第27話♭ 微かな波乱の予感を感じつつも静かに待つレストラン





 泣き崩れる店長に、俺はそっと言葉をかけた。


「姉さんの最期のメールがどんな文面だったのかは俺には分かりません。

 でも、その言葉が全てなんだと思います。

 悪いのはあなたじゃない……いや、あなただけじゃないんですよ。

 陰謀を企んでいたその研究機関も悪い。

 その陰謀を知りながら姉さんを助けられなかったあなたも悪い。

 けど、そもそも家族が軽井沢に行くきっかけを作った俺も悪いし……

 日傘を飛ばした深山も悪い。

 飲酒運転をした藍澤さんのお兄さんは当然として、

 俺の父さんだって自分の命を諦めたのは良くなかったって思います。

 姉さんだって、店長の言葉を信じなかったんだから悪いんですよ。

 なら、あの事故に関わったほぼすべての人間が悪かったんです」


 結局、責任の所在を探そうとすると、それがどこにあるのか分からなくなってしまうのだ。

 事故というのは、きっとそういうものなのだと思う。


 もちろん、飲酒運転という大罪の元、危険運転致死傷を犯した藍澤さんのお兄さんは救いようのない罪を犯している。

 けれど、そのお兄さんも、自らの命というこれ以上ない対価を払ってその罪を償ったのだとすれば、もう、あの事故に関して誰かが罪に問われる必要はないのだ。


「深山夫妻にも、藍澤さんにも言いましたが、

 店長、あなたにも言います。

 俺はもう、誰も恨まないって決めたんです。

 誰かを恨んで生きる人生なんて、俺はお断りですから。

 そうやって誰かを想い続けて生きるのなら、

 俺は恨むんじゃなくて、愛したいですよ……」


 自分で言っていて臭すぎるとは思うが、それが本音なのだから仕方がない。

 俺がそう言って笑うと、店長は俺の顔を呆けた様に見つめた。


「……君は、その全てを許すというのか?」

「……だから、そう言ってるじゃないですか?

 恨み続けるくらいなら、俺はみんなを許して笑顔で生きる人生を選びますよ」


 苦笑いを浮かべる俺につられるように、店長はその口の端を吊り上げた。
















 少年の言葉を受けて、私はただただ感心してしまった。


 その懐の大きさに。


 深山夫妻も、飛鳥も、そして私も、彼に謝ろうとしていたつもりで、結局は自分の抱えていた重い罪を彼に押し付けようとしていただけだったのだと気付いた。


 結局は、私も彼に許されたくて、こんなことをしていたのだ。


 彼が不用意に真実に辿り着かないように、私はあの夏の事故の関係者をかき集めて監視して、彼を守っているつもりになっていたが、それだって誰かが抜け駆けをして、彼に赦しを乞おうとするのを監視していただけだったのだ。

 彼の為ともっともらしい理由を並べて、私は自分を守るためにこれまでずっと生きて来たことに気付かされてしまった。


 そして、彼は、そんな小狡い私の全てを『そんなこと』と一蹴し、その全てをあっさりと受け入れて、そのまますべてを許してしまったのだ。


 そのあまりの懐の深さに、私は感心してしまったのだ。

 この感情は、旭さんに向けた感情に近かった。

 いや、近いだけで、根本が大きく異なっているのだが……


 私の罪が許されることなど、『奇跡』が起きなければ無理だと思っていた。

 私は彼に許されず、恨まれ続ける未来しかないと思っていた。

 それが運命なのだと、諦めていた。

 だって、運命を書き換える力を持つ、彼女はもう死んでしまったのだから。


 でも、『奇跡』なんて必要なかったのだ。


 『奇跡』なんて言葉で片づけてはいけないのだ。


 もっとも辛い彼が、その答えに至れたのは、『奇跡』なんて陳腐な言葉で片づけて言い訳がないのだ。


 無慈悲で理不尽な交通事故で、彼は家族と平穏を失った。

 その現実に打ちのめされて、膝を折って、転げまわって……

 彼はその深い絶望の底に、うずくまったに違いない。

 それはきっと、想像を絶する絶望の闇の底だ。


 少年は『自分も悪かった』と言っていた。


 それは、彼が一度至った結論だったのだろう。

 タラレバを重ねれば、あの事故のような責任の所在があやふやな出来事は、誰のせいにも出来てしまうから。

 彼はきっと、一度は『すべては自分の責任だ』と結論付けたのだろう。

 そして、彼は何よりも辛い選択肢を選んだのだ。


 『誰も責めない』という、我慢の選択肢を。


「……なんて、バカな奴なんだ、君は」


 理不尽を理不尽のまま、無慈悲を無慈悲のまま。

 目の前の過酷な現実を受け止めて、それでも前を向いて、笑顔でいる。


 それが、彼のゆるぎなさ。

 それが、彼の真実なんだ。


 『奇跡』なんて言葉では片付けられない強い心。


 思えばそれは、彼女も同じだった。

 

 ゆるぎない強さ。

 それは確かに姉から弟へ、しっかりと受け継がれていた。


 私は、本当に心の底から、彼の不器用すぎる選択に、愛しさとともに涙が溢れた。

 そして、気が付けば私はその両手で、少年のことを抱きしめていたのだった。














「……なんて、バカな奴なんだ、君は」


 そう言って、店長は俺のことを抱きしめた。


「て、店長!?」


 慌てふためく俺のことなどお構いなしに、彼女は俺のことをきつくきつく抱きしめた。


「……どうして君は、そんな辛い道を一人で……」


 その両目から、ボロボロと涙をこぼしながら、店長は俺の頭をその胸に抱きよせて、何度も何度も撫でまわした。


「て、店長……ちょっと……息が……」


 店長の大きな胸に埋もれそうになる顔を、必死に彼女の胸から離そうともがく俺に、店長は涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で思い出したように言った。


「……少年、君が私に聞きたかったことって何だったんだ?」

「……あ、ああ……それはですね……」


 彼女の質問を受けて、俺は彼女にぶつけるつもりだった言葉を、ここで言うべきかどうかを悩む。

 冷静に考えれば、さっきの言葉以上に恥ずかしい質問だったから。


 でも、ここで言わなきゃいけない気がして、俺は覚悟を決めてその言葉を口にした。


「……えっとですね。

 その、ふざけてるとかじゃないので、真面目に聞いてくださいね」


 俺はそう言って前置きをしながら、店長の腕を振りほどき、彼女と少しだけ距離を取る。

 そして、


「俺は、あなたのことを愛しているんですけど、

 あなたは俺のことをどう思っているんですか?」


 俺は、そんなこっぱずかしい質問を、

 店長に真正面から大真面目にぶつけたのだった。


 過去の真実がどうでも良いと言えばそれは嘘になる。

 けれど、そんな事より何よりも、

 俺にとってはこの質問の答えの方が何百倍も重要だったから。


 俺の言葉を受けて、店長は目を見開いて硬直してしまう。


 だが俺は、ただひたすら、店長からの答えをじっと待っていた。



















 返す言葉がすぐにみつからなかった 。


 まさか、こんなタイミングで少年が私にプロポーズしてくるとは思っていなかったのだ。


 こっちは恨まれるのも覚悟で、ずっと心に抱えて隠して来た渾身の真実を告白したと言うのに。

 それをと切り捨てて、繰り出されたのがこれでは、さしもの私も言葉を失っても仕方がないだろう?


 ただ、心に満たされた感情は、他でもない喜びだった。


 それこそ、涙が出るほど嬉しかった。

 こんな状況だと言うのにこんなにもと決めていている自分に引いてしまう。

 でも、それでも、胸を満たした感情は彼の言葉に対する純粋な喜びだけだった。


「その……どんな質問にも答えて頂けるはずでは?」


 私があまりにも長く、沈黙を貫いたからだろう。

 少年は、そう言って私に返事の催促をして来た。


 しかし、私はその答えに窮してしまう。


 少年の気持ちは、もちろん嬉しい。涙が出るほどに嬉しい。

 

 でも、この胸にはまだ、彼女の姉の死に関する禍根が残っているのだ。

 だが、それを理由に断るのは、きっと彼も、そして彼女の姉である旭さんも納得してくれないだろう。


 だから、私もそこを理由にこの言葉の答えを選んだりはしない。


 彼のことをどう思うのか……その問いは、きっと彼が想像する以上に私にとっては複雑なのだ。


 最初は、正直、義務感だった。

 旭さんのメールで彼のことを頼まれてしまった以上、私は彼女への懺悔の意味も込めて、命を懸けて彼の幸せを守ろうと誓っていた。

 だから、ずっと彼に知られないようにしながら、彼のことを見守って来たのだ。

 そうやって彼を見守り続けるうちに、義務感とは違う感情が私の中に生まれた。

 それは多分、肉親を見守るような……弟に向ける姉の感情のようなものだったと思う。

 義務から来る保護が、成長を見守るための保護にいつの間にか変わっていた。


 そんな感情が、大きく変化したのはいつからだっただろうか。


 きっかけは、多分、あの店で大学生と揉めた私を、彼が助けてくれたときだったと思う。

 生意気な弟のように思っていた彼が、いつの間にか頼もしい一人の男性として私の前に立っていた。

 ……彼が私を通じて、旭さんを見ていたのは知っていた。

 だから、勘違いしないように必死に自分に言い聞かせていたのに……

 私が体調を崩したとき、彼は誰よりも先にそれに気付き、私のことをまた守ってくれた。

 彼が私を一人の人間として接してくれる、バーでのやり取りが心地よかった。

 彼が私の向こうに旭さんを見ていることが、いつの間にかもどかしくなっていた。

 気が付けば、もう私は、彼のことが大好きになってしまっていた。


 だから、彼の言葉が嬉しくないわけがないのだ。

 それは、間違いないのだ。


 でも、


 私は、彼と年が離れすぎている。

 彼のすぐ近くには、満月がいて、飛鳥がいて、万里子がいる。

 彼女達が彼に想いを寄せているのを、私はもちろん知っている。

 そして、彼もそんな彼女達を悪からず思っていることもだ。


 なら、私なんかよりも、彼女たちの方が彼にふさわしいのではないだろうか。


 私の方がずっと年上で……

 きっと私の方が先に、おばさんになって……

 おばあちゃんになって……

 醜くなってしまうのだ……


 そうなったら、彼は私のことを嫌いになってしまうのではないか?


 私はもう、彼のことを悲しませたくない。

 けれど、どうしたって私の方が先に、人生の終わりを迎えるだろう。

 もし、万が一彼がそのときまでずっと私を愛してくれていたとして、

 そうなったとき、私はまた彼に大切な人間を失う悲しみを押し付けてしまうのではないだろうか?


 そんな、どうしようもないことを考えて、私は自分の素直な気持ちを彼に伝えることが出来ないでいた。


「…………わた……しは……」


 彼に好きだと伝えたいのに、伝えていいのか分からなかった。

 私なんかが、彼のことを好きになっていいのか分からなかった。

 頭の中が、もうぐちゃぐちゃで、言葉が出て来てくれなかった。


 そして、言葉を出せない口の代わりに、私の瞳からはただただひたすらに涙ばかりが溢れるのだった。


















 泣き出してしまった店長を見つめて、俺は何故か愛しさが溢れた。

 その泣き顔から、彼女の気持ちが溢れて伝わって来ていたから。


 だから、俺は言葉を告げられない店長の、胸の中の疑問に言葉を返すことにした。


「店長」


 彼女の胸に溢れる、不安をかき消せるように。


「俺は、店長が店長だから、涼宮皐月だから好きになったんです。

 その飽きっぽい性格も、不器用な優しさも、率直な言葉も……

 実は考えすぎてしまうところも、年齢差を気にして落ち込んでいるところも、

 店長の話してくれた過去も、これから先の未来も、丸々全部ひっくるめて……

 俺は、あなたを愛し続けますよ。

 だから……過去も現在も未来も本当にあなたの丸ごと全部を俺にくれませんか?」


 そう言って、俺は彼女に向けて手を差し伸べた。
















 少年の想いが、その言葉からすべて伝わって来た。

 私をどれだけ思っているのかも、その言葉に込めた彼の覚悟も。


 私の不安も、想いも、本当に全て受け止めてくれた。

 

 ああ、もう、本当に敵わない。

 そう感じた。


 だから、


「……私も、君が大好きだ。

 愛しているよ、少年……いや、ひろ


 私は勇気を絞り出す。


 彼が見せてくれた、覚悟と決意に応えるために。

 彼がくれた数々の言葉に答えるために。


 私はもう、きっと、彼無には生きられないだろう。

 自分が、ものすごく重い女になるだろうことを自覚して、私は苦笑いを浮かべてしまう。


「……ふふ、本当にいいのか、少年?

 私はきっと、君が思った以上に嫉妬深くて、重たい……面倒な女だぞ?」

「あはは……あなたが面倒なのは、今に始まったことじゃないでしょう?

 そんなの構いませんよ、それだけあなたが俺を好きだって証拠じゃないですか」

「言ったな、少年?

 もう言質は取ったからな? 引っ込ませられないぞ?」

「ええ、もちろんです。

 引っ込める気もないですから……だから――」


 私は、それ以上先の言葉をその唇ごとのみ込んで、少年にむさぼるような口づけをした。


 彼の身体を、きつくきつく抱きしめて。

 その存在を確かめるように。

 彼ののことを離さないように。

 力の限り抱きしめた。


 結局私は、旭さんと同じ人を好きになってしまったらしい。


 だから、そっと心の中で、旭さんにもう一度謝罪をした。


『あはは、それについては、許すかどうかは別問題ですからね、皐月さん?」


 ――っ!?


 旭さんの言葉を聞いた気がして、私は思わず少年の唇から自分の唇を離して周囲を見渡してしまう。

 もちろん、そこに彼女はいない。

 いるわけはない。


 すると――、


「逃がしませんよ、もうあなたは俺のものですからね」

「っんむ……」


 少しむっとした顔で、今度は少年が私の唇をむさぼるように、その柔らかい唇で私の口をふさぐのだった。





 続く――。

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