一陣のつむじ風(3)

 その日の夕方、華音は授業を終えて、芹響の本拠地ホールへとやってきた。

 専用ホールは四ヶ月前にオープンしたばかりの、真新しいモダンな建造物である。

 エントランスを歩いているとさっそく、飄々と歩いてくる男につかまった。楽団の最若手、ヴィオラの安西延彦である。


「華音サン、お疲れー」


「安西さん、練習は?」


「今は休憩中。お偉方は打ち合わせしてるさ。平団員はヒマなんだよね」


 他の団員はステージや練習室で自主練習に励んでいることだろう。

 しかし、安西青年は地道な練習が好きではないらしい。こうやっていつでも自由気ままであるのが、彼の長所でもあり短所でもある。

 華音ともっとも歳の近い安西青年は、こうやって華音に構うのがほぼ日課となっている。

 今日もその例にもれず、彼は好奇心旺盛な笑顔を振りまいて、遠慮もなく切り込んでくる。


「それよりさ華音サン、どう? 監督とのらぶらぶ生活の感想は?」


 その下世話な言い方に、華音は思わず顔から火が出そうになった。すぐさま安西青年を鋭く睨みつける。


「あ、安西さん! そういう言い方止めてくれません? 高野先生と一緒のときは何にも言われなかったのに、鷹山さんだとどうして、『らぶらぶ』とか言われなくちゃならないんですか!?」


 付き合っているという事実を肯定したことなどないはずなのに、安西青年には見抜かれてしまっている。いくら取り繕って否定してみたところで、もはや無駄である。

 安西青年には、そんな華音の反応が楽しくてたまらないらしい。


 鷹山が芹沢家に住まいを移したことは、すでに団員には広く知れ渡っていた。

 富士川と同じく、師の愛弟子であることに加えて、過去に一番弟子が芹沢邸に居候していたという事実もあり、二人の実際の血縁関係を知らない人間にも、引っ越しはさほど不思議には映らなかったようだ。

 天涯孤独となった華音の身の上や、高野和久の慶事のことを合わせ見ると、鷹山の取った行動は概ね肯定的に受け入れられている。


 もちろん、オーナーの赤城を除いて――である。



「ねえねえ、監督と華音サンってさ、朝起きるの、どっちが早いの?」


「え? ……鷹山さんは基本的に早起きみたいですけど。何時に起きてるか分かんないです」


「てことはつまり、『起きて、早く起きないとお目覚めのキスを……』――」


「するわけないでしょ!」


「むきになってる。カワイイなー、女子高生って」



 ふと――。

 視線を感じ、華音は入り口のほうを振り向いた。


 関係者以外立ち入り禁止、というプレートが提げられたガラス張りのドアの向こうに、背の高い細身の女性が、中をうかがうようにして立っている。

 凛々しい目鼻立ちと、溌剌とした雰囲気のショートヘアが春風になびいている。黒のパンツスーツに白のスプリングコートが目に鮮やかだ。

 女はエントランスの中に華音と安西青年二人の姿を見つけると、ドアを開けて建物の中へと入り込んできた。


「ちょっといい? 君たち、ここの関係者?」


 女の問いに、二人は返答もできずに立ち尽くしていた。


「どうかしたかな?」


 女が再度尋ねると、惚けていた安西青年はようやく口を開いた。

「あ、いや。有名なヴァイオリニストによく似てたもんで、つい」

「安西さん、この人、本人ですよ」

 華音がそう耳打ちすると、安西青年は驚いたように大きく相槌を打った。


「え? そっかー、そりゃ似てるわな。で、誰サンにご用事ですか?」


「楽人君、いる?」


 ガクト――それは鷹山のファーストネームを指していることに、華音はすぐに気づいた。

 その親しげな呼び方に、華音は思わず眉をひそめる。

 安西青年は能天気に答えた。


「あー、監督に用事なら、この子を通したほうが早いっスよ。監督とお知り合いで?」


「お知り合いっていうか、まあ、『元彼』ってやつかな?」


「も……元彼? てことは、監督の元彼女さんなんスか!?」


 安西青年はその隣で大袈裟に飛び上がった。

 華音はあまりの衝撃に、もはや声も出せない。


「そんなに驚かなくても。あくまで元、だから」


「ですよね、まさか二股ってこともないだろうし――」


 ――何てことを。


 このときばかりは、安西青年の口の軽さを恨めしく思った。

 華音の不安は、やがて現実となる。


「二股? へえ……楽人君の新しい彼女って、どんな子?」


 安西青年は無言のまま、人差し指を傍らの少女に向けた。


「安西さん!」


 華音の訴えもどこ吹く風。安西青年は飄々としたまま、あえて厄介ごとを楽しんでいるかのようだ。


「そうなんだ!? うわ、これまた随分と若い。何だか意外、かも」


 過去には付き合っていた人もいる――そう聞いていたはずなのに、嫉妬で狂いそうだった。

 しかもこの人は、もっともっと以前から、別の意味で知っている人間だ。


 ――この人は、祥ちゃんと特別仲の良かった音大時代の後輩。ただそれだけだった、はず。


 それなのに――。


 華音はのぼせ上がってしまい、自分の頭でものが考えられなくなっていた。

 意味が分からない。

 どうしてこの人が。


「帰ってください。鷹山さんは忙しいんです。予定が一杯詰まってますから」


「そう。じゃあ、いつなら空いてるの? アポだけでも取らせてよ」


 華音は黙った。

 安西青年は冷やかすように言った。


「元って言ってるじゃない? いいのー? 勝手に追い返しちゃったりして。また雷落とされるんじゃない? あ、今は優しくお仕置きだったっけ」


「んもう、安西さん!!」


「俺、とりあえず美濃部サン呼んできますよ。羽賀さんはここで待っていてください」


 そう言って、安西青年は意味ありげに華音に目配せをして、調子よく笑ってみせた。




 安西青年がいなくなってしまうと、広いエントランスに華音と羽賀真琴の二人が残された。

 気まずい空気が流れている。

 重苦しい沈黙を破るようにして、真琴はさらりと尋ねてくる。


「美濃部って、誰?」


「うちのコンサートマスターです」


「ふーん。聞いたことない名前だね。祥先輩の後釜ってわけか」


 美濃部は非音大出で、コンサートマスターとしては異例の大抜擢である。コンクール受賞歴もないため、真琴はその存在をまったく知らないようだ。

 富士川の後釜という言い方が華音の耳に引っかかる。

 しかし今は、それよりももっと確認したいことがあった。


「あの……ホントなんですか?」


 華音は訝しげな眼差しを露骨に真琴に向けながら、怖ず怖ずと切り出した。


「ん? 何が?」


「……鷹山さんと付き合ってたっていうの」


「本当だよ」


 間髪入れずに、ハッキリと答えが返ってくる。

 華音はさらなる衝撃を受けた。胸が引き絞られるような痛みと全身の血液が逆流するような感覚で、次第に目の前が霞んでいく。


「そんな怖い顔しなくても、今はただのお友達だから」


 真琴は、優越感に満ちた極上の作り笑いをしてみせている。その余裕の表情が、なおいっそう華音の胸をかき乱した。


 いったい何なのだ、この人は。

 富士川だけでなく、どうして鷹山まで。


 元彼女――彼女だなんて。

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