:エシュラム


 黒い人のかたちをした姿。それが空を見上げる。


 空の色も同じように黒い。しかし、決して辺りは暗いわけではない。

 この場所には、昼も夜もない。常に一定の明るさで空間は満たされ、空の色も暗い夜の暗闇、というわけでもなく、ただ純粋にそういう色をしているだけに過ぎない。

 ふいに黒い人影は自分の頭を両手で挟み込み、一気にそれを引き抜いた。





 脱いだ兜の中から、少年の顔が露出する。

 少年は汗ばんだ銀髪を軽く振り、改めて自分の瞳で空を見上げる。


 やはりそれは一面の真っ黒で、そのどこにも、青さの欠片も見当たらない。

 少年は舌打ちをし、視線を下ろした。

 今いる小高い丘の上から、この狭い世界を見渡す。


 どこもかしこも灰のような砂と土くれに覆われた、一面の純黒の大地。

 非エーテル的な、生気の欠片もない虚ろなる死の大地。囚われの牢獄。

 視界の奥、遠く彼方に光が点在するのが見える。

 カルンターの結界越しに細々と輝く、命の営みの光。運命に歯向かおうともしない、家畜どもの檻。


 もう一度舌打ちをしようとした少年を、猛烈な脱力が襲う。

 非エーテル的な空間は、エーテルから形作られているヴィナの存在を許容しない。

 少年のエーテルが、命が、虚空へと吸い上げられていく。

 脱力はすぐさま激しい眩暈と動悸へと変化し、少年はただ立っていることすら難しくなる。それでも歯を食いしばり、必死に姿勢を保とうとする。


「あーもー、またそんな無茶してー。駄目じゃないですか若様。ちゃんと兜着けてなきゃ駄目ですよ!」


 大地を揺らし、二本角の黒い巨体が近づいてくる。

 少年はかすむ目で、どうにかその姿を中心に捉えようと努力する。

 見上げる巨体の、胸の傷が痛々しい。


「構うな。それよりエルフィオラ、お前の方こそ、その傷はどうだ。まだ痛むか?」


「平気です。へっちゃらです。エル、頑丈だけが取り柄ですから。もう十分戦えますし、今度こそあんなブリキのオモチャども、やっつけて見せます」


 少年はなおも心配そうな表情で、その傷を見つめる。


「いやですよ、若様。そんなに人の胸、ジロジロ見ないでください。これでもエル、女の子なんですから」


 少年は鼻を鳴らし、いい加減に兜を被り直すことにした。

 途端にエーテルの漏出が止まり、眩暈がおさまる。大きく深呼吸し、呼吸も整える。


「それは浅慮が過ぎたな。悪かった。いずれにせよ、”天窓”が開く様子もない。今しばらくは英気を養い、戦力を拡充するタイミングなのだろう。焦ることはない」


 少年は歩き出し、黒い巨体もそれに続く。





 カルンター。

 かつての王都、エシュラムの南東の郊外。

 その昔は広大でのどかな穀倉地帯が広がり、その片隅には王国の叡智を蓄蔵した巨大な図書館があった。


 しかし、この過酷な環境での永い時間がその牧歌的な雰囲気をすべて洗い流してしまっていた。今となっては、図書館の周囲に張り巡らされた狭い結界の内を除き、他の場所と同じように閑散とした、命の輝きの無い黒い荒野が広がるばかりだ。


 少年は黒い巨人を従え、その結界へと歩み寄る。

 王の過ちにより時空の牢獄へと堕とされた人々の、唯一の安息地。


「エル、お前はここで待て。すぐに戻る」


「はい若様。お気をつけて」


 巨人を外に残し、少年は結界の中へと入った。

 ここでは特殊な封印を施した気密鎧は必要ない。少年は鬱陶しい兜を外そうか迷い、結局はそのままにして、歩き出した。


 住人達の視線を感じるが、少年はそれを無視して進む。

 誰も彼もが生気の無い瞳をしている。満足な栄養も得られていないようで、その姿もみすぼらしく、痛々しい。

 少年の腹の内を、怒りが熱くする。自分たちをこんな過酷な運命へと追い込んだ古の王。そして、今なお判断を誤り、住人達を苦しめ続ける現在の指導者。過ぎ去りし日々の語り部。オシリア翁。自分の、祖父。


 狭い結界の中を目的地へと辿り着くには、徒歩でも大した時間はかからない。

 すぐにかつての図書館であり、現在のささやかな議会の集会場である建物が目に入る。

 入口のところに誰かの姿が見えた。自分を待ち構える女性。レアン。

 少年は兜越しのくぐもった声でも届く距離まで近づくと、すぐに女性に声をかけた。


「語り部に会わせろ」


「久しぶりね、サリオ。要件は? 私が代わりに聞きましょう」


「その必要はない。語り部と直接話す。通せ」


「それはできない」


 少年は、サリオは、小さくため息をつき、兜の面を開けた。

 そうして一旦レアンから視線を外し、辺りを見渡す。

 ささやかな箱庭の聖域。何千年という、気の遠くなるほどの間、この小世界を維持してきた先祖たちの苦闘には素直に敬意と称賛を示すしかない。


 とはいえ、もうこの世界は長くは持たない。空間そのものの限界が近づいている。

 自分たちは、選択し、それを実行しなければいけない。

 サリオは、改めてレアンへと視線を戻し、直接視線を交わす。


「いい加減にしろ。エシュラムは、ベル・スールのもとにひとつとなるべきだ。生き残るには、それ以外に道はない」


「いいえ。語り部は、ベナ・オールは、あくまでも対話による平和的な帰還を望んでいる。ベル・スールの手段は容認できないわ。私たちにも、天窓を使わせなさい」


 サリオはその言葉を鼻で笑う。


「何が対話だ。いつまでそんな愚かな夢を見ている。いい加減に目を覚ませ。これまでの何度かの試みに、奴らが耳を貸したことなど、一度だってあったものか。それどころか、奴らは我らの使者を化け物として殺戮までした。奴らこそ化け物だ。対話など、人の言葉など、通じはしない」


「あなたこそ、目を覚ましなさい。これまでに一体何人のノルヴィナの仲間を犠牲にしたというの? 私たちは弱く、儚い。力ずくでことを成そうとしても、力ずくでそれを抑え込まれてしまうだけでしょう?」


「彼らの死は無駄ではない。敵の手の内は分かってきた。志願者も日増しに増え、戦力も整いつつある。理はベル・スールにこそ、ある。俺たちは、ただ帰還するだけでは足りない。俺たちをこんな地獄へと堕とした愚王ゼオリムの末裔と、その犬どもに報いを受けさせなければいけない」


「愚かな……」


「そっくりそのまま返すぞ、その言葉。いいか、これは最後通牒だ。戦って勝ち、生き延びるか。戦って負け、誇りを胸に散るか。あるいは、臆病にも戦いから逃げ、何もせず死ぬか。道は一つだ。選択肢など、ない。もう一度言う。理は、ベル・スールにこそ、ある。ベナ・オールのすべてを合流させろ」


 サリオは言葉を止め、レアンの反応を待つが、何も返ってはこない。

 サリオは鼻を鳴らし、面を下ろし、踵を返した。

 兜の奥で、くぐもった声が響く。


「……さようなら、レアン。綺麗ごとで救いが得られるといいな」


 皮肉を残し、サリオは去った。

 後に残されたレアンは歯を食いしばり、ただただ佇む。


 しばらくしてからレアンは顔を上げ、図書館を護るように囲み並び立つ、六体の神を象った石造を順に見つめていった。

 そして、その内の一体に手を組み合わせ目を閉じ、祈りを捧げる。


「我らが初光の主神、エンヴレンよ。どうか私たちに、光のお導きを……」





「もういいんですか、若様」


 結界の外へと戻ってきたサリオを迎え、エルが声をかける。


「ああ」


「結果は? どうでした?」


 サリオはただ肩をすくめるだけで答える。


「そうですか、それは残念ですね。でも、若様少しご機嫌みたいですね。久しぶりに姉上様とお会いできて」


「茶化すな」




 

 カルンターの反対側。エシュラムの北西に位置する、ベル・スールの拠点、ベルリア。

 その中心にエルフィオラが立ち、その胸の中の空間にサリオが収まり、瞑想をする。


 その周囲では、堅く黒い甲殻に覆われた巨大な仲間たち、ノルヴィナ・スールの皆が戦闘訓練に励む音が轟く。


 ゆっくりと、サリオは目を開けた。おもむろに組んでいた腕を解き、両手を硬質化したエルの内側の突起に置く。そして、掌の封印を一時的に開放。そこに一気に自身の内より湧き出るエーテルを注ぎ込む。

 エルがその力に共鳴し、何倍にも増幅し、周囲に爆発的な力の発散として放射する。空気がピリピリと震え、黒いスパークが散る。


 周囲の仲間たちがその衝撃に静まり返り、すぐにそれは地響きのような大歓声へと変わる。

 サリオはエルの両手を黒い空へと掲げ、皆を制した。


「聞け、英雄たちよ! 我々を陽の光の届かぬ死の大地へと堕とした者たちへの怒りを忘れるな。我々の祖先が元居た世界。我々が今現在居るはずだった世界。その光の輝きを渇望せよ! その輝きを独占する者たちへ裁きを下すのだ。我々自身の手で。ベル・スールによって! 忘れるな、我々の望みは、進むべき道は、ただひとつ!」


 仲間たちが、先ほどまで以上の大歓声を上げる。


「ゼオリムの野望を打ち砕き、光を取り戻す!」





 カルムナント・ゼオリムが、巨大な人型の機械を見上げる。

 エンヴレンによく似た形状の、明るい青に彩られた、新型のミッション・エンジン。


「いささか不確定要素が目立つが、中々悪くない条件が整いつつある。これは間違いなく、この三千年で待ち望んだ最高の好機だ。多少強引にでも、先へ進むほかない」


 少年の顔に、妖しい笑みが浮かぶ。


「そのためのデウスエクスマキナ。機械仕掛けの神。強引な解決手段」


 茶番めいた諧謔にも思えてしまうが、背に腹は変えられない。

 定められた数字、六。そのすべてを越え、塗り替えるための、第七のミッション・エンジン。


 青のクオラム。


「覡の揺りかご。古の神を踏み台とし、新たなる神を宿す依り代。いや、そのもの、神の繭、と言ってしまった方が気持ちいいか。何ともおあつらえ向きではある」


 少年は、たまらず弾けるように笑い出す。


「そう。すべては、より善き世界のために。真なる神の顕現、そのために」


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