Episode.2 青い男の子
僕は廃ビルから二軒隣にある駐輪場に行き、ほったらかしてあった自転車を引っ掴んで、それを葛飾へ向け走らせた。ガソリンスタンドに貯蔵してあったガソリンはすべて供給が停止して一年になるし、バイクや車は使えない。そうして自転車で一時間ほど走った。
葛飾区に入る頃には、もう夜は少しずつ深くなって、大きい国道でも街頭の限られて寂しい中、僕は葛飾区警察署に辿り着く。そして玄関を開けた。建物の一階は暗く、誰も人が居なかった。
二階へ上がって灯りの見えた「刑事課」の扉をノックすると、しばらくして誰かが怪訝そうな顔で細く扉を開けた。その人は、「なんですか」とだけ僕に聞いた。
それはもう六十にはなろうという感じの男性で、肩から胸のあたりだけが見えているスーツをすっかり気崩し、ぼさぼさの髪を長く伸ばして、髭も剃らずに皺の寄った顔で、眠そうな目をした人だった。
「あの…今日行方不明になった三十五歳の男性のことについて、少々お話が…」
するとその人は何も言わずに扉を開けて僕を中に招き入れてくれたけど、明らかに意欲を失くしているように見えて、ただ、誰かが来たら扉を開けるように言いつけられている番人のようだった。
その人は僕を、その部屋の隅にあった衝立の中ではなく、事務机の前にある回転椅子に座らせた。そうしてその人も、隣にあった椅子に腰掛けた。僕は部屋の中を見渡していたけど、中央に寄せられている六つほどのデスクには誰もおらず、「部長」と書かれたプレートの置いてある席も、空席だった。奥の方にあるソファで、恰幅の良い黒いスーツ姿の男性がスーツをしわくちゃにして眠っている他は、その人と僕意外、誰も居なかった。
「それで?何かご存じなんですか?」
そう言いながら、警察の人はポケットから何かを取り出そうと中を探る。出てきたのは、煙草とライターだった。僕は驚いた。そんなもの、ついぞ目にすることもないほど出回らなくなっていたからだ。僕がそう思っているのがわかったのか、警察の人はハハハと笑う。
「近所にある煙草屋の爺さんがね、熱心にいろんなとこからかっぱらってきちゃあ、食べ物と交換してるんですよ。今日は柿をあげたから、一箱余計にありつけたわけです」
「そ、そうだったんですか…」
「それで?ああ、そういえば行方不明になった三十五歳の男性は三人いますが。ニュースになった方の情報ですか?」
「はい。「子供が」というメモ書きに、ちょっと気になったことがありまして…」
僕たちは当然のように、そんな話をしていた。一つの区から、同じ性別と年齢の人が、一日に三人も行方不明になる。そんな事がもう当たり前となっていることに、自分が麻痺してしまい、通り過ぎているのに気付いていたのに。
「ほう。その子供にお心当たりが?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど…とにかく、その方のご家族に会って、お話をさせて頂けませんか」
僕がそう言うと、警察の人はちょっと渋い顔をして、持っていた煙草の箱から一本引き出してライターで火を点け、そっぽを向いて煙を吐いた。そうして気乗りしないような顔で、ちょっと黙っていた。
「…それはやめておいてあげてください。何の確証もないなら、私はその方の家には案内しませんよ。これでも警察ですからね」
僕はそこで言葉に詰まってしまった。確かに今現在、混乱どころか滅亡に向かっていようが、警察は警察だ。何も情報を持っていない人間に、その家族のところへ案内してもらえるはずがない。僕は必死に頭をひねって、やっと一つ、見つけ出した言葉をつぶやく。
「青いランドセル…」
そう僕が呟いて顔を上げると、警察の人は皺の寄った顔を恐怖で引きつらせ、不気味そうに身を引いていた。
…当たった。
「あなた、なぜそれを…」
「とにかく、その家に案内してください」
僕たちが向かったのは、葛飾警察署からさほど離れていない住宅街の、一軒家だった。
玄関を入る前から、庭に生えた花や草がぼうぼうに伸びてところどころ枯れているのが見えたし、中に踏み入ると、庭の飛び石を覆うように雑草が邪魔をした。
警察の人は「奥さん、開けてください。警察です。今朝来た者です」と小さめの声で言い、慎重に玄関の扉をノックした。するとしばらくして扉が開き、女性が現れた。
その女性は前屈みに首を傾け、長い髪を垂らして不安そうにこちらを見ていた。その様がまるで幽霊のようで、僕はちょっと怖くなった。
「…なんでしょう…」
微かに細い声で彼女はそう返事をして、少しふらついているのか、扉で体を支えるように手をついた。警察の人は女性の肩を抱きかかえて、「申し訳ありません。中で座ってお話をしたいことがあります。さあ、座りましょう」と言う。そうして僕達は、その家の中へ入っていった。
その家は二階建てで、一階には玄関を入って左側にキッチン、右手側には居間があった。僕たちは、居間にあるソファに向かい合って座っている。居間には、しんと黙っている大型テレビが壁に寄せられ、反対の壁に、コの字型にソファが置かれていた。僕たちの真ん中にはテーブルがあったが、その上には何も置かれていない。女性はソファに掛けても背を預けることはせず、不安そうに両手を揉んでいた。
「奥さん、もっと楽にしてください」
「…できません」
警察の人が気遣う言葉に、女性はそう答えてから、ちらと天井を見た。その時は何も気づかなかったけど、一瞬だけ、「カリカリ」という、何かを削るような音が聴こえたような気がした。
しばらくは誰も何も話さなかったが、僕はとにかく、興奮と混乱にくたびれてしまったらしい女性を刺激しないように、やんわりと話を始める。
「今日…居なくなったのは、ご主人ですか?」
女性ははっとして僕を見つめたが、その顔は泣きそうに、そして悔しそうに歪んで、うつむいてから女性は頷いた。そして女性は頻りに手を揉み合わせ始め、ガタガタと震え始めた。
「ほかに、ご家族は…?」
これ以上話していると彼女は泣いてしまいそうだったが、何かに懸命に堪えているようにぶるぶると震えて、こう答えた。
「娘が…口が利けなくなってしまって…それに…」
女性はそこで言葉を切って、自分も何も喋れなくなったように、黙り込んだまま震え続けていた。
そこで警察の人が見かねたように、僕達の間に入る。警察の人は、奥さんを庇おうとソファの隣へと移ってその肩をさすり、僕を少し睨みつけた。
「もう、部屋で休みましょう。愛ちゃんのためにも、少し休まなけりゃなりません」
僕はその時、二階から聴こえてくる「カリカリ」という音が、だんだん大きくなってきていることに気づいていた。女性はそれを怖がっているのだ。そして、おそらくそこには「愛ちゃん」という娘さんが居る。
「僕、愛ちゃんに会ってみてはいけませんか。ニュースで聴いた、「子供が」というメモが気になるんです」
すると警察の人は急に怒りだして、僕に向かって怒鳴った。
「何を言うんだね君!もうこの人たちをそっとしておいてくれ!それをわからせるためにも連れて来たんだぞ!」
僕はその言葉を背に、さらに大きくなってきた「ガリガリ」という音に向かって、居間を出て行った。
階段を上り、二階の廊下を歩いている間も、何かを削る音は止まなかった。僕の後ろには刑事さんがついてきていて、でも「愛ちゃん」のためなのか大声は出さずに、「もう帰ろう」と小さな声で言っていた。僕は、二階の階段に沿った廊下の、突き当りにある部屋の扉を開けた。
部屋の中は、真っ青だった。僕は一瞬それにぞっとして、そして部屋の壁に張り付いて、青い色鉛筆を今も必死に削り続けている、「愛ちゃん」を見た。
愛ちゃんはまだ五歳くらいに見えた。少し長く伸ばした細い細い髪を、赤い花飾りの付いたヘアゴムで二つ結びにして、ぴょいぴょいと揺らしている。服装は、ピンクのセーターとオレンジのスカートで、そこだけ伝えれば可愛らしい小さな女の子だ。それが、さっきから一度もこちらを振り向かず、扉が開いた音も聴こえなかったかのように、壁に絵を描き続けている。僕は部屋の左側の壁に寄って、小さく描き込まれた絵を確かめようとした。
それは、犬を連れてランドセルをかぶった、小さな男の子の絵だった。それがびっしりと壁中を埋め尽くし、さらにその上からも重ねて描かれているので、部屋中が青いのだ。
やっぱり、春喜とタカシだった。僕はまだ確証は得られていなかったし、この時は自分の弟がこの怪異において何の関係を持っているのかはわからなかったけど、この家に春喜とタカシが現れたのは、恐らく間違いない。
ふと、「ガリガリ」と響き続けていた音が止み、僕が女の子を振り向くと、「愛ちゃん」は機械のように首を振り、僕を見た。
まるで何も見ていないようながらんどうの瞳で、「愛ちゃん」は僕を見ている。僕はさすがに驚いて、少し気味が悪いとも思ってしまった。そして、「愛ちゃん」はそのまま、色鉛筆を持っていない方の左腕をすうと上げて、僕を指差した。
「おにいちゃん」
それだけ言った後で、愛ちゃんはその場にどさっと倒れた。
Continue.
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