Episode.7 弟の世界
それから僕と老人は、春喜が眠っているベッドのそばにあった、小さな丸いテーブルと椅子が二つ切りの席に腰掛けて、長いこと話をした。
「なぜ…春喜が神と呼ばれるのですか…?」
老人は少しの間、上手い言い方を考えているように、自分の顎髭を片手で伸ばすようにいじくっていた。
「…我々人類は少しずつこの世界へと移され、初めの頃は全員が戸惑ったままで、元居た世界にあったような、社会といったものは、無いも同然でした。…しかしこの世界にある物質が前の世界と同じように扱えると知ってから、技術者であったものはそれを研究しながら様々に生活に必要な物を作り出し、そして我々は元のように社会を作り上げて、「一体自分達はなぜ急に存在ごとここに送られたのだろう」という問いだけが残ったまま、もう一度世界を構築したのです…」
老人がそう言った後で少し黙っていると、僕たちが就いていたテーブルの上に、湯気をたたえた小さなティーカップが突然現れた。あまりのことに僕はまたびっくりして、身を引いてあたりをきょろきょろと見回す。でも、急にお茶が現れるような理由はどこにも見当たらず、老人に目を戻すと、彼は春喜を見つめていて、「ありがとうございます、ハルキ様」と、春喜に向かっておじぎをした。
まさか、これを春喜が用意したんだろうか?眠っているのに?
「頂きましょう。ハルキ様のお心遣いです」
老人は有難そうにお茶のカップを口に運ぶ。ティーカップとソーサーは白く、縁に金色の模様が描かれたものだった。僕もこわごわカップを手に取りひと口飲んだけど、変な味もしない、美味しいお茶だった。でも、紅茶とも緑茶とも違って、それはすっきりと青々した香りと、ほんのり甘い飲み物だった。何とも言えない不思議な味で、僕はそれをもうひと口飲んでから、カップのソーサーに戻す。
老人はまたしばらく黙っていたけど、懐かしく、そして願い事を神に向かって喋るように、切なそうな微笑みを浮かべていた。
「ハルキ様を見つけたのは、この場所でした…。その時、タカシ様はすぐそばで起きていらっしゃって、何も仰いませんでした」
まいったな。タカシまで「様」と付けて呼ばれているのか。でもその時僕は気づいた。この場所にタカシは居ない。僕の予想では、二人はいっぺんに見つかるんじゃないかと思っていたので、意外だった。老人は僕が口を挟む隙を与えず、またこう続けた。
「初めわたくしがハルキ様を見つけた時、「子供がこんな場所に一人では危なかろう」と思って、抱きかかえて安全な場所へお運びしようと致しましたが、ハルキ様のお力に阻まれました」
僕はさっき老人の身に起こったことを思い出した。触れてもいないのに、手を近付けただけで老人の手が血に染まっていたことを。まさか、春喜はこの世界ではずっとそうだということなのだろうか?
「他の者を呼びましたが、誰もハルキ様に触れられなかったため、「この方は神の申し子なのではないか」と思う気持ちが、その場に居た誰もの胸に過ぎりました」
そうか。それでこの人はそんなふうに勘違いをしてしまったんだなと僕は思い、「そんなことが有り得るはずがない」と、まだこの時は信じていた。老人はお茶を何度か口に運び、そのたびに芯から喜んでいるような顔をしていた。
「ですから、我々がここにハルキ様のために雨風を避けられますよう小さな宮殿を作りますと、ハルキ様はやっと一度だけお目覚めになり、初めにハルキ様に触れようとした時にわたくしが傷ついたことを憐れんで下さり、傍に居たわたくしの手を取って下さいまして、我々が設えましたベッドに横になり、そのまますぐにまた、長い眠りについたのです」
そこで僕は、「じゃあ春喜はずっと眠り続けているのか」と聞きたかった。しかし老人の目はもう僕を見ず、春喜に対して抱いているらしい尊敬にばかり目がいくのか、話をしながら恍惚と感謝を表すように、満たされた表情を宙に浮かせていた。僕はなんだか気味が悪くなってきた。
「我々はこの丘や、その下に広がる土地に花や木を植え、祝福を賜るため、毎朝私と数名の者がここを訪れ、お姿を拝し、タカシ様がいらっしゃれば、タカシ様の口からハルキ様のお言葉を賜ることが出来ます」
「タカシの口から春喜の言葉を聴く」?一体どうなっているんだ?でも、見渡してもタカシはここには居ない。僕は老人の話を元々受け入れられているわけではなかったけど、話が食い違っているような気がして、そこから老人に対してますます疑念を深めた。
「タカシ様の口からハルキ様が我々にお言葉を下さる時に、時々はハルキ様はご自分のご要望を仰ることもございますが、お言葉のほとんどは、外からの侵略者のお告げや、新しく「ギフト」をお授けになった者を我々にお知らせになること、それから、家族を亡くした民をお慰めになるお言葉や、我々が進むべき道を指し示して下さる、有難いお導きを下さいます…」
「ギフト」?なんのことだ?僕がそう思って口を開こうとすると、老人はそれに気づきもしないで話を続ける。
「そちらに写真立てがございますが、ある朝ハルキ様の枕元に現れましたお写真を収めてございます。お兄様である貴方様と、お母様、そしてお父様とご一緒に、ハルキ様が写っていらっしゃいます」
僕が慌てて春喜のベッドの枕元に向かって振り返ると、木で編んだような、丸くて小さなテーブルがあった。その上には、僕たち家族の写真が写真立てに入れて飾られ、写真立ての隣には、花を生けた透明の花瓶が置いてあった。その花瓶の花はまだみずみずしく、今日摘み取られたばかりに見えた。僕がそれに気を取られていると、老人が僕に向かってこう言う。
「先ほど、わたくしの傷が治ったことに、さぞ驚いたと思います」
その言葉に僕はまた老人に向き直って、真剣に話を聴こうと少し身を乗り出した。老人は僕のその態度をもっともだと言うように、何度かゆっくり頷く。それから自分の手のひらを見つめて微笑んでいた。
「…我々はこの力のことを、「ギフト」と呼んでいます。ハルキ様が「ギフト」を得た者の夢にお出になり、力を使う方法をお授け下さいます。それは、我々の世界を脅かす外からやってくる者のためです。人々はハルキ様がお授け下さったこの力のお陰で、安息と平穏を保てるのです。お兄様であらせられる貴方様にも、そのうちに、お印が表れることでしょう」
そう言いながら老人はすべてを知っているような顔で僕を見つめ、一度頷いた。僕は無意識に首を横に振ってしまった。
「なんですって…?つまり、それは超能力みたいなものなんですか?お話から察するだけですが、まさかたくさんの人がそんな力を…?」
僕はこればっかりは信じられなかった。そんな話は、ファンタジー小説や漫画でしか聴いたことがない。それに僕もそんな力を持つだろうなんて、信じようがない。だって僕は普通の人間だ。ましてやそんな力を人々に与えて回っているのが春喜だなんて、到底有り得る話だとは思えなかった。僕はだんだん頭が回らなくなってきて、うつむいてため息を吐く。老人は話を続けた。
「毎朝斥候が見回りに出かけ、侵入者があれば、見合った「ギフト」を持った者が排除に向かいます。戦場でハルキ様の光るお姿に助けられた者も数多くおります。ハルキ様はこの地を護って下さっています」
老人は当たり前のように「戦場」という言葉を口にした。それに、そこに春喜が現れると。でも待ってくれ。春喜はずっとここで眠っているんじゃないのか?僕は老人が話すことがますます噛み合っていない気がしてきた。
「春喜が…?それに、侵入者とはなんですか?ここは一体…」
驚きや疑問ばかりでくたびれてしまっていた僕は、ろくろく考えることも出来なくなっていたけど、かえって「早くすべてを聴き終えて解放されたい」と焦っていた。老人は僕にお茶をひと口勧めたので、すっかり忘れていたそれを僕は飲んだ。お茶を飲むと、不思議と疲れが少し抜けるように思えた。老人は僕の質問に答える。
「侵入者は、様々な姿をしています。あとで記録をお見せ致しますが、それらとの闘いに必要な力を、ハルキ様は我々に授けたのです。相手を打つ力、防護壁を張る力、傷ついた者を即座に癒せる力と、我々の力も様々にございます。ですから、この世界には手に持つ武器はございません。それに、平常時には、先ほどのような限られた必要のある時を除きまして、その力を使うことは出来ません」
「では、あなたは…傷を癒す力をお持ちなんですか…?」
確かにさっき、僕は老人が何らかの方法で一瞬にして傷を治すのを見た。だから、それとは違う力があることだって、考えられなくはない。でもそんなことはあり得ないはずだと、僕の本能は老人の話を拒絶している。実際にその力を目で見たにせよ、僕はいきなりすべてを受け入れることは出来ずに混乱していた。
老人はふと春喜の方へ顔を向けて幸福そうに微笑むと、そのまままた、どこを見ているのかわからない顔でこんな話をした。
「新しい世界は皆幸福で、それを分け合って平和に暮らしています。私たちは…三年前まで、神と心を交わすこともなく、神の姿を見ることも出来ませんでした。それは人類にとって、答えのない永遠の問いを胸の内に押さえ込んでいかなければいけない、大きな孤独でした…。ですが、今はそのお姿を拝することが出来、目に見える形で我々全員を守って下さる、新しい神が居て下さるのです。人類にとって、これ以上の幸福があるでしょうか…」
僕は老人がそう話すのを聴きながら、途方に暮れていた。「春喜はそんな神なんかじゃない」と言ったところで、この老人は絶対に聞き入れないだろう。薄気味悪さを感じるほど春喜の存在に心酔し切っている。
「…ハルキ様は、貴方様をこちらにお呼び出来ないことを、長い間、お嘆きになっておいででした。…我々はいつもハルキ様をお慰めして、なんとか貴方様をお呼びするため、元の世界を監視できるギフトを持った者が貴方様の窮状を見つけて、その時に初めてハルキ様はお力をお使いになり、貴方様をこちらにお連れ申すことが出来ました。」
なんなんだ。なんなんだ。一体これはなんなんだ?僕にはもう老人の話をまともに聴いている余裕など無く、頭がわやくちゃになって取り乱しそうになるのだけを必死に堪えていた。
「ハルキ様は今、幸福でしょう。そのうちにまたお目覚めになり、貴方様とお話をすることになることと思います。ですが、我々は思うのです。…ハルキ様はこの世界をお守りになるのに多大なお力をお振るいになりますために、もしかしたら長い間目を覚ましていることは、難しいのかもしれません…」
僕は、老人が次から次へと繰り出すわけのわからない話に、「もうやめてくれ!」と叫びそうになるのを抑えて、おそるおそる春喜の眠っているベッドを振り返った。春喜はただ静かに寝入っていて、起き上がることはない。すると、僕の前で老人は急に立ち上がった。
「それでは、街の方へ案内致しましょう。今日はそちらにタカシ様がいらっしゃるかもしれません」
テーブルの上のティーカップは、いつの間にか消え失せていた。僕は眩暈がしそうになりながら、なんとか立ち上がった。
Continue.
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます