1.1.3:トライアル


 それからも訓練は続き、気が付けばいつの間にか、日が暮れ始めていた。


 一日中体を酷使したアリルは、生気の抜けきった表情でフラフラになりながら、最後の走り込みをしていた。背後からはカノンが楽し気な声で声援を送るが、アリルの耳には、それはもう単なる雑音としてしか認識できていない。


 もうアリルには自分がどこで何をしているのかも分からず、何かにぶつかって尻餅をついても、そのことを認識するのに少しの時間を要した。


 しばらくして、ようやくアリルは自分がぶつかったのが人だと理解した。


「あ、ご、ごめんなさい。ボーっとしちゃってて。怪我、ありませんか?」


 アリルはそう言いながら、相手のことをよく見る。

 長身で、どこか冷たく、鋭い印象の男性。着ている服には紫のライン。


「レーンさん、でしたっけ?」


 紫のミショニスト。名前はレーン・ヴェット、だったはず。


「来いよ新入り。試してやる」


 男は冷たい表情でアリルを見下ろしながら、そう言った。

 ぼやけたアリルの頭には、その言葉の意味が中々浸透していかない。


「ど、どういう、ことです?」


「おー、なんだなんだ。新人いびりか? そういうの良くないぞ、レーン」


 カノンが割って入り、アリルを庇って言った。

 それにレーンは苛ついた様子で答える。


「茶化すな。それにお前もお前だ。ヘラヘラしやがって。こんな腑抜けた生ぬるい甘やかし方じゃ、こいつは鍛えられない。こいつ自身のためにもならないだろ」


 腑抜けた、生ぬるい、甘やかし。この人は何を言っているんだろう。

 こっちは、こんなに死にそうなほどしんどい思いをしているのに。

 アリルは愕然として、何も言葉が出てこない。


「だってまだ一週間だぞ。アリルは素人なんだしさ。いきなり平常メニューこなすより、最初はゆっくりまったり、楽しくステップアップで良いじゃん」


 アリルとしては、十分にキツいメニューだと思っていたが、どうやらカノン的にはゆっくりまったりなつもりだったらしい。眩暈がしてくる。


「何が楽しくだ。遊びでやってんじゃないんだぞ」


 レーンはアリルをしっかりと見据え、続けた。


「あくまで俺たちは軍人だ。得体の知れない化け物どもから王国を護る使命を帯びた戦士だ。遊び半分の足手まといなら、必要無い。お前がそうでないかどうか、試してやるって言ってるんだ」


 アリルは、まだ言葉が出てこない。

 そんなアリルを見て、レーンは意地の悪い笑みを浮かべて言った。


「どうした? こんな面倒な先輩一人相手にできずに、冥獣なんて相手に戦えるのか? どうする? 立ち上がって、立ち向かうか。それとも、そのままそこで情けなくへたばったままでいるか」


 アリルは、ようやく自分の中に答えるべき言葉を見つけた。歯を食いしばって、言う事を聞かない体に無理やり言う事を聞かせ、立ち上がる。


「……お願いします。どうぞ、試してください」


「ほお。良い心構えだ。息を整える時間ぐらいはやる。準備ができたら闘技場に来い」


 レーンはそう言うと面白そうに笑い、去っていった。

 その背中を眺めながら、カノンがため息をつく。


「ま、あいつの言い分も分かるっちゃ、分かるんだけどね。でもやっぱストイックすぎるっていうかさ。しかもそれを他人にも押し付けちゃうからな、あいつ」


 そう言うとカノンは、アリルを心配そうに見つめて言った。


「本当に良いのか? 別に嫌なら嫌で良いんだぞ、相手にしないでも」


「良いんです。僕は、戦うために、ここに来たんですから」





 しばらくしてアリルが闘技場に入ったころ、すでにほぼ陽は沈みかけ、暗闇の中で地平線だけがうっすらと、その余韻で真っ赤に輝いていた。


「来たか」


 レーンはリングの中心に立ち、待っていた。アリルもリングに上がり、レーンに向かって立つ。


「で、どうすればいいんですか?」


「簡単な話だ。得物は模擬刀。俺に一撃でも浴びせられたらお前の勝ち。当然ハンデはやる。お前はエーテル干渉、まあいわゆる魔法、の訓練はまだらしいからな。俺も魔法は使わない。物理的な攻撃も一切なし。避けるだけだ。避けるにも、今立っている場所から半径一メートルより外には出ない。お前の方は行動に一切の制限は無し。禁じ手もなし。何でもあり、だ。制限時間は……そうだな、三十分。ルールはそんなところだ。な? 簡単だろ」


「……それだけのハンデを頂いても簡単ではないんでしょうけど、でも、全力で頑張ります。よろしくお願いします」


 アリルはそう宣言すると、模擬刀を受け取り、前に構えた。


「よし。いつでもいいぞ。好きなタイミングで来い」


 レーンがそう言い終わると同時に、アリルは飛び出した。





 一撃目をレーンの胴体めがけ、遠慮なく全力で突き出す。


 しかし、それは当然のようにあっさりとかわされる。続けてとにかく我武者羅に剣を連続で突き出すが、そのどれもが最小限の動きで難なくかわされていく。

 まるで最初からレーンの居ない空間に剣を振るっているような錯覚。かする気配すら一向にしない。


 アリルの息がだんだんと荒くなっていく。一旦一息ついたとは言え、溜まりに溜まった疲労に対しては焼け石に水でしかなく、すぐに意識もまた朦朧とし始める。


「どうした新入り。やっぱり駄目か?」


 レーンが挑発するが、アリルにはもうそれに答える余裕もない。

 剣を振るう力が空回りし、逆に剣に振り回されてしまい、足がもつれる。

 どうにかひっくり返ることは避けたものの、その場に膝をついてしまう。


「しっかりしろよ。そんなんでどうする。俺が冥獣なら、お前、死んでるぞ」


 冥獣。死。


 真っ白になったアリルの脳裏に、遠い過去の記憶が蘇ってくる。


 確か、あの時も、これくらいの時間だった。


 ぼやけて色味の薄れた視界に映るレーンの姿が、あの時の黒い巨体と重なる。冥獣。姉ちゃんの、仇。


 瞬間、アリルの脳裏に血まみれで身動きをしない姉の姿が、真っ赤に焼き付いた。





「うわああああああああ!」


 アリルの突然の絶叫に、レーンも流石にたじろぐ。


「お、おい、どうした。大丈夫か。無理はすんなよ」


 心配して様子を窺うレーンをアリルは鋭く睨みつけ、爆発的な勢いで突進していった。


 それに驚きつつも、レーンは咄嗟に身をよじり、回避。

 そのままの動きで振り返り、アリルを視界から逃さないようにする。

 アリルはそのままリング上を転がりながら勢いを利用し、姿勢を制御。再び突進をしかけてくる。


 明らかに魔法を使った動きだ。

 レーンは最初、それを筋肉と神経を強化した動きだと思ったが、どうやら違うようだ。そんな繊細な操作じゃない。もっと直接的に、エーテル・フィールドそのものに負荷をかけ、その反発力で体を丸ごと弾き飛ばしている。

 つまり、本来なら攻撃に使うような出力の衝撃を自分に打ち当て、無理やりに加速している。


「馬鹿か! そんな無茶、体がぶっ壊れるぞ!」


 アリルの突進を再びかわす。

 レーンの言葉はアリルの耳には届いてはいないようだ。


「ちっ! 世話のかかる新入りだな」


 レーンはその場に両足をつき、深く腰を落とした。そのまま全身にエーテルをまとい、その流れを整える。


 そして、我を忘れたアリルの突進を今度は真っ向から受け止めた。

 猛烈な衝撃に歯を食いしばりながら、レーンは練ったエーテルを真っ直ぐ前に圧し出し、勢いを相殺する。

 激しい衝突の余波が場内を駆け巡り、少しして、ゆっくりと静寂がそれに取って代わっていった。


「おい新入り! 大丈夫か!」


 レーンは額の汗を拭いながら、その場に崩れ落ちたアリルに声をかけた。

 ほどなくしてアリルは小さくうめき声を上げ、上体を起こした。

 レーンが大きく息を吐き出し、そんなアリルに満足したように話しかける。


「俺の負けだな」





 アリルはレーンの瞳を見つめる。息をするのにやっとで、言葉は何も出てこない。


「俺はルールを破って魔法を使った。立ち位置も大分ずれてるな。それに、いつの間にやら一撃も食らっていたらしい。俺の完敗だ」


 そう言ってレーンは服の左上腕の辺りを見せる。そこが、小さく裂けている。


「まだまだ粗削りにもほどがあるが、確かに見どころはある」


 レーンが微笑を浮かべ、手を差し伸べる。アリルはその手を取るが、言葉を返す余裕はまだ戻らない。


「ようこそグラディエントへ。これからよろしくな、アリル」


「ど、どうも」


 アリルはやっとのことで、どうにかその一言だけを喉の奥から絞り出した。





「あれ?」


 目の前には、天井。


「あれ? あれ? あれ?」


 アリルは辺りを見渡す。自分の部屋の、ベッドの上。


 いつ部屋に戻り、いつベッドに入り、いつ寝たかの記憶が全くない。

 時計を見る。もう明け方の時間だ。


 ベッドから起き上がり、冷蔵庫までヨタヨタと歩き、冷たい水を一気に呷る。

 カーテンの隙間から外をのぞくと、遠くの空がうっすらと明るくなり始めていた。

 そのままぼんやりと外の風景を眺めていると、ふいに、腹の虫が轟くような音を立てた。


「……あちゃー。そういえば晩御飯、食べてないよな。食堂は……やってるわけないよな。売店は二十四時間だから、そっちでなんか軽いものでも買ってくるか」


 そんな独り言を呟きながら、動き出す。全身が筋肉痛でギシギシと軋む。


「また何時間もしないうちに訓練かー」


 財布を取り、薄めの上着を羽織り、ずっと放置したままのキャリーバッグを足でまたぎ、アリルは部屋の扉を開けた。




 その視界に、強烈な輝きが飛び込んできた。

 廊下の向こう側。窓の外、東の空が黄金色に輝いている。

 その周りの空は昇る太陽の輝きを受け、藍やオレンジ、紫、様々な色の複雑なグラデーションに滲んでいる。

 アリルはその幻想的な光景を眠気眼でしばらくぼんやりと眺めていたが、やがて長い大きな欠伸をしながら、廊下をノソノソと売店へと歩きだした。


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