19年が経つんですけど、話している割合は、私の方が圧倒的に多いわ」
結婚してから19年目だった。
妻は何を話し始めるのだろう?加川の胸に小さな興味の種が植え付けられる。
きっと、「いつも話しているのは私ばかりだから、たまには あなたも、物語りを作って話して下さいな。」
そう言う話しなのではないかと思うが、加川は可愛い妻が どう言う経緯を辿ってそこに辿り着くのか、見守ってやりたい気持ちだったので、「だから物語りを作って欲しいのかい?」 一足飛びに結末に辿りついてしまう、そんな無粋な質問は控えた。
「そうだね。キミのお話しは面白いからね」
お世辞でも何でもない、実際 カオルの話しは面白い。
加川とカオルは学生の時に付き合い始め、今は結婚して一緒に暮らしている。なので一緒に何かを経験をする機会は多い。そう言う一緒にした体験、——例えば 旅行などの話しをする時に、加川が話すのと、カオルが話すのでは、雲泥の差ができてしまう。
特に卒業旅行で一緒に海外に行った話しなどは、同じ旅行の話しをしているはずなのに、聞いている側は本当に一緒の旅行なのか信じられないくらい、二人の話には差があるった。加川の話しは無味乾燥で、カオルの話しは活き活きしている。
加川ですら、旅行から帰ってきた後 カオルと話しをして、(あぁ、この旅行はこんなに楽しいものだったのか )……まるで自分が行った旅では無いように思えた。
「私は文芸部出身ですからね」
「えぇ?そうなのかい」
初めて聞いた話しである。
「それなら、やっぱりキミが話して、ボクが聞いていた方が良さそうだ」
「どうかしら? でも、私を楽しませてくれる物語りは あなたしか作れないわ。だって、私が私のために作ったんじゃ、結末が分かってしまっているでしょう?」
「なるほど、確かにキミの言う通りだ、けれどもボクには自信がない」
「大丈夫、大丈夫よ。あなたは既に作っているのよ。月にまつわるお話を、それを覚えてないかしら?」
加川には身に覚えが無かった。月にまつわる物語りを作った事などない。そもそも、物語りを作ったことがないし、作ろうと思ったこともない。
妻の言っていることに覚えは無いが、今しがたの会話には違和感を覚えた。
台本を読んでいるようだったのだ。
—— 何故だろう?
加川は違和感を感じ、その違和感が何処から来る物なのか、カオルの背中を優しく押しながら考えた。
すると、自然と意識が過去に向かって遠ざかって、薄れていく。
—— あぁ…また、この感覚か……
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