一陣のつむじ風(4)

 そこへ、コンサートマスターの美濃部が、呼びに行った安西青年とともに、ものものしい雰囲気のエントランスへとやってきた。

 美濃部はどうやら半信半疑だったらしく、談笑しながらゆっくりとした歩調で近づいてくる。

 やがて、羽賀真琴の姿をはっきりと認識できる距離まで来ると、今度は慌てて、駆け出すようにして近寄ってきた。


「初めまして! うわ、感激だなあ。私、羽賀さんのファンなんです。美濃部っていいます」


 富士川祥の跡を引き継ぐ立場でありながら、その軽さが真琴には意外だったらしい。しかしファンであると言われて気を良くしたのか、好意的な態度を見せる。


「君、コンサートマスターなんだって? ねえねえ、久しぶりにここで弾かせてよ。アシスタント・プレーヤーって、今は募集してないの?」


 それを聞いて、美濃部は激しく首を横に振った。


「羽賀さんがアシスタントだなんてとんでもない! ぜひソロでお願いしますよ!」


 完全に舞い上がってしまっている。美濃部青年の視界には、華音と安西青年の姿はすでに入っていないらしい。華音はあわてて美濃部に釘を刺す。


「ちょっと美濃部さん! 勝手にそんなこと言っていいの?」


「大丈夫、鷹山さんが反対するはずないですよ。――ええと、確かお知り合いなんですよね? そういえば一度、芹響の定演を聴きに来てくださってましたよね」


「ああ、そうそう。楽人君の指揮者デビューのときにね。よく覚えてたねー」


 羽賀真琴と美濃部青年のやり取りを聞いて、華音はようやく思い出した。

 確かに定演のあった次の日、美濃部がそんなことを話していた記憶がある。


【あの有名な羽賀真琴さんの姿もあって、感激しましたよ。私、大ファンなんです】


【――控室にもちょっとだけ挨拶に見えられてましたよ。鷹山さん、お知り合いなのかなあ。いいなあ】


 あのときは、同じ新進気鋭のヴァイオリニストという繋がりで、二人は顔見知りなのだろうと、それしか考えていなかった。

 むしろ、富士川の後輩として昔から取り入っていたということを、苦く思い出したにすぎなかったのだ。

 それが、真実はというと――鷹山と羽賀真琴は恋人同士という関係にあった、という。


 だからわざわざ、指揮者デビューとなる初めての定演にやってきて、彼の楽屋で二人きりで話を――。

 おかしい、そんなの。

 あの頃はもう、鷹山は自分のことを愛してくれていたはずなのに。


 華音の頭の中は、すでにパニックに陥っていた。

 愕然とする華音の横で、美濃部が丁寧に説明をする。


「鷹山さん、今はオーナーと打ち合わせ中で、そのあとすぐに合わせがありますから、その後でしたら時間が取れると思いますよ」


「それじゃあ、適当に見学してようかな。この新しいホールは初めてだから」


 真琴は愛想よく笑った。


「そうしてください。私、あとで呼びにいきますよ」




 本拠地ホールのエントランスを、一陣のつむじ風が通り抜けていく。

 華音はもはや言葉を発する気力もなく、ただ羽賀真琴の背中を見送っていた。

 一方、何も知らない美濃部は、いつもと変わらず理路整然と指示を出してくる。


「華音さん、あとで鷹山さんに羽賀さんとの面会を取り次いでもらえますか? 安西君も、合わせ始まるから早くステージへ行ってね」


「……」


 黙り続ける華音の反応を待たずに、美濃部は早々にステージへと姿を消す。

 気難しい音楽監督を相手にするコンサートマスターは、多忙なのである。



 一部始終を下世話に見守っていた安西延彦は、調子よく呟いてみせた。


「ははっ、知らないとはいえ、美濃部サンてば残酷だなー」


 元彼女を、今の彼女に取り次がせる――知っていたなら、とても言えることではないだろう。

 不思議なことに、美濃部にはいまだ、鷹山と華音の恋愛関係がばれていないようだった。

 仲の良い主従関係であるとは認めているものの、あまりにも近くにいるため、逆に気がつかないらしい。

 それにしても――。


「なによ彼女って……しかもどうして、どうしてよりによってあの人なの!?」


 そんな華音の悲痛な叫びも、安西青年はあくまで軽くさらりと受け流す。


「元でしょ、元。……というか、監督ってあんな大人の美人と付き合ってたんだー、さすがって感じ。ははっ、華音サンも頑張んないとー」


 もう、ため息しか出てこない。

 この胸の中に渦巻いているのは、怒りなのか失望なのか――華音にはもはや判断する気力はなかった。




 予定では、もうすぐ練習が終わる。

 華音は憂鬱な気分で一杯だった。

 やがて合わせの練習が終わって、鷹山は音楽監督用控室に戻ってきた。

 部屋に入ってくるなりスコアを華音に押しつけるようにして渡し、シャツの襟元のボタンをひとつ外すと、備え付けのソファにどかりと座り込んだ。立ち居振る舞いには品のある鷹山にしては珍しいことである。


「今日はもう帰る。疲れた」


「あ、でも鷹山さん――」


「何?」


 元彼女という触れ込みの来客のことを、華音はいまだ鷹山に伝えられずにいた。

 華音は急いでスコアを専用棚にしまうと、彼の左に並ぶようにしてソファに腰かけた。

 鷹山の大きな瞳が、すぐそばで不思議そうに瞬いている。


「ねえ鷹山さん……私のこと、本当に好き?」


「ハッ、今ここで答えて欲しいのか? 僕に『公私混同』させる気か、君は」


 鷹山は戯言と割り切って、華音を軽くあしらった。

 同じ屋敷に一緒に暮らすようになってから、どんどん公私の境が曖昧になってきている。

 とはいえ、確かに今は音楽監督としての仕事中である。いくら二人きりだからといって、相手の気持ちを確かめるなど――今ここですることではない。

 それでも、華音は聞かずにはいられなかった。


「本当に、私のことだけが好き?」


「芹沢さん、君……ひょっとして不安なの? まあ、安心させる方法はあるんだけどね。君さえ心の準備ができればいつだって」


「あの……それって」


「言わなくても分かるだろう?」


 華音は何と答えたらよいものか途惑った。

 これまで何度か、彼からの誘いを受けたことがある。しかし、それは冗談なのか本気なのか――いつも鷹山に上手く流されてしまうのだ。

 いつまでも子供ではいられない。彼の周りには大人の女性が大勢いる。何より彼自身が、一歩進んだ関係を望んでいる。

 華音は努めて平静を保ち、隣で反応をうかがっている鷹山の顔をじっと見つめた。


「……そのくらい、鷹山さんがうちに引っ越すことが決まってから、とっくに覚悟してるもん」


「そうなの? じゃあさっそく、今夜にでも確かめにいこうかな」


 ――ヤだ、嘘。


 鷹山の食いつきがあまりに良かったため、華音は途端に焦った。

 舌が上手く回らず、思わずどもってしまう。


「え? あ、あの、今夜? そそそんないきなり……」


「ハッ、全っ然、覚悟なんかできてないじゃないか」


 完全に、見抜かれている。

 覚悟はできているのだが、鷹山の気持ちがどこまで本気でどこまで冗談なのか、華音には今ひとつつかみきれていないところがあった。

 それはおそらく、鷹山も同じであろう。だからこうやっていつまでもお互いを試すようなことをしてしまう。


 心の底から愛し愛される自信が、ない。


 鷹山はソファの背に身体を預け直し、空を見つめて呟いた。


「でも正直なところ、あの屋敷にいるとどうも居心地が悪くて、気分がのらないんだよね。僕にとってはいい思い出など何一つない、忌まわしい場所でしかないし」


 やはり。

 予想に反して、鷹山があの家での生活で必要以上に華音に構ってこようとしないのは、監督業が多忙という理由だけではない。

 以前のように、あくまで仕事場として書斎にこもる分にはよかったが、プライベートの時間を過ごすとなるとまた、勝手が違うようだ。


「今度、二人で旅行に出かけようか。そしたら心置きなく――」


「こ、心置きなく……何?」


「何だと思う? 君の答えは?」


 鷹山は華音の肩を抱き寄せるようにして腕をしっかりと回し、頬を華音のすぐそばまで寄せた。

 鷹山はキスを狙っている。今までの経験から、それはすぐに分かった。

 答えを待っている。


 不正解なら、罰として。

 正解だったら、ご褒美として。

 無邪気にキスの雨を降らせるに決まっている。


 鷹山に抱きすくめられたまま、華音はゆっくりと両目を瞑った。


「赤城オーナーに、ばれたら……音楽監督辞めろって……言われる……こと?」


「そう、正解――いい子だ」


「いいの鷹山さん? もしそんなことになったら……」


 鷹山の口づけをこめかみにに受け、華音はわずかに身をのけぞらせた。体勢を少しずつ変え、鷹山に押し倒されるような形で、ソファに上半身を横たわらせる。


「辞めさせられたら、確かに困るね。でも――」


 半分だけ目蓋を開けると、鷹山の大きな瞳がすぐそこで艶めいていた。

 大きなガラス球のような、深い深い琥珀色だ。


「僕の愛情に不安を抱かれているほうが、もっともっと困る」


 鷹山は座面に片手をつき、華音に全体重をかけないように気遣いながら、素早く唇を重ね合わせた。

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