悪魔は優しい嘘をつく(2)

 鷹山と華音は、二人は揃って専用ホールの建物をあとにした。

 辺りはすっかりと闇に包まれている。

 歩道の街灯に照らされた、通り道にある公園の桜の木を見て、鷹山はもうすぐ咲きそうだね、と一人はしゃいでいる。


 疲れたと弱音を吐いてみたり、抱き締めてキスをしてみたり、楽団員を八つ当たり気味に怒鳴りつけてみたり――したかと思えば、今度は子供のように無邪気にはしゃいでみたり。

 その二重人格っぷりに、華音のいらつきは最高潮に達していた。


 華音は鷹山を無視し、一人黙々と歩を進めていく。

 後ろから遅れてついて歩く鷹山は、そんな華音の思いを知ってか知らずか、いつものようにしつこく構ってくる。


「なに怒ってるんだよ」


「別に怒ってないですけど!」


「そういう態度を、世間一般では『怒ってる』って言うんだよ。もっとゆっくり歩いたらどう?」


 生温い春の夜風が頬をなでていく。華音は早足を緩め、歩道の真ん中で立ち止まった。

 それにつられるようにして、鷹山もその場で歩を止める。

 華音はもう我慢しきれずに、その場でくるりと振り返り、鷹山の顔を睨みつけながら、思っていたことを吐き出した。


「どうして、どうしてあの人なの? あー、そっか。美人だったら誰でもいいんだもんね?」


「『あの人』って芹沢さん、真琴さんのこと知ってるの?」


「し……知ってるも何も、とても有名な人でしょ」


「まあ、君なら知ってて当然だよな。富士川さんが特別に目をかけてた後輩だから」


「なっ……」


「ハッ、図星か」


 鷹山は可笑しくなさそうに笑ってみせた。歩道での立ち話を避けようと、強引に華音の腕をつかみ、そのまま公園の中へと入っていく。

 華音は鷹山に半ば引きずられるようにして、蕾の膨らんだ桜の木の下へと連れていかれた。



 鷹山は華音の腕を放すと、華音の正面にしっかりと向き直り、聞きもしないのに勝手に説明を始めた。


「そうだよ、真琴さんが熱烈に惚れてるのは僕じゃなくてあの男なんだよ。確かに彼女とはウィーンにいた頃に付き合いはあったけど、とっくの昔に『いいお友達』だよ。今日だって、会ったのはかれこれ一年ぶりだよ」


「嘘。あの人一度うちの定演に来たでしょ?」


「来てないよ。君の勘違いじゃないのか?」


「だって……だって、美濃部さんが言ってたもん。美濃部さんは嘘なんかつかないもん!」


「なんだよその言い方」


「私、あの人嫌い」


「そういう言い方はよくない」


 どうしてかばうのだろう。

 どうして自分ばかり――分からない。


 ――もう、限界。


 もう、止めることができなかった。抑えきれなくなった感情が一気に噴出してしまう。


「いったい何? 簡単にホイホイとソロの客演なんか勝手に決めて! 元彼女の頼みなら、何でも言う事聞いちゃうんだ?」


「付き合ってたことは事実だ。正直、それなりの関係もあったよ。君と出会う前の話だ。確かに君が言うとおり、別れたあとも一度会ったことがある。だけど、それはあくまで音楽の同志としてだ。別に僕は君に嘘をつきたくてついたわけじゃない。すべてを話して余計な波風立てるのは、決して利口なやり方じゃないと思ったからだ。君はまだ若い。すぐそうやって勘違いして感情的になる。だから、彼女とは日本に来てから会っていないと僕は言った。君を思ってのことだよ。僕は君よりも長く生きてる。君と同級生の男たちと同じってわけにはいかないよ。僕の過去を否定されるのは困る!」


 鷹山は反論の隙を与えずに得意の弁舌を振るい、一気にまくし立てた。

 華音はもう、どうしていいのか分からなくなっていた。

 羽賀真琴と深い関係にあったことに対する怒りか、自分に対する優しい嘘か。


「絶対歳の問題じゃないもん! 鷹山さんはだらしなさ過ぎるんだ! 誤魔化そうとして嘘ついたに決まってる! 私はイヤ。鷹山さんがあの人と話をしてるだけでイヤ。過去だとヒトコトですまされるのはもっとイヤ!」


「芹沢さん、落ち着いて」


「私もいつか同じように『過去』だって、そう言われるの?」


「何言ってるんだ……君、おかしいよ」


「そうさせてるのは鷹山さんでしょ!」


 華音の剣幕に、鷹山が黙った。

 一緒にいればいるほど、愛情も憎しみも深くなっていくことに、華音は気づき始めていた。

 もう引き返すことができないほどに、鷹山という男にのめり込んでしまっている。


 それは、天使と悪魔の魂を合わせ持つ、血の繋がった実の兄――。



「それに……もう一つ私に隠してることあるでしょ」


「別に隠し事なんてないよ」


「祥ちゃんのこと――」


 鷹山の舌打ちが、微かに華音の耳に届いた。


「誰だよ、お節介なヤツ」


「どうして教えてくれなかったの? それに、それに身元引受人くらい、なってあげたってよかったじゃない!」


「だって、君には関係のないことだろう? あの男は血の繋がりのない赤の他人だ」


「他人なんかじゃない……祥ちゃんは他人なんかじゃないもん。僕の過去を否定されるのは困る? それでいて、私の過去は認めてくれないわけ?」


 しばらくの間、二人は見つめ合ったまま、お互いの顔から目をそらせずにいた。

 鷹山の綺麗な顔が、憎しみと嫉妬に支配され、徐々に歪んでいく。

 やがて、微かに震えるその唇から、おそろしく響く低音が発せられた。


「どうして分からないんだ? 君のそばにいるはずだったのはこの僕だ! あの男はいなかったはずなんだ。君の中にいてはいけない人間なんだ。違うか?」


 ――自分の中に、いてはいけない、人間。


 この胸の中に渦巻くのは、やり場のない怒りと例えようのない悲しみ。

 華音には、何が正しくて何が間違っているのか――すでに分からなくなっていた。


 目の前にいるこの綺麗な顔をした男は、いったい誰なのであろうか。

 自分のそばにいるはずだった――でも、いなかった。

 祖父が亡くなり華音が天涯孤独となるまで、この男は自分のそばにはいなかったのである。


 富士川はいなかったはずの人間――もしも両親が事故で他界するようなことがなければ、出会うことはなかった。鷹山の言うことは決して間違ってはいない。

 しかし。

 現実に事故は起こり、華音が物心ついた頃には富士川がいた。

 ずっとずっと、いつでもどんなときでも、富士川は華音のそばにいてくれたのである。

 芹沢家に居候していたときには、一緒にご飯を食べ、勉強を見てもらい、一緒にお風呂に入り、寂しい夜には一緒に眠り。

 そんなことを、この目の前の男は何も分かっていない。

 分かろうともしないのだ。


「血が繋がってないって、それが何? 血が繋がってる……だから?」


 華音は鷹山の顔を睨みつけた。


「そうやって、都合のいいときだけお兄ちゃんになろうとしないで!」


 華音は鷹山を振り切って、全力でその場から逃げるようにして駆け出した。


 いつまで経っても、鷹山が華音を追いかけてくることはなかった。

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