雨とマッチ
福津 憂
雨とマッチ
薄手のカーテンの向こうでは、朝からずっと雨音が鳴っている。その細長い指で文庫本を開いていた彼女は、栞代わりのレシートをページの間に挟むと、思い立ったように立ち上がった。
「マッチが欲しい」空の上からの啓示を読み上げるように、天井の向こうを見据えて呟く。
「ライターじゃなくて?マッチ?」ベッドに横たわり、ぼうっとした頭で映画を眺めていた僕は彼女を見上げる。「オイルが切れた?」
彼女は煙草を吸う。コーヒーを淹れ、机に向かい、本を手に取ると、煙草に火をつける。彼女がいつも部屋で見せるその一連の仕草は、まるで華道や茶道のように、洗練され落ち着き払った所作だった。彼女は煙草が良く似合った。嫌煙や禁煙が流行となっている世の中で、タール、ニコチン、副流煙、受動喫煙、そういったことを無視すれば、煙を吐く彼女は美しかった。彼女は毒林檎を齧る白雪姫だった。
彼女はいつも僕に煙草を勧める。その薄い唇で煙草を挟み、頭を傾げては紙箱を僕に差し出した。僕は小さく首を横に振る。僕は嫌煙家と言うわけでは無い。実際のところ、彼女が出掛けた後の部屋では僕も煙を燻らせるし、二人の時も、電気の落とされた寝室では誘いに乗っていた。日中の僕が嫌煙家なのだ。僕は彼女と違い、煙草が似合わない。小学生が煙草型のラムネを齧っているような、寝ぼけ眼で歯ブラシを咥えているような、間抜けな表情になるからだ。彼女もそれを分かっているから、「はいはい、わかりましたよ」といったような目を僕に向け、紙箱を引っ込めるのが常であった。
「喫茶店に行こう」マッチを欲している彼女は、鍵や携帯を鞄に詰め、黒のロングコートに袖を通す。僕に反論や質疑の為の時間は与えられなかった。ハンガーから外された上着を押し付けられ、靴べらを手に取らされ、眼鏡をかけられ、「うーん」と呟いた後それは外された。彼女は硬い靴底で玄関を鳴らし、ドアを押し開ける。十二月の冷たい風がマフラーの必要性を切実に訴えた。
「次のバスまで後三分」細い腕にはめられた小さな腕時計を覗いた彼女は、作戦指示を告げる軍人のような眼差しで僕を見る。「さぁ、急いだ急いだ」
僕はエレベーターへ向かう彼女の後に続く。割れたガラスのように冷たい空気が、歩く彼女の髪を靡かせていた。
エントランスを出たちょうどその時に、僕らはどちらも傘を持っていないことに気がついた。
「霧雨だけど、どうする?」僕は空を見上げる。細かな水滴を浴びせかける灰色の雲の、その少し下にある僕らの部屋を見る。
「あんまり時間がない」司令官は雨中行軍を指示なされた。彼女はコートの襟を立て、道路を渡った向いにあるバス停へと歩き始める。コートの中に口元を埋めた彼女は、ベーカー街の探偵のようで不思議と様になっていた。僕は急いで後を追う。彼女は僕より歩くのが早い。
乗り込んだバスの座席は殆ど埋まっており、僕らはかろうじて二人がけの椅子に腰掛けることができた。
「なんでマッチ?」窓際に座り、雨粒の流れる車窓を眺めている彼女に僕は尋ねる。
「マッチじゃないと駄目だから」彼女はそうとだけ答えた。彼女はいつもこういう風に、物事の肝心な点を僕に隠す。けれどそれはある意味では正しいと言える。ベーカー街の探偵助手は事件の捜査を、その重要な手がかりを知らされることなく、追い続けなければならないのだ。
僕らは何軒かの喫茶店を回った。彼女はどうやら、喫茶店のマッチが欲しかったらしい。かつて、喫茶店にはマッチが置かれていた。それらは店々によって趣向が凝らされており、収集品としての価値も高い。彼女はそのマッチを、雨の中を歩き回ってまで手にすることを望んだ。彼女らしいと言える。彼女はそういった、古めかしいとは言わずとも、時代の潮流によって流されかけている物が好きだった。電子タバコよりも紙巻き煙草を好み、ネット通販でパイプを眺めている時もあった。コンビニのガスライターより、重々しいオイルライターを使っていた。そんな彼女が喫茶店のマッチを欲しがることは、当然のように思われた。
彼女の懐古趣味は僕の性にも合った。分煙が進み、街中から煙という煙が消え、体への有害性が声高々に宣言される。そんな時代にあっても彼女や僕が煙草を呑むのには、「ホームズも吸っていた」「芥川も吸っていた」これだけで十分すぎる理由だった。
初めの方こそはケーキを付けるような余裕を見せていた僕らも、念願かなってマッチを手にする頃には、コーヒーすら体が拒むようになっていた。僕は手近な百貨店のドアをくぐると、トイレへ向かう。軽い潔癖症によって、ファストフード店や飲食店のトイレは僕にとっての地獄だった。小綺麗なトイレで用を済ませ、待たせている彼女のもとへ向かう。フロアには宝石店や時計店など、昔の僕にとっては縁遠い存在が立ち並んでいた。眩しいほどに照明の設置された店内には、クリスマスに向けた装飾がなされている。そうか、今年はプレゼントを買わないといけないのか。それは僕にとって、死後の世界を空想するようなものだった。
彼女は僕にとって完璧な存在だった。有名な小説のタイトルを借りると、100%の女の子だった。僕よりほんの少し低い背丈も、肩の上で切りそろえた滑らかな髪も、大きすぎない目も、小さいけれど形の良い鼻も、薄く淡い唇も。セーターの似合う骨格に、細長く器用な手指も。肩を引き寄せた時に香る服の柔軟剤も、品の良い香水も、それらに混じる煙草の匂いも。僕の名を呼ぶ、ブレスレットを鳴らすような声も、気を抜いた時の少し掠れたような囁き声も。僕の理想と何一つ違わなかった。人間がすれ違いがちな性格でさえ、僕らは何の不和も起こさなかった。お互いを理解する必要もなかった。初めて話しかけられたあの時から、僕らは同じ種族の人間なのだと直感していた。
僕は決して優れた人間ではない。彼女の助けを借りなければ大学の卒業すら危うい。助けを借りても危うい。背が高いことを除けば、整っていない顔立ちで、貧弱な体型を持つ、社会性のない人間だった。僕だって、彼女から話しかけられた日の夜は、何か犯罪に巻き込まれるのではないかと不安に思った。理想的なヒロインが突如現れるのには、何か裏がある。そんな体の良い物語はない。それが僕がこれまでに触れてきた小説や映画から得た信条であった。けれど、何の問題もなく、彼女は僕にとって100%の女の子だった。
僕は彼女から話しかけられた日のこと、付き合うまでの一連の日々、そして彼女自身のことを<無限の猿>と呼んでいる。それは確立について述べた一種のエピソードであり、十分な時間をもってすれば、猿の叩くタイプライターですらシェイクスピアの作品を生み出すと言う物である。つまり、どんな突飛なアイデアでさえ、それは達成される可能性があるのだ。それがいかに天文学的な確立であっても、「無い」とは言えない。こうやって彼女の隣に僕がいるのも、その理屈で説明がつく。今現在、僕らのタイピストはシェイクスピアの戯曲を打ち出し続けている。しかしそれは、僕らの関係の恒久性を指している物ではなかった。
戯曲をなぞり続けているタイピストは、一字一句間違うことはなく今まで書き続けてきた。しかし、その戯曲がこれからも続く可能性は、次の瞬間、タイピストが般若心経を叩き始める可能性と等しいのだ。彼女と迎える正月を、春を、夏を、秋を、僕は思い浮かべることが出来ない。けれど僕はそれを不安には思わない。僕らの関係は必然の賜物ではなく、全て偶然の上で成り立っている。落ちる枯れ葉の動きを予想することが無意味であるのと同じように、僕らの未来を考えることは全く持って意味を持たない。
僕が百貨店を出ると、霧のようであった雨は雫になり、アスファルトの上を流れていた。すでに停留所で待っていた彼女は、時刻表の前に立っている。彼女のコートは雨に濡れ、黒い生地がより一層暗くなっていた。
「遅い」彼女は僕を睨む。濡れた髪が薄く頬に張り付いていた。
「ごめん」僕はポケットからハンカチを取り出し、彼女の髪を少しでも乾かそうとする。
「トイレ」彼女は僕を睨んだままでいる。「トイレ行ったでしょ。ハンカチで手拭いたでしょ」
「大丈夫。ペーパータオルがあったから」僕がそう言うと、彼女はようやく鋭い目つきを和らげた。
僕は彼女の目元を拭い、前髪の水気をとる。僕が手を押すのにしたがって、彼女の頭も後ろへと動いた。彼女は笑う。僕は彼女の笑顔も好きだが、さっきみたいに尖った目つきも好きだ。澄んだ瞳から放った光線で、周囲のビル群を切り裂くような、そんな目線の少女。
そんな少女との未来を、僕はやっぱり想像できない。ウェディングドレスに身を包んだ彼女、彼女と腕を組む僕、涙ぐむ両親、ベビーカーと哺乳瓶、ランドセル、部活着、リクルートスーツ。どれもぼやけている。自分の卒業や就職でさえ、実体を持たず、口承された幽霊のような、おぼろげな未来だった。
両親は僕の人生を不安視し、僕自身もそれを怖がっている。けれど、それはどうだって良い、そう思うべき物だと妄信している。
雨に濡れた十二月のバス停で考えるべきなのは、彼女がポケットの中でしっかりと握っているそのマッチが、数十分後にも火を灯すかどうかであった。
雨とマッチ 福津 憂 @elmazz
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