繋がり(4)
「君は芹沢の人間じゃない。だから芹沢英輔氏が亡くなってその跡を引き継ぐことに、どこか後ろめたさがあった。だから君は、もう一人の弟子である鷹山君の揶揄に勝てなかったんだろう。その辺の詳しい経緯は私にはよく分からないが――しかし、それが五年後だったなら話は変わったのではないかと、私は思っている」
赤城は一呼吸置くと、続く言葉を力強く言い切った。
「芹沢氏はおそらくそのつもりだったはずだ。そして富士川君、君自身もね」
富士川は唖然としたまま、赤城の顔から目をそらせずにいる。
「それは、その――ひ、否定はしませんが」
「……祥ちゃん? 『そのつもり』って、何?」
答えが返ってこない。
黙る富士川に代わって、赤城が素早く説明をした。
「君と結婚して正式に婿入りすれば、富士川君は紛れもない『芹沢』の人間となれるからね」
華音は思わず目を瞠った。
真偽を確かめるべく富士川のほうへと顔を向けると、そこには途惑いを隠しきれていない複雑な表情があった。
確かに――。
自分が幼い頃には、富士川と将来結婚するのだと周囲の人間たちに公言していた。華音自身も、そのことはハッキリと覚えている。
しかし、華音が中学に上がり、富士川が二十代半ばの結婚適齢期を迎えると、結婚するという言葉は幼い少女の淡い夢だったのだ、と片付けられていた。
片付けられていたはず、だったのに――。
まさか祖父や富士川自身がそのつもりでいたとは、華音は思ってもみなかったのである。
「で、でも俺は決して、華音ちゃんにそれを押しつけようなんて思ってなかったです。華音ちゃんが選ぶ相手なら誰でも……」
富士川のしどろもどろの言い訳を、赤城は簡単に切り捨てた。
「そんなことはありえない。君が『光源氏』なら芹沢君は『紫の上』だからな」
赤城は、自分好みの女性に育てるという、古典名作のあらすじを採り上げて、迷いなく決めつけるようにして説明した。
もちろん富士川は、ベッドの上でどうしていいのか分からずに、落ち着きなく辺りを見回しながら弁明を続ける。
「光源氏だなんて、本当にそんなつもりじゃないです。そうなってくれたらいいとは……思っていましたけど。でも、華音ちゃんにはまだまだ早い話ですから――」
「いつになったらいいんだ。二十歳になってからか? まったく、君はいつの時代の人間だ。まあ、敬愛する師匠の孫娘に、そうそう手を出すわけにはいかなかったんだろうが」
祖父の愛弟子と結婚する。
兄のように慕っていた大好きな富士川と結婚する。
それが祖父の希望であり、一番弟子の願いでもあり、そして華音の夢でもあった。
しかし、歯車が狂ってしまった。
「君は芹沢君のそばを離れるべきではなかった。それが、君が犯してしまった最大の過ちだ」
分からない。
何が正しくて、何が間違っているのか。
「たとえ、跡を継ぐ資格がないと弟分に言われたとしても――彼女のそばについていなければならなかった。芹沢英輔氏のためにも」
もしも、あのとき――。
「いいえ、これで良かったんです」
富士川は赤城に、そう静かに告げた。
そして淡々と落ち着いた声で、さらに続ける。
「華音ちゃんには華音ちゃんの人生がありますから。芹沢先生の希望を押しつけられることもなくなったわけですし。これからも鷹山と仲良くやっていってくれれば、それで華音ちゃんが幸せなら、俺はいいですから」
華音の全身に衝撃が走った。
「えっ!? い、いやあの、鷹山さんと……って、ど、どうしてそんな」
確かに、芹響の楽団員の中には、鷹山と華音の恋愛関係に気づいている人間もいる。
しかし富士川は違う。同じ時間を過ごしているわけではない。
「俺が気づいていないとでも思った? 華音ちゃんを見ていれば、俺はすぐに分かるよ」
「祥ちゃん……」
ふと。
赤城がじっとこちらを見つめていることに、華音は気がついた。
すると、赤城は突然、奇妙なことを言い出した。
「富士川君、君は芹沢君に兄弟がいることを知っているか?」
華音は思わず自分の耳を疑った。
この大男は、いま何と?
「兄弟? 華音ちゃんに……ですか? いえ、そんな話は聞いたことがないですけど」
富士川は不思議そうに首を傾げている。
「止めて」
「そうやって、いつまで逃げているつもりだ?」
初めからそのつもりだったのだ。
赤城が自分をここまで連れてきたのは、鷹山へのカムフラージュのためなんかではない。
富士川に対して、華音が背負っている秘密を暴露するためだったのだ。
「鷹山君が現在、芹沢氏の邸宅で彼女と暮らしている。君が昔そうしていたようにね。そのことは知っていたか?」
「止めてください! 赤城さん!」
「この二つの話はイコールだ。離れ離れになっていた二人きりの兄妹が、一つ屋根の下に暮らすことになった――ということだな」
「お願いですから、もう――もう、止めてください赤城さん……」
最悪だ。
たとえそれが紛れもない真実だとしても――。
「……鷹山が? 華音ちゃん、そうなの?」
華音が黙っていると、すかさず赤城が答えた。
「そうだ。血縁的には、彼が芹沢英輔氏の正統な跡取りということになる」
華音はもはや何も言うことができなかった。緊張のあまり呼吸もままならず、身を強ばらせじっと座っているばかりだ。
「そう、ですか」
赤城は穏やかな口調で、ベッドの上の一番弟子に聞き返した。
「それだけかな?」
「……ええ、それだけです」
幾分やつれた富士川の顔には、まったく精気がない。
長い沈黙が続く。
「そりゃあ、芹沢先生が特別扱いするわけだ。俺は初めから、あいつに敵うはずが……なかったんだな」
富士川は大袈裟に驚くこともせず、淡々と言う。
すると。
赤城は初対面であるはずの一番弟子を、ためらいもなく一喝した。
「まったく馬鹿馬鹿しい! 君もうちの音楽監督と一緒で、まだまだ青二才だな」
富士川は当然、面食らった表情を見せている。
赤城は構わず、さらに続けた。
「いいか、芹沢君は君が育てたんだ。お互い分かってるはずだろう? この先どんなことがあっても、君たちは他人に戻ることなどできない。さっきも言ったが、君は芹沢君のそばを離れるべきではなかった。過ぎたことをあれこれ言うのは私の性分ではないが、富士川君、君はずっと彼女のそばについているべきだったんだよ。たとえどのような形であっても! 君たちは、肉親よりも深い深い絆で結ばれているのだからね」
富士川は唇を噛み締めたまま、じっと赤城を見つめている。
赤城はなおも続けた。
「そして鷹山君もだ。いまさら身内として、ましてや家族として振る舞うことなどできるはずがない。彼はウィーンに留まっているべきだったのだ」
どうしてそんなことを言うのだろう。
彼は血を分けた兄である。
彼は兄ではない。
兄である。
兄ではない。兄ではない。兄ではない。たった一人の愛する男。
心が軋む音がする。
「鷹山君自身も、そして芹沢氏も、それが最良の選択だと納得していたはずなんだよ。鷹山君は誰よりも芹沢という名を憎み、そして愛している。だからこそ、芹沢の名を背負わせるべきではなかったのだ。その憎しみのために、人としての判断力が狂ってしまっているのだからな」
赤城の容赦ない言葉が、華音の胸に真っ直ぐ突き刺さった。
正しいことを言っているのかもしれない。
狂っている。人としての判断力が、狂ってしまっている――。
「いいか富士川君。鷹山君は芹沢君の実の兄だ。だから現在、『兄妹として仲良く』本来あるべき姿にとりあえず収まっている。それだけの話だ」
赤城の威圧的な声が、華音に容赦なく降りかかる。
「そうだな? 芹沢君」
このままだときっと、自分は壊れてしまう。
華音はじっと病室の床を見つめ、短く何度も呼吸を繰り返した。
「返事はどうした?」
「……はい」
狂った歯車に巻き込まれ、やがてこの身を引き裂かれてしまう。
もしかしたら、すでに自分は壊れ始めているのかもしれない――華音は目には見えない無数の亀裂を、心の奥底で感じ取っていた。
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