第20話 英雄は帰還せず

――十五年前


「お母さま、行っちゃやだ!このあいだも、しばらくはおうちに居られるって言っていたのに!」


 身なりの良い褐色の肌の少女は母親の軍服を左手で掴みながら愚図り、右手には帝國製らしき熊のぬいぐるみを抱えていた。普段は利発な少女なのだが、このときばかりは年相応の子供らしい表情を取り戻している。


 彼女、ヒルデリア・ヴァルドゥはこのとき僅か五歳であった。本来は人形遊びやままごとが楽しい年齢である。


 が、既に魔法士、そして人形遣いとしての基礎修練を始めている。貴族の子弟であっても音を上げる修練に泣き言一つ言わずに取り組む、生真面目さは親譲りと言えよう。


 彼女の母親であるエレクシア・ヴァルドゥは、整った顔にいくらかの戸惑いの色を浮かべた。同時に彼女は、普段大人びた言動の多い我が子のたまの我が儘を喜んでいるのだった。

 しかし、あえてそれを表情には出さない。彼女の立場がそれを許さないのだった。

 自ら膝を突くように身をかがめて幼い我が子に向けて諭すように言う。


「ヒルデリア、聞き分けて頂戴。お母さはね、困っているひとたちを救いにいくの。すぐに帰ってくるから」


 真正面から見つめられたヒルデリアは、思わず顔をそらす。


「でも、お母さまは前もそう言って何ヶ月も帰って来なかったじゃない」


「そうね…約束を守れなかったことはごめんなさい。でもお母さんはお国のため、いいえ、人類のためにわるいゼールカをやっつけに行くの」


「でも、でも!」


 エレクシアの後ろに控えているユルスラはその光景を眺めつつも、直立不動の姿勢のまま表情を崩さない。元々森の守護者と呼ばれていたタムタム族である彼女は、長身痩躯でありながら恐るべき戦闘技能を持つ戦士だった。

 

 今や森を捨てた彼らは種族の生存戦略として、貴人の護衛や戦闘教官、子弟の教育係などの立場でルフトバーンの貴族社会に溶け込んでいる。それこそがタムタムの民が言う、「短耳の民ウルタム・スラ」が多数派を占めるルフトバーン王国で生きていくための伝統的方策であった。


 無論、それには過去の血なまぐさい、拭い去り難い記憶が影響している。王国貴族の側でも、契約をけして違えず忠義を尽くす彼らを雇える事が一種の社会的信用の証明となっている。彼らは大金を積めばどうにかなる類いの連中ではないからだった。


「お嬢様、エレクシア様の出発の時間が迫っております」


 眉一つ動かさず高いところから見下ろすユルスラの視線に、ヒルデリアはばつの悪そうな顔をした。彼女はこの口うるさい家令を好いていない。


――自分と母を引き離す冷血女、そんなところかしらね。


 ユルスラはそう思われていることを薄々感じつつも、彼女の小さい肩に手を置いて申し訳なさそうな顔でかぶりを振る。


「ユルスラ、また貴方には負担をかけるわね。簡単な戦いではない、たしかにそれは確かだわ……」

エレクシアはそう言って言葉を濁した。


――簡単な戦いではない、か。


 ユルスラはその言葉を心中で反芻しつつ、その言葉の先にあるものを思った。

 人類は今、確かに敗北しつつある。インド亜大陸で、英連邦軍を中心とした国際連盟軍は敗走といっていい後退を続けている。

 海岸線に近いところでは帝國海軍の水上打撃部隊が展開しているため、なんとか持ちこたえてはいる。だが、それだけだった。


 北米大陸では合衆国が一進一退の戦いを延々と続けているし、帝國は実質的な支配下に置いている満洲帝国防衛に血道をあげている。何処の国も大なり小なり対BUG戦線を抱えている以上、余分な兵力は少ない。


 それでも国際連盟の安全保障会議は人口を多く抱えるインド亜大陸の防衛作戦を承認した。インド国民が難民化した場合、食糧危機を起こしかねないという事情もその作戦を後押ししていた。

 その作戦に応じて加盟各国は、申し訳程度の派遣軍を送ってはいた。ただ、日々数を増していくBUGの大軍の前に、連盟軍は戦線を維持する事すらあやしくなっている。結局、かつて宗主国であった英国が、半ば意地だけで部隊を送り続けていた。


 が、戦果はどうにも捗々しくなかった。無論、反英感情が根強い地元住民が対BUG戦に協力的ではなかったことも影響している。こうした国際情勢下では 直接対BUG戦争の影響を受けていない後方国家に、出兵を求める声が日増しに高まっていくのも致し方ないところではあった。同盟国である帝國からも矢のような催促が行われているとあっては、王国軍も相応の部隊を送るほかなかった。

 その筆頭に、ヴァルドゥ家の者たちが所属する部隊も含まれていた。五選王家自らが出陣することがもつ政治的な効果を期待しての事だった。


「お気遣いありがとうございます。ですが、私もヴァルドゥ家の禄を食む者。エレクシア様、お家の事はお任せください」


「ええ、頼むわね。貴方の姉を連れていくわ」


「あの愚姉でよろしければ、如何様にでも」


 ユルスラは仏頂面の中に、僅かな稚気をのぞかせながら答えた。


「さて、流石にこれ以上の遅れは不味いわね。ヒルデリア、母がいない時もヴァルドゥの末姫としてきちんと振る舞えますね?」


「……でも、でも」


 ヒルデリアはなおもむずがりながらも、その勢いは弱まっていた。唇を噛みながら

も、自分が聞き分けなければいけないことを悟り初めているようにも見える。

 その逡巡を打ち消すように、小気味の良い乾いた音が響く。

 

 それが自分自身が小さな手のひらで頬を打擲された音であると悟るまで、ヒルデリアは呆然としていた。

そしてぼんやりとその手のひらの持ち主を見やる。

 

 自分の姉である姉ネフェルテリアがそこにいた。

 薄桃色のゆったりとした部屋着を着ているヒルデリアに対して、ネフェルテリアは白いブラウスに深紅の天鵞絨ビロード地のワンピースといった帝國風の装いであった。


 姉に手を上げられたことにようやく気づいた彼女は、間歇泉のように涙を浮かべながら子どもの特権である喚き声を上げはじめた。

 

 抗議と非難が込められた声に、ネフェルテリアのすました顔の端に苛立ちが浮かぶ。 


 静かに母親と家令、そして妹とのやり取りを見守っていた彼女は自らが妹に制裁を加えたことをまったく後悔していない。平民ならいざ知らず、仮にも『剣の貴族』のすえたる者が、母の出陣に際して取り乱す事には我慢ならなかった。


 彼女の早熟すぎる精神にとって、妹の愚行は理解し難い何かだった。その極端な潔癖さもまた、幼さが為せるものなのだが。


「いい加減にしなさい、ヒルデ。貴方の母上は『剣の貴族』ヴァルドゥ家の棟梁なのですよ。如何様な戦いであろうとも、武勇を示すのがヴァルドゥ。貴方も知っているでしょう」


「姉さま……」


 ヒルデリアはようやく痛みと熱さを感じるようになってきた頬を押さえながら、何かを言おうとして口をつぐむ。母、あるいは家令よりも苛烈なところがある姉こそを、彼女は恐れていたからだった。


「ネフェルテリア、その辺にしておきなさい。いかなることがあろうと、護るべき妹に手を上げてはいけません。分かったわね?」


「……分かりました、母様。申し訳ありません」


 そう言って深々と頭を下げて見せるネフェルテリアに、エレクシアは困ったような笑顔をしながら彼女の頭を撫でる。


「ええ、いい子ねネフェルテリア。ヒルデリアもいらっしゃい」

 そう言ってエレクシアは、泣きはらした顔をしているヒルデリアを抱き寄せる。


「ネフェルテリア、ヒルデリア、一緒にいてあげられなくてごめんなさい。今、ちょっと人類は窮地に立たされているの。だから……」


「きゅうち、ってなに?」


「とってもあぶないってこと。だから、私が行かないといけない。何しろ、私ってばちょっと人類最強だから」


 そう言って名残惜しそうな顔で立ち上がったエレクシアは、茶目っ気たっぷりの笑顔を浮かべてルフトバーン式の敬礼をする。


「それじゃあ行ってくるわ。ユルスラ、二人を御願い」


「了解いたしました、御当主様。命に代えましても」

 このときばかりは予備役軍人の顔つきに戻ったユルスラは、直立不動で敬礼を返す。


「うん、頼りにしているわ。じゃあね、ネフェルテリア、ヒルデリア。母さん、ちょっと行って人類を救ってくるから!」


 痛々しいほどに軽やかな笑みを浮かべながら、母は振り返らずにきびきびとした動作で歩いて行くと、車止めに停車していた軍用車両のドアへと滑り込んだ。

 カーキ色の帝國製軍用車両は、彼女を乗せてあっという間に走り去っていく。


 このとき、何をどう言って母を見送ったか、ヒルデリアは思い出せない。

 また泣きわめいたのだろうか、それとも少しはすました顔で見守ったのだろうか。


 どちらにせよ、はっきりとしていることは。

 エレクシアが二度とヴァルドゥ家の屋敷には戻らなかったこと、そして本人の言葉通りに人類を救った英雄となったことだった。

 

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