悪魔は優しい嘘をつく(1)

 音楽監督控室に真琴を連れていくと、部屋にはすでに美濃部青年の姿はなく、鷹山一人だけとなっていた。

 鷹山はソファに座ったまま、立ち上がって出迎えようともしない。

 それだけのことで、二人の関係がどういうものであるのか、華音には容易に想像がついた。


「君はいつも、突然僕の前に現れる」


「だって、楽人君は気まぐれだから。約束したって、どうなるか分からないし」


 やたらと親密な匂いがする。

 華音はその場に居合わせるのがつらくなり、そのまま音楽監督の居室をあとにしようとした。

 すると。


「どこ行くの?」


「……美濃部さんのところに」


「スケジュールだったらあとでいい。それよりコーヒー淹れて」


 華音はふてくされたまま、部屋の隅の給湯セットに向かった。

 真琴は断りもなく、鷹山の向かい側に二つ並ぶ一人がけのソファに、いそいそと腰かける。


「ごめんねー。楽人君と付き合ってたことを言っちゃったの。まさか今の彼女とは知らなかったから。それで機嫌損ねちゃったのかもしれない」


「別に隠しているわけじゃないけど、ここでは僕たちの関係を知らない人間もいる。公私混同だと陰口を叩かれるのは、僕の本意ではないからね」


「否定しないんだ。へえ、やっぱり楽人君の彼女なの」


「まあね」


「憎い兄弟子の大切にしてたもの、奪ったんだ」


 真琴のひと言に、鷹山の表情が一気に凍りついた。

 開けてはならない禁忌の箱を、真琴は鍵も使わず力任せにこじ開けてみせる。


「……ホント君は、そうやってずけずけとものを言う。そういうところが男を遠ざけるんじゃないの? 特に、君の大好きなあの男の一番嫌いなタイプだ」


「祥先輩の女の好みを知ってるの? 随分と仲良しなのねー」


 鷹山の毒に臆することなく、真琴は楽しそうな笑顔を見せている。

 彼の毒舌に負けない人間を、華音は初めて見た気がした。

 自分もかなり鷹山のあしらいが上手くなってきたと思っていたが、この人の足元にも及ばない――華音はコーヒーを淹れながら、元恋人同士の二人の様子を、複雑な思いでうかがい続けた。


「で? どういう風の吹き回し? アシスタント・プレーヤーだなんて」


「学生の頃は何度かやったことあるんだ。単に祥先輩の追っかけしてただけなんだけどね」


 真琴はあっけらかんと楽しそうに語っている。

 その様子を見て意外にも、鷹山は楽しそうに微笑んだ。


「さすがに真琴さんクラスじゃ、アシスタントには使えないよ」


 この二人が、彼氏彼女の関係にあった。

 誰もが羨む見目麗しきカップルだっただろう。

 どうして鷹山はここまで、真琴に対して平然としていられるのだろうか。

 自分がすぐここで見ているというのにも関わらず――。


 華音は黙ったまま、二人にコーヒーの入ったカップを給仕した。

 鷹山の視界に、すでに華音は入っていない。完全に仕事モードだ。華音の入れたコーヒーに一口だけ口をつけると、たった今思いついたように切り出した。


「もうちょっと先の話になるけど、コンチェルトの企画の決裁が下りてる。ソロ、やってみる? アシスタントよりはるかにギャラいいし」


「ふうん、演目は?」


「まだ決めてない。希望があれば考慮するけど」


「ホント? じゃあね……チャイコンがいい」


「チャイコン? 君が?」


 真琴はチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を指定した。

 それに対し、旧知の音楽監督は眉を寄せ、その綺麗な顔に疑問符を浮かべている。


「意外?」


「まあね。でも、別に構わないよ。もともとメジャーなのを採り上げるつもりだったから、むしろちょうどいいかな」


「いいの、本当に?」


「どうして?」


「おととし祥先輩がソロでやってるはずだけど。ねえ、カノンちゃん?」


 真琴は突然、部屋の隅で聞き耳を立てていた華音に、あえて試すように聞いてきた。

 何と答えたらいいのか華音はとっさに思いつかず、不自然な沈黙を生み出してしまう。

 その様子に、鷹山は一瞬眉をひそめたが、すぐに平然となり淡々と対処する。


「……へえ、そうだったんだ。まあ、別におととしならいいんじゃない」


「じゃあ決まり。楽人君と組んで仕事できるなんて、嬉しいよ」


「そう? そりゃ良かった」


 真琴に見せた鷹山の無邪気な笑顔が、華音の嫉妬心をいっそうあおった。




 鷹山は羽賀真琴を見送るため、音楽監督専用控室を出ていった。

 部屋には華音一人が残される。


 もう、やるせなさで一杯だ。

 飲み残したコーヒーカップを片付けながら、何度も何度もため息をついてしまう。


 元彼女とのやり取りを見せつけられたことよりも、あの鷹山の気を許した態度に、とにかく腹が立った。

 あんなにも扱いづらい鷹山という男が、手のひらの上で転がされている――その姿は、とても正視できたものではなかった。



 そこへ、美濃部青年が再びやってきた。

 どうやら用事があったらしい。開いたドアの間から顔を覗かせて、室内をぐるり隅々見回している。


「ちょっといいですか?」


「あ、鷹山さんなら、さっきのお客様をエントランスまで見送りに行ったよ」


「いえ、華音さんにお話が。鷹山さんがいると話しづらいことなので――」


 鷹山と美濃部は、確かな主従の関係を築いているはずである。鷹山には話せないことをあえて華音に言うことなど――到底考えられない。

 華音は美濃部の様子に、ふと首を傾げた。

 やがて、美濃部は怖ず怖ずと切り出した。


「私ですね、シティフィルの事務の方とわりと親しくさせていただいてるんですが……ああ、事務といってもアシスタントっぽい方と差し障りのない情報交換をする程度ですけどね。極端な演目被りをしないようにと思いまして」


「別に言い訳なんかしなくても大丈夫だと思うけど。別に敵対関係にあるわけじゃないし……会場乗っ取りなんて、あのときたまたまそうなっただけでしょ。仲良くしてる人がいても、別にいいんじゃない?」


 まあ、それもそうですよね――と、美濃部は続けた。


「華音さん、富士川さんの話をお聞きになってますか?」


 心臓が高鳴った。

 いま美濃部青年は、意外な人物の名を口にした。


「え? ……ううん、祥ちゃんとはこけら落としのときに喋って以来、ずっと会ってないけど。祥ちゃんがどうかしたの?」


「やっぱり鷹山さん、華音さんに話してないんですね」


 とても、胸騒ぎがする。

 鷹山は知っている。でも自分には話していない――。

 それは何?

 怖い。もの凄く、怖い。


「体調崩して倒れたとかで、入院しているらしいですよ。かれこれ半月になるって言ってたかなあ。富士川さんは親兄弟も近しい親戚もいらっしゃいませんし、入院の際にですね、保証人というか身元引受人をうちの団体の人間へ打診してきたらしいんですよ。向こうの団体では所属して一年ほどしか経っていないですし、それに比べてうちは袂を分かったとはいえ十年以上、ここ数年はコンサートマスターまで務めていたわけですから」


 美濃部青年の長い説明も、華音の頭の中でおぼろげに響いている。

 信じられなかった。


「そんな……私聞いてない! 聞いてないよ!?」


「鷹山さんに再三打診して、まあ当然といえば当然なんですけど、鷹山さんはこっぴどく断り続けたようで」


「断ったの? そんな、どうして」


「もううちとは関係がないから――って」


「関係がないって……そんなの場合によりけりでしょ?」


「オーナーがそのことについて説得しているようなんですけど、鷹山さんの態度は変わらないようで」


 ――あのとき。


 華音はふと、十日ほど前に、赤城の自社ビルを訪れたときのことを思い出した。

 大黒芳樹の秘書が赤城を訪ねてきたのを、秘書が取り次いでいた話のことである。

 あのとき赤城は、トップシークレットだからと華音にその内容を知らせず、鷹山にお伺いを立てると言っていたのである。


 ――祥ちゃん……そんな、そんなの酷すぎる。


 胸が痛んだ。

 富士川の痛みがまるで自分に降りかかったような、そんな苦しさを覚える。


【もう、俺は――華音ちゃんには必要ないってことかな】


 ふと。

 富士川と最後に会った、新ホールこけら落としでのやり取りを、華音はおぼろげに思い出した。

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