赫い炎
「──ぇ? ……ジか……」
──目がぼやけて、何も見えなかった。
体が熱を帯びていて、景色や状況すらも分からない。真っ先に目に入ったのは、視界全体の橙色の光。
体に当たるこの風を感じ取れるという事は、ここは少なくとも自宅の室内ではないという事だけだ。
いつの間に、別の場所に移動させられた……? でも、じゃあ誰が? 何の為に?
「──そ? 気に入ってもらえたなら良かったけど。俺もお前に紹介して正解だったってことよ!」
……そして、胸を躍らせて話す、ちょっぴり無邪気な村野の声。
夢?幻覚?何にせよ視界がハッキリしない。
理解不能な現象に、頭の中がぼーっとしてしまう。
その瞬間。
突如として視界が開け、ようやく鮮明に見えるようになった。
ここは、夕方の住宅街の帰り道らしい。
いつの間に、視界の横からひょこっと現れたのは……村野だ。心配そうに僕の顔を覗き込んでいる。
「おーい? 大丈夫かよお前、ぼーっとしてたぜ」
僕の様子を見て呆れる村野。そんな彼は放っておいて、辺りを見渡す。
今気づいたが、外は雨が降っていた。その時、自分の左手に折り畳みビニール傘を持っていた事に気づく。
え? 雨はもう、昨日で止んだはず……。
おかしい。このビニール傘は、昨日……雨の日以来ずっと、家に仕舞ってあったはずだ。村野と帰り道を歩いているのも、昨日が最後だった──
いや、待て。「昨日」って。
そ、そんな。嘘だ。……まさか……。
明らかにおかしすぎる。これは、叔母さんや村野が協力して、僕を騙している訳じゃ……? いや、完全にそれは無い。いつもの村野の呑気な様子や歩き方が、それを証明している。
そもそも時間を戻すなんて事、仮にどんな天才科学者が何名かいても、絶対に「不可能」な現象だ。
僕は半信半疑ですぐに、鞄から取り出したスマホで日付を確認する。
背筋が凍った。
『10月23日』。七瀬さんが亡くなった、あの夕方の日付。
──僕はその場で硬直してしまった。いやいや、何かの間違いだ。
そうだ、違う違う。絶対…違う。多分きっと、誰かのいたずらでスマホの時間設定をいじられた、とか……。
そんな、非科学的な事が、ある訳が……!
だが、そんな考えを易々と打ち砕くように、背後から人影が迫ってきた。
「あれ、神崎くんと、村野くん」
「……!!」
優しい声に応じて、僕は振り返る。目の前の光景に衝撃を受けて、もはや声も出なかった。
──七瀬さんだ。
そうだ。七瀬さんが、ビニール傘をさして、「あの頃のまま」でココに存在している。
雨で湿気た茶髪のウェーブ。それがどこか美しく思えたが、今の空想的な状況と相まって幻想的でもあった。
「お、よっ! 七瀬じゃねーかー! なんでこんな所にいる訳?」
「そ、それはっ…! その……、帰る道が同じだから」
……全く同じだ。あの頃と全く同じ会話を、目の前で交わしていた。
僕は彼女をまじまじと見つめる。そこには確かに、死んでいるはずの七瀬さんが存在していた。
じゃあ本当に、僕は……。
「かっ神崎くん……!? そ、そんなじーっと見られても困るよ!?」
「あっ。ごめんなさい」
あまりにもまじまじと見過ぎだせいか、七瀬さんに気付かれ、彼女は恥ずかしそうに傘で顔を隠した。
……まあその傘はビニール傘なので、顔がほぼ丸見えで意味がないのだが。
けど確かに、七瀬の反応も無理はない。僕だって、他人にじっと見られたら「えっ?」ってなる。
だが……。それでも未だに半信半疑だった。ある訳がない、ある訳がない、と。いつの間に七瀬さんへ目線を戻していた。
「神崎、さっきから何か変だぞ。なんかヤなことあったのか?」
「ごめんなさい、気にしないで。早く家に帰ろう」
「ん、そうだな! 俺もちょうど三人で一緒に帰りてぇーなあーって思ってたとこだし」
けれどこの景色、会話。信じたくないけど、恐らく……。
──僕は1日前、「10月23日」……七瀬さんが死ぬ前に戻ったのかもしれない。
そのまましばらく3人で家に帰るが、すぐに村野と別れた。
七瀬さんと2人きりだ。帰り道では七瀬さんは気まずそうに、斜め下の足元を向いている。
僕はそんな七瀬さんの顔を真横から見てて思う。
……正しくあの瞬間と同じ。やっぱり、過去に戻ってきたって事なのか? それとも、目の前の光景が、全部嘘? いやいや。
だが、僕が考えている間に、もう歩道橋に着いてしまった。
「……着いたね」
「……あっ、うん。そうだね」
……いや、待てよ。そもそも僕が戻ってきたのなら、本来死ぬはずの七瀬さんを……救うべき?
けれど、まだ不明な点が多い。本当に時間が巻き戻されたのか、確かめなければ。
あのスピナーが僕の家のポストに入っていたと言うことは、少なくとも誰か……「タイムスピナー」の紙を添えた誰かが、意図的に僕に、七瀬さんを救ってほしいと頼んでいるのだろうか。
じゃあどうやって、どんな方法で七瀬さんを「救えば」いい?
そもそもここで七瀬さんを引き止めた所で、何かが変わるだろうか……?
「──か、神崎くん!! 待って!!」
僕が頭の中で疑問を浮かべている間、七瀬さんが話しかけてきた。
よし、決めた。一か八かだ。これは、今しか言えるタイミングがない。
ある作戦を思いついた僕は、持っていた傘を落とし、もじもじしながら俯いている七瀬さんの方へ近づいた。
「その……えーっと……す──ぎゃっ!?!?」
……僕は咄嗟に傘を持っていた七瀬さんの両手を、覆い被すように掴む。
その手は、ちょっぴり柔らかく、とても冷たかった。
状況に驚いた直後に、兎のように体を丸ませながら、更に下を向いて表情を見せない七瀬さん。
七瀬さんの身長は、ただでさえ僕と10センチほど低かったのに、丸まって更に七瀬さんの姿が小さく感じる。
「……あの。今日は、僕の家に──」
「え、ぁ…は…!! ごごご、ごめんなさい、無理です!! ごめんなさい───っ!!!!」
七瀬さんは急に動揺して、赤面を露わにして猛ダッシュで走り去っていった。
え? う、嘘。あれ。僕が僅かに微笑んだのが、ちょっぴり気持ち悪く取れてしまったのだろうか?
それでも僕は必死に追いかけようと、七瀬さんが逃げた方向に走る。
「ま、待って下さい、話を──へ!? ちょっと!! 足早い!?」
情けない事に一瞬にして、僕は撒かれてしまう。思わず間抜けな声が出てしまった。
流石に、僕の家に招こうとするのは無理があったのだろうか。何故ダメだったのか、理由はともかく……。
「はぁ……はぁ……七瀬さんを、逃してしまった……!」
やり直し早々に、大いなるヘマをやらかしてしまった。傘を落としたおかげで、髪も制服もびしょ濡れだ。
引き止めるはずが、こんなにも一瞬で距離を取られてしまった。
僕の足が遅かったんじゃない。七瀬さんが、本当に速すぎたんだ。言い訳なんかじゃない。このままだと、七瀬さんは……これからどうすれば……。
「はぁ……はぁ……。あ、あれは……」
息切れし、雨に濡れる最中。とある人が目についた。
「え、またですか!?…いえいえ、分かりました、今すぐ向かいます。場所は──」
この前見た、電話をしていた青年のサラリーマンだ。
電話を切った後、上司の愚痴を呟いていた。その後、彼は道路に停まっていたタクシーを見かけ、乗っていった。
ここは過去の世界。あのサラリーマンも、全く同じ行動をするという訳か。
………まさか、こんな僕が。生真面目に勉強して、人を傷つけたくなくて。
他人を避けて、「友達」なんていなくてもいいと思っていた僕が、死ぬはずの他人を救おうとするような羽目になるとは……。
あくまで想像だが、誰かに試されている感覚がした。このスピナーを僕のポストの中に入れた、謎の存在。
「お前は彼女を、救うのか。救えるのか」……と。
僕にとっては、周りの人間は誰も死んでほしくない。だけど、彼女の事がどうでもいい訳じゃないけど……。
正直、自分の中に強い意志は無かった。誰かを、|絶対に《・・・)救いたい……と言うような。
無論、七瀬さんにもそんな感情は抱いていなかった。
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その日の夕方。もうすぐ日が暮れそうになっていた。
自宅で濡れた髪にドライヤーをかけた後、藍色のパーカーに着替える。
時計を見て今気づいたが……七瀬さんと別れてから、既に30分以上も経過している。
……分かっている。分かっているんだ。このままじっとしている程、彼女が助かる確率も低い。
けれど僕は七瀬さんの家を知らない。そもそもどんな行動をすれば、七瀬さんの命は救われるのかが分からないんだ……。
いやいや。だからと言って、このまま何もしない訳にもいかないのも事実だ。
七瀬さんが事件に巻き込まれるのは、恐らく七瀬さんの家。どうにか住所が分かる方法があればいいのだが……。
彼女の家の住所……そんな情報、僕なんかが知るわけがない。
なんせ、彼女と出会って「まだ浅い」から。逆に言えば、よほど彼女と「交流が深い」友達、なら……。
その時、一つ案が浮かぶ。村野なら、七瀬さんの家を知ってるんじゃないか。
僕の事を親友だと、村野は思っているらしいし、頼んだらきっと教えてくれるはず……。
村野はもう家に帰ってしまっただろう。それなら、一刻も早く行動に出なければ。
僕はビニール傘を持って雨の中、急いで村野の家に向かった。
携帯で電話を掛けようかと迷ったのだが……今は一刻も無駄にできない。このままだと、もうじき夜になって間に合わなくなる。
カーッ、カーッ
その時、自宅の上にカラスの群れが飛んで通り過ぎたのを目撃した。
「……はぁ? 急にどした?」
僕は村野の家に押しかけて、私服のシャツ姿で玄関から出てきた村野に、七瀬さんの家の住所を聞く。
「は!? てめー馬鹿かよ!? こんな暗い時間に押しかけられても、七瀬が困るだけだろ!」
「いや、頼む。そこを何とか…」
「何で案内しねーとダメなんだよ? 俺、もう学校終わりで疲れたんだけどさー」
ちょ、ちょっと待てこいつ。思ったよりも難敵だぞ。
僕は諦めきれず、「住所を教えてくれるだけでもいい」と顔を近づけ、村野に頼み込む。
すぐに返事は返ってこなかったが……僕の様子を察したのか、呆れた息を吐きながら、彼女の家に案内する、と言ってくれた。
「さっきも言ったけど、勝手に俺たちに押しかけられたら、七瀬も驚くだろ」
「説明してる時間も惜しくて。……妙に胸騒ぎがするんだ。ごめん」
「え、謝んなよー? 七瀬の変わり者癖が移ったか? まあいいや──よっしゃ、早くついてこいよ!」
村野は急にテンションを変えて、玄関の傘を素早く持った後、先走りで玄関を出て案内してくれた。
彼の機嫌の変わり具合には、何度も困らせられた事がある。
もう外は暗い。………頼むから、無事でいてくれ。
「は……? お、おい神崎。あれって……!!」
「えっ? ……!! あれは……」
期待はすぐに、いとも簡単に裏切られた。
雨の中。住宅街のはるか遠くに、一つだけ燃えている住居があった。
……村野の驚く様子からして間違いない。あれがきっと、間違いなく七瀬さんの家だ。
「ちょ、ちょっと! あれやばいって!? は、早く行くぞ……!!」
村野は青ざめた顔で、その住居を指差した。僕たちは、すぐ近くへと向かうことにした。
だが既に、近隣住民が辺りで騒いでいて、消火活動も行われていた。
サイレンの音や放水の音に、住民たちの不安の声ががやがやと聞こえる。
「……七瀬……? おいっ、どうすんだよ!? ここ七瀬ん家だぞっ──!?!?」
建物の中に向かおうと焦っている村野。だがそんな村野を、消防隊員が止める。
……僕は、何もできなかった。
周りの音をかき消すように、雨がザーザーと勢いを増して降ってきた。
それでも、炎が消えることはない。
雨水ですら消せないほど高く燃え上がっていた炎は、家全体を焼いていた。
せっかくのチャンスだったのに、これじゃ自分があんまりにもダサすぎる。
僕は呆然とその場に立ち尽くし、『赫い炎』が少しずつ消火されるのを待つ事しかできなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「……非常に残念だが、うちのクラスの七瀬実花さんが亡くなったとの連絡が入った」
……まただ。
翌日。学校の教室で、また前と同じ話を厚見先生から聞いた。
ちらっと村野の席を覗くと、そこにいた村野は、あの時よりも……遥かに落ち込んでいるように見えた。
あんな光景を、僕が見せてしまったんだ。傷つくのも当然だろう。
そうだ、僕のせいだ。
僕があの場所に村野を連れて来たせいで……余計に村野を傷つける羽目になってしまった。
過去を変えても、良い事には繋がらない。今回、何より実感させられた。
もっと他に、できる事があったはずなのに。
もっと他に、七瀬さんにしてあげられる事があったはずなのに。
もっと他に、僕が──。
……いや。そもそも、間違いだったのかもしれない。きっと七瀬さんは、亡くなる運命だった。運命は、そう簡単に変えられはしない。
僕が余計な事をしてしまったせいで、僕が過去に戻らなかった時の村野より、もっと彼の心に傷を負わせてしまった。
──家に帰るか。
放課後、とぼとぼと歩いて家に帰った。やはりリビングに、叔母さんがいる。
「お帰り!……どうかした?なんだか疲れてるみたいだけど」
「…叔母さん。ポストに入ってた、スピナーってある?」
「スピナー?もしかして、あれの事?」
そう言って叔母さんは雑巾で窓の掃除をしながら、机にある「タイムスピナー」を指差す。
……あった。どうやら更にもう一度、チャンスはあるらしい。
その時、本来あるはずの『タイムスピナー』と書かれた紙は、添えられていなかった事に気が付いた。
けれど、今回みたいなミスを再びやらかしたくなかった。
回すのを渋った。このまま過去を変えなければ、未来も変わらない。下手をすれば、さっきのように、いや、寧ろもっと悪い結末が待っているかもしれない。
けれど、椅子に座ってテーブルの上のそれを見続けていれば、やがてその考えは薄れていった。
最後に見せてくれた、七瀬さんの笑顔が頭に浮かんだ。命が失われるのを黙って見過ごす訳には、いかなくて……やっぱり、僕の正義感が許さなかった。
恐らくかなり真剣な表情をしていたと思う。
家の窓を拭く叔母さんをよそに、僕はスピナーをサッと手に取って、回した。
キュル──────
その瞬間、身体や、世界が震えだした。
ジャ────────ッ…………………
スピナーは、前よりも少し長く回っていた。
カチャッ。
そう思っていると、突如として回転が止まる。
その手にタイムスピナーは無く、叔母さんの姿もない。
ぼんやりとした視界。数秒は体を動かさず、じっとしている事にした。
……ん?
さっきと戻った場所が全然違う。ここは室内だけど、自宅ではない。静かで、見慣れた空間。……あっ。
そうか、ここは学校図書室だ。今は、「赤髪の女子高生と廊下でぶつかった直後」……つまり、七瀬さんや村野と帰り道を歩く前、その時間帯だろう。
…これからどうする?壁に掛けられた時計を見たが、七瀬さんの家が火事に遭うには、まだだいぶ時間が残されている。
でも、何も行動しない訳にもいかない。
さもないとまた、1度目と同じことの繰り返しになるだけだ。
スピナーを回した直後の副作用か何かなのか、ぼやけていた視界が、やっとはっきりした。すぐに椅子から立ち上がって七瀬さんを探す。
七瀬さん……この休み時間の今、どの場所にいるだろうか。
すると、廊下で誰かと話している七瀬さんを見かける、あれは……。
「そういう事は、他の人に教えてもらいなさい」
僕らの2年クラスの担任である、厚見先生だ。
いつも黒縁の四角い眼鏡を欠かさない先生は何だか真面目な印象だが、同時に、茶色の髪や顎と口元にある長すぎない髭も、優しげで親しみやすい雰囲気だった。
けれど今の厚見先生は、親しげというよりかは、ムッとしていて厳しげな様子だった。
「で、でも。この空白の答えが、どうしても分からないんです。厚見先生なら社会に詳しいと聞いたので、どうかヒントでもいいので教えてもらえませんか……?」
七瀬さんはある書類の一部を先生の隣で見せながら、困り果てた顔で指差していた。
両面に印刷されていたので、裏面の方をよく見てみる。
……あれはもしかして、社会のテスト用紙か?よく見ると、あれは1年生のテストだ。
七瀬さん、実は勉強熱心なのか。今夜死んでしまうのに、真面目に勉強するだなんて……考えるだけで嫌な話だ。
「悪いけれど、私も忙しいんだ。だから他の人に教えてもらいなさい」
「ま、待ってください……っ!」
厚見先生は七瀬さんに背中を向けて、そのまま立ち去っていってしまった。
その途中、僕を横切る。先生は少し堅い顔をして、顎を掻いていた。
……僕が思うに、厚見先生は少し怒っていて、かつ焦っている様子だった。
前に職員室で、忙しそうに書類を書いていた厚見先生に恐る恐る質問をしたものの、快く答えてくれた事がある。
厚見先生……最近なにか相当、
「……あぇ? か、神崎くん?」
そんな時、厚見先生から僕に視線を変えた七瀬さん。
僕が2人の会話の一部始終を見ていたことを気付かれてしまった。
「そ、そのええと……っ」
「……七瀬さん、その、図書室に来て。分からない所があれば全部教えてあげるから」
「──えっ!?!?」
ちょっとした気配りも、七瀬さんにとっては嬉しいようだ。
その言葉を聞いた七瀬さんは、驚いた後、感謝の思いを僕に伝えた。
………学校図書室で、まじまじとテスト用紙を見ながら、勉強する七瀬さん。
「これは、教科書の128ページ」
「わ、分かりました! ひゃ、ひゃくにじゅーはち……」
「えーと、あんまり焦りすぎなくてもいいからね」
僕は隣同士の席で、七瀬さんに指差して指示する。
真面目に僕の指示に従って、一生懸命に教科書をめくりながら用紙の空白を埋めていく姿が、どこかかわいらしい。
「わ、私、夢だったんだっ」
「え?」
「……神崎くんに、勉強を教えてもらうこと」
ふと教科書から目を逸らし、胸を躍らせながら、純粋な笑顔をこちらに向けてきた。
視線が合った。僕はその言葉に驚いていた。
「……そんなに僕、勉強教えるの上手くないでしょ」
「ううん、上手く無くてもいいんだよ? 私だって頭バカだし、教えるの大変だよね?」
「まあ、そうだね」
「ひ、否定しないんだぁ……」
急に涙目っぽくなる七瀬さん。感情を、仕草や表情で表すのが得意なのだろうか。
それを隣で見ていて、楽しいと思った。
「──でもね、教え方なんて関係ないんだよ。私はただ……」
「ただ?」
「神崎くん以外じゃなくて、神崎くんに教えてほしくて。だから今、すっごい幸せなの」
僕は目を見開いた。何で七瀬さんは、そこまで僕に拘るのだろうか。
そういえば、僕が七瀬さんを知る前から、七瀬さんは僕を知っていると言っていた。
「……七瀬さんは、いつから僕のことを知ってたの?」
「え。えーと……は、春の二年。二年生になりたての頃に教室で、あ、目の前にすごい人いるなぁって」
「すごい人?」
「た、大した意味はないよ!! ……神崎くん、あの場ではほとんど一人じゃなかった? 後ろから声を掛けようか何度も迷ったんだけど、もしかしたら『人と関わりたくない事情』があるのかなって。だから、勇気が出なかった」
僕の背後でおどおどと困惑している、七瀬さんの様子が想像できた。
……「人と関わりたくない事情」、か。確かに図星だ。
「だから……えへっ……! 迷惑とかじゃなければ、これからも沢山、分かんないとこ教えてくれたらなぁって!」
七瀬さんの満面の笑みは、一瞬で僕の目に焼きついてしまった。
僕からも、何か言うべきかと迷ったのだけれど、彼女は視線を戻し、再び勉強に専念してしまった。
それと同時に、ふと家を燃やす炎を思い出しては切なくなり、恨んでしまう。
……あんな事、二度とあってはならない。救わなくては。七瀬さんを救わなければ。そして、またゆっくり勉強を教えなければ。
もし彼女を「自分の家に帰らせなければ」……少なからず七瀬さんは助かるはずだ。
だとすれば七瀬さんを、自宅ではない「別の場所」に誘導する、とか。
「この世の運命」。それが実在するなら、一度決まっている未来はそう簡単に変えられないのか?
だとしたらしょうがない。こうなったら。
「……七瀬さんの家は、今日行っちゃダメなんだ」
「へっ……? え、えーと、それは……」
「お願い。どうか今日だけは、自分の家に帰らないで欲しい」
僕は七瀬さんに対して、正直に言う事にした。彼女は動揺している……この言葉が通じるかどうか。
あまりにも強引すぎる発言かもしれないが、こうでもしなきゃ七瀬さんは分かってくれないだろう。
「その……なんというか……ど、どうして神崎くんは、そんな事言うの? なんか不自然だよ?」
恐れていた質問だったけども、七瀬さんは食い気味な様子でこちらを見ている。
僕は、自分が過去に戻れるという事を説明しようと口を開ける。きっと七瀬さんも、信じてくれるはず……。
……待って。
慎重に考えた方がいいだろうか。ここは全校生徒が使える学校図書館だ。もし横で誰かが聞いてたと仮定する。
時間を戻せるスピナーだと誰かに気付かれれば、皆が手に入れたがる。下手すれば、犯罪に悪用される事だってあるかもしれない。
本当に僅かな可能性だけれど……ここで片鱗を表すのは、いくらなんでも良くない気がする。
誰にも口外しない方が良いだろうか……それとも、今言って、七瀬さんを納得させるか……。
「神崎くん?」
「……ううん、なんでもない。ごめん、忘れて」
首を傾げながら僕を見つめる七瀬さんをよそに、僕は彼女に打ち明けようとしていた秘密を、唾と同時に飲み込んだ。
七瀬さんはしばらく首を傾げていたが…すぐに頷いた。
その後も図書館で、僕は七瀬さんの横から、質問に答え続けた。
……結局、言えなかった。
それに、言ってしまえば、現実に悪い影響が起こってしまうような気がして。
僕はやっぱり、弱い人間だ。何事も慎重になってしまう所がある。
けれど、いつか誰もいない所で、七瀬さんには打ち明けていいかもしれない。
今回は何も打ち明けないで、彼女を救う事に決めた。
───────────────────────
やがて下校時間になり、村野に「今日も一緒に帰るか!」と誘われ、2人で雨の中、帰り道の住宅街を歩くことになった。
初めて過去に戻ってきた時と、ほとんど同じ光景だ。
この後、本来なら七瀬さんとバッタリ会うはずなの、だが……。
ふと僕は、村野に提案する。
「……村野。いきなりだけど、今から七瀬さんの家に行かない?」
「……うぇ? 七瀬んち? いいけどよ」
いや即答。
予想よりかなり早い反応に、思わず驚いてしまった。3秒も掛からなかったんじゃないか。
こうして僕らは学校帰りに、七瀬さんの家に直行する事となった。
もしかすると彼女の家に何か、「火事の原因」のようなものがあるんじゃないか。
場合によれば、火事が起こることすら防げるかもしれない。
僕らは、七瀬さんの家に着く。二階建ての平均的な住宅だ。
家の外壁には少なくとも傷が目立つ。おそらく、築10年以上は経っていそうだ。
生まれてから七瀬さんは、ずっとこの家に住んでいるのだろうか。
というのは置いといて……僕は家のチャイムを押すと、不機嫌そうな表情の中年男性が、家の玄関から出てきた。
「……どちら様だ」
うっ。声が少し怖い。
この家に居るという事は、もしかしてこの人は、七瀬さんのお父さんなのか…?
「あぁ、あの、神崎です。七瀬さんの同級生の──」
「娘はまだウチには来てないぞ」
「い、いやその、七瀬さんに用はないんです……」
……だめだ、七瀬さんの父親を前に、何故かは分からないが緊張する。
困惑している僕をよそに、村野は恐れず、普段と同じノリで彼に話しかけた。
「あー。じゃあ家ん中で、七瀬を待つことってできます?」
「……私は忙しい。娘と会ったらすぐに帰ってくれ」
「あざす!」
すごい交渉能力だ。条件付きで、七瀬さんの父親に同意してもらった。
誰に対しても友好的なのは、村野の感心できる性格だ。
こいつもやはり、前にこの家に来た事があるのだろうか? この人に対しても、どこか馴れ馴れしいような気もする。
僕たちは玄関、廊下からリビングに案内され、そこに着くと、奥にキッチンが見えた。
……ああ、そうだ。もしかするとコンロの火などが、火事の原因なのかもしれない。
僕は近くにいた七瀬さんのお父さんに、キッチンを調べさせてほしいとお願いした。
「……何の為にだ?」
「その、念の為にです」
「無理だ」
これも即答。そりゃそうか……。
『念の為』というよりかは、もう少し具体的な説明をすればよかったか。
「で、でも僕、キッチンの方がどうしても気になってて、ほら、火事の心配とか」
「
「あの、そっちの『かじ』じゃないです……」
だめだ、このお父さん、言葉が通じない。
もしかして……七瀬さんの性格は……父親譲りなのか……!?
衝撃の事実を知った後、僕は隣の村野に目線で助けを求めた。
今の僕の心を察するのはかなりの無茶だとは自覚しているのだが、頼む通じてくれ。
「ん? ああ、
何を言っているんだこいつ……いやいや、仕方ないな。「キッチンを見させて欲しい」とあからさまに不審なお願いをしているのは自覚している。
色々と疲れていたら、同時に、玄関からドアの鍵が開く音がした。
僕ら3人は玄関に向かうと、そこには制服姿の七瀬さんがいた。
村野が「よっ!」と七瀬さんに挨拶する。
彼女は靴を脱いでいた最中で、僕らの存在に気づいて驚いた様子を見せた。
「あ、あぇ?神崎くんと村野くん……だよね?」
「うん。君のお父さんに、家に入れてもらってたんだけど……」
七瀬さんは靴を脱ぎ終え、靴置き場に収納する。
それと同時に彼女のお父さんが現れ、僕と村野を見てこう言った。
「よし。娘が帰ってきたから、二人とも帰りなさい。もう時間も遅いぞ」
「ちょっとお父さん。それは神崎くんたちに失礼じゃ……」
「元々そういう約束だ」
そういえば。村野が交渉していた時、確か「娘と会ったらすぐ帰ってくれ」……って。
仕方ない。今はもう帰るしかないな。
僕らは玄関のドアの前まで来ると、七瀬さんと、彼女の父親に見送られる。
「七瀬さんの、お父さん。……どうか今日は、七瀬さんから目を離さないでください。お願いします」
「……? 何を言っているのかは知らないが、今から私は仕事に行くんだ」
真剣な表情で言ったのだが、顔を顰められてしまった。なるほど、そうだったのか。
じゃあこの人に言っても仕方がない。こういう事は、七瀬さん本人に言った方がよさそうだ。
「七瀬さん、これは、友達としてのお願いだ。人生は、突然終わる事だってある。でも七瀬さんにとってそれは今日じゃない。今日なんかじゃないんだ。だから、もし何かトラブルに巻き込まれたら、全速力で逃げてほしい。頼む」
「へっ……? う、うん。分かった。いや、ちょっと分かんない所はあるけど……。そうだね。じゃあまた明日ね、神崎くん……!」
僕はその言葉に対し、こくりと頷く。
村野は僕らの話を横から聞いて、首を傾げている様子だった。
その後、僕らはおとなしくこの家から立ち去る。
この忠告でなんとか、七瀬さんの命が救われればいいのだが……。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「……非常に残念だが、うちのクラスの七瀬実花さんが亡くなったとの連絡が入った」
……自分でも、その言葉に聞き慣れたのが恐ろしいくらいだ。
通算・3回目。学校の教室で、厚見先生に同じ報告をされ、僕はため息を吐く。
うそだ。なんで…助からなかった……?確かに七瀬さんに、しっかりと忠告をしたはずだ。
僕の忠告はまだ足りなくて、七瀬さんに届かなかったのか?
やはりそう簡単に、過去を変えることはできないのか?
それとも他に何か、「真の理由」がある………??
僕は家に帰ってすぐ、机の上を探した。
リビングでは叔母さんが、窓拭き掃除をしていた。
「お帰り!……どうかした?なんだか疲れてるみたいだけど」
「うん、色々あって。でも、もう終わらせなきゃ」
叔母さんが「何かあったの?」と首を傾げているのをよそに、僕は机の上を見る。
よし、スピナーはある。
その前に一回、考えてみよう。火事が起こった原因は、一体なんだろうか。
『そうだね。今日も絶対生きて、また明日も会おう。神崎くん…!』
七瀬さんと、最後に交わしたあの言葉。あの時の彼女の目つきと笑顔は、僕の忠告を本当に受け入れてくれてるような目だった。
それなのに七瀬さんは…今回も火事に巻き込まれてしまった。一体どうしてだろう。
これは推測でしかないが…。もしかすれば、彼女がただ単に逃げ遅れただけか、それとも……。
……七瀬さんが逃げられないよう、誰かに身動きも取れない状態にされたか。
□◇□◇□◇□◇□◇□◇□◇□◇□◇□◇□◇□◇□
──タイムスピナーを使うのは、三度目か。
戻ってきたのは……二度目、七瀬さんの家から離れる前に、「逃げてほしい」と忠告したあの直後。村野と雨の中、僕は住宅街の帰り道を歩いていた。
「……村野。やっぱり今から、七瀬さんの家に戻らないか? ちょっと心配だ」
「えぇー?? めんどっくせーなーぁ。もう俺、家に帰るモードなんだけど」
村野は「一人で行ってこいよー」と、本当にめんどくさそうな表情で言う。
………はぁ。確かに、村野を振り回しても仕方ない。一人で行くしかないな。
僕は七瀬さんの家に着く。
……最初にチャイムを鳴らさなくては。
いや待て。で、でも流石にしつこいだろうか。下手に七瀬さんにストーカー呼ばわりされるのも嫌だな。
それにこんな所で突っ立っているのもまるで不審者だ。こんな所を近隣の住民に見られたら……。
──ガチャ。
ひっ!!
インターホンの目の前で変にうじうじしていると、七瀬さんの家の扉が開いた。
「何をしているんだ」
「おっお父さん!!」
……びっくりしてしまったが、紛れもなく、七瀬さんのお父さんだ。
家の扉から出てきた彼はスーツ姿で、今から仕事に出かける様子だった。
僕と似たようなビニール傘を差していて、そのキチンと整った姿はただでさえ大人の印象だが、それが更に増している。
とっさに動揺したせいか、「お義父さん!!」みたいに言ってしまったのは……うん、スルーしておくべきだ。絶対に。
「……そこにいると邪魔だ。早くどいてくれ」
「あっ、す、すみません。……あの、誤解しないでください。僕はただ──」
「今日はもう帰った方がいい。夜になると、『不審者』が現れるかもしれん」
不機嫌で冷たそうだが、そう心配されてしまった。
そんな時、この人のスーツの胸に、きらりと光るバッジを見つける。
「──その、胸につけてるそれはなんですか?」
そう言うとお父さんは態度を変えたように、僕に近づいてそのバッジを見せる。
金色に光る、ひまわりの形をしたバッジ。恐らくだが、これは弁護士バッジのようだ。
「これは………私の仕事の証だ」
「そうなんですか。弁護士なんて、すごい。賢いんですね」
「……じゃあ、もうそろそろ行かなくては」
褒められても態度ひとつ変えず、彼は僕を横切って去っていった。
……驚いたな、七瀬さんの父親が弁護士だなんて。
いや、それはひとまず置いといて…これからどうしよう。
それにしても不審者、か。この住宅地の辺りに何か不審な人物がいないか、探すという手もある。
もしかしたら……
そう考えた僕は、この家の近所の周囲を探索しようと歩き出した。
万が一放火だった場合、近くに必ず犯人はいる。だから恐らく、手かがりも掴めるはずだ。
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はぁ……七瀬さんの家の周辺をよく探してみたけれど、不審人物はいない。
気付けばもう日が暮れそうだ。一度、七瀬さんの家の前に戻ってみるか。
住宅地のど真ん中で、僕は一度さっきの場所に戻る事にした。
「……何してるんだい?」
その時。声のした方向を振り返ると、厚見先生がいた。
厚見先生は学校にいた時と同じブラウンのジャケットに、黒い傘を差していた。
「あれっ、厚見先生?どうしてこんな所に」
「こっちのセリフだよ。私は……ここから家が近いんでね」
ここから家が近い? もしそれが本当なら、七瀬さんの家とも近いという事に……。
「もうすぐ日が暮れるね。君も早く帰りなさい──神崎君」
そう注意して、先生はすぐに背中を向けて去っていった。……七瀬さんの家とは、真逆の方向に。
厚見先生のその仕草は……どこか、不自然に思えた。
カーッ、カーッ
カラスの群れが、厚見先生と同じ方向に僕の真上を飛んでいく。
そうだ、あのカラス。前に僕らが、村野の家に押しかけた時にも見た。
あの時は村野に案内してもらった家は、もう既に火事で燃えていて……。
……いや、ちょっと待てよ。このままだと……まずいぞ。家の火事は、この時すでに始まっている可能性が高い。
僕は傘を持って走り出した。
七瀬さんの家に着き、インターホンを鳴らす。
僕はその場に立ったまま、向こうからの反応を待つ。
……10秒以上経っても、反応がない。七瀬さんは本当に、家にいるのだろうか……?
「あの……七瀬さん……?」
少し焦りながら、玄関のドアを叩く。一切返事がない。
明らかにおかしい。何か手はないかと思考を巡らせていた、その時。
ドサッ。
裏庭の方から誰かが着地するような音が聞こえた。
今のはもしかして、七瀬さんの? それとも……。
僕は恐る恐る、音がした裏庭の方に向かい、ちらっと家の壁に隠れながら覗いてみる。
「…………ッ」
……あの人は、一体?
フードで顔が見えないが、黒いコートで身を包んだ人が裏庭の真ん中あたりで、痛そうに脚を押さえていた。
ちょうどその人の頭上にある、二階の窓は開いたままだ。あそこから飛び降りたのか?
思ったより、体格がかなりがっちりしている…。少なくとも七瀬さんではない。
いやまさか、不法侵入……??
そんな風にもたもたしていると、痛めていた脚ですぐさま向こう側へ走り去ってしまった。
同時に気が付いた。家の方から、パチパチと燃えるような音がする。
………僕は恐る恐る、七瀬さんの家の窓を覗いた。
窓越しの室内には、既に手に負えないほどの炎が燃え広がっていた。
ここで事実がはっきりしてくる。今の人は……放火犯に違いない。
リビングを見ると七瀬さんはいないが、おそらく別の部屋に……!!
急いで窓を開けようとするが……やっぱり、鍵がかかっている。
消防隊員を呼んだ方がいいかもしれない。
そんな考えが頭をよぎったが、この火の状況で今呼んだとしても、すでに手遅れだ。
でも……こんな所で、七瀬さんを死なせたくない。
僕はとっさの判断で、裏庭に落ちていた鉄パイプを見つけ、それを窓ガラスに躊躇なく振り下ろす。
パリーン! と音を立てて、窓ガラスが割れる。
明らかにこれも不法侵入かもしれないが……七瀬さんの命を救い出すためだ。
僕は靴を履いたままリビングに入り、かろうじて安全で火の燃えていない足場を渡り走った。
鼻と口をハンカチで押さえながら、一つ一つ部屋をくまなく探す。
一階に七瀬さんはいない。という事は、二階にいるはず……。
そこで今度は階段を登って二階に上がる。
……汗が出てきて暑い。瞬く間に炎も、二階まで上り初めている。
「──な、七瀬さんっ……!!!」
二階に上がり、廊下を渡って直ぐそこの部屋に、七瀬さんはいた。
彼女は、白いタオルで手足と口元をきつく縛られていて、身動きが取れない状況だった。まさか、タオルで身動きも取れなくなっていたとは思わなかった。
窓も開いている。……ってことは、この部屋から不審者は飛び降りたのか。
「っ……!!!」
すると、七瀬さんの目線が僕に向いた。意識の薄い状態で声を上げようと試みている。
まだ意識がある……なら、こんな所でもたもたしている場合なんかじゃない。すぐに助けなければ。
僕は彼女の元へ向かい、まず一回ハンカチをズボンのポケットに仕舞い、息を止める。
次にその両手で、七瀬さんを縛っているタオルを解こうと試みる。
うそだ……、こんな時に限って、かなりキツく縛られていて解けない。
どうにか冷静に引っ張ると、なんとか解けたものの、時間をかなり失ってしまった。
七瀬さんの手足を縛っていたタオルを利用し、それを口元に巻いた後、僕は七瀬さんを背負って走る。
このままだと、今にも家が火事で崩落しそうだ。
燃え盛る火の中、急いで階段を降りて一階に戻り、リビングへと向かう。
「ゔぇ……けほっ、けほっ……」
七瀬さんも咳はしてるし、まだ意識はあるようだ。急げばきっと、間に合うはず。
だが家を焼くその炎。時間が経つたびに燃え盛る音は、勢いを増してゆく。
僕の肩に湿った感覚がした。七瀬さんの涙で濡れたのだろう…。こんな所で、死なせるわけにはいかない。
そんな中、リビングに戻ってきた。
急げ急げ、動け、僕の足……絶対に、絶対に間に合うはずだ……!
……もうすぐ、もうすぐだ、七瀬さん。
だが。
──ミシ、ミシミシ。
不穏な音。それは、リビングの天井からだ。
僕が上を向いたのと同時に、天井の瓦礫が襲い掛かってきた。
……そんな。嫌だ嫌だ、嫌だ。頼む、駄目だこんな所で。
僕は七瀬さんを……絶対に死なせるわけにはいかない。死なせたくなんかない……!
「あの子」と同じ目に遭わせたくなんか、ない……っ……!!
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