崩壊の始まり(3)
気の遠くなるような重苦しい沈黙が、二人の間に流れていく。
鷹山は黙ったまま、ラウンジのガラスに背を預け、無表情で後頭部を軽く数度、打ちつけた。分厚いガラス特有の、低く鈍い音が辺りに響き渡る。
華音は鷹山の表情をうかがうようにして、重い口を開いた。
「……怒ってる、の?」
「別に。要するに、オーナーが文句を言えなくなればいいんだろう?」
その答えに、華音は胸に一抹の不安を覚えた。
オーナーを黙らせる方法など、華音にはまるで見当がつかない。普通の方法では絶対に不可能だ。
何故だろう。心臓の鼓動がどんどん早まっていく。
鷹山はもう一度だけ、背後のガラスに後頭部をぶつけ、そのまま空を見据えた。
そして、長い長いため息とともに、ゆっくりと言葉を吐き出していく。
「僕が、君の家に引っ越す」
華音は思わず自分の耳を疑った。そして、事も無げに言う鷹山の綺麗な横顔を、穴の開くほどに見つめてしまう。
「……冗談でしょ?」
「一緒に暮らしてくれるって、約束したよね。何だよいまさら、冗談って? 別に誰に遠慮することもない。僕を拒む人間も、もうこの世にはいない」
「拒むだなんて――」
「母さんはこれでもかというほど憎まれて虐げられた。そして僕もね」
淡々とした声の裏側に、狂気と憎悪をひそませている。
彼がとても、怖い。
「でも、もう僕たちを引き裂く邪魔な人間はいなくなった。僕があの家で君と暮らしても、誰からも余計な口出しはされない」
「それって……兄妹として暮らすってこと? 私たちが本当の兄妹だって、みんなに言うってこと?」
「そうだよ」
華音は言葉を失った。
二人で新しい生活を始めるのとはわけが違う。
兄妹であることを公にしてしまったら――。
「もちろん、あの男にも」
違う。
「あの男が入り込む隙間なんかどこにもない」
しかし鷹山は平然としたまま、大きな瞳を瞬かせるばかり。
こんなの、違う。
それより何より。
「待って。もう少し落ち着いたら、そしたら私が鷹山さんのところに行くから、それで――許して。お願い」
分からない。
好き。愛している。
けれど、あの家は――。
「許す? 何言ってるんだよ、君は。どうして君の家じゃ駄目なの?」
鷹山は可笑しくなさそうに、嘲るような目をして笑い出した。
「君の考えてることなんか、すぐに分かるんだよ、僕は」
鷹山の蔑むような物言いに、華音は震え上がった。
「富士川さんは君と一緒に何年、あの家で暮らしていたかな。高校入学から大学卒業するまでだっけ? 七年、か……まあそのあとも、ずっと入り浸っていたんだろうけど」
鷹山の思惑が読めた。
そこには愛など存在しない。
「僕が英輔先生の孫だって知ったら、あの男はショックを受けるかな? ハッ、いい気味だよまったく! 一番弟子という地位に甘んじて自惚れてるからそうなるんだよ」
「そんなことして、どうするの? 鷹山さんは、これから私に妹になれって、そう言うの? もう、そうやって祥ちゃんのこと憎むのは止めて」
「嫌だね。あの男はそれだけのことをしてきたんだ。当然の報いだ」
「だから、祥ちゃんは本当のこと何も知らないって――」
鷹山の目が凍りついた。眉間にしわを寄せ、蔑むような眼差しを容赦なく向ける。
「君の口からそんな言葉聞きたくない。あの男のことがまだ心のどこかに残ってるんだろう? だから僕にそういうことを平気で言うんだ! 許せない絶対に!」
もう何を言っても無駄だ。
華音はすくみあがってしまい、言葉も出せない。
「そんな偽りの過去なんて必要ない。僕はそんなもの、認めない。君の中の、あの男のすべてを抹消してやる――」
華音は弱々しく首を横に振った。
そのまま鷹山と顔を合わせていることができず、震えながら鷹山に背を向けた。
怖い。聞きたくない。
逃げ出したい。でも、愛してる。
一緒にいたい、私だって。
そのわずかな躊躇が、背後の鷹山を狂わせた。
華音は鷹山に背後から羽交い絞めにされた。普段からしているような、じゃれてまとわりつくというレベルではない。抵抗を許さぬほどの強い力で、華音の身体を締めつける。
本気なのだ――華音は声にならない悲鳴を上げた。
うなじに唇を押しつけて上へ上へと這わせ、左の耳たぶに激しく吸いついてくる。
「お願い止めて、苦し……い」
鷹山の腕に両手指をかけ、華音は懇願した。
「君は僕のものなんだから」
恐怖と快感が入り混じり、身体が小刻みに震えだすのを華音は感じた。耳を弄られながら、鷹山の吐息が囁きとともに耳穴へと送り込まれる。
「僕だけのものなんだから」
頭の中で、何度も何度も繰り返される。決して消えることのない烙印のごとく、脳髄に焼きつく。
――そう、私はあなたのもの。
鷹山の手が上着の裾から中へと差し込まれ、もどかしそうに腰の上のくびれをなでさすり始める。
声を出してしまいそうだった。それが拒絶なのか懇願なのか、華音にはもはや分からなくなっていた。
そして、ここがどこであるのかさえも――。
「そこまでだ、鷹山君」
動きが止まった。
廊下が折れた辺りから、低音のきいた張りのある声。
それは、鷹山の動きを止めるのには充分な効果があった。
「違うの! これは違うの、赤城さん!」
「いいから、じっとしてて」
鷹山は華音を背後から抱き締めたまま、顔だけをゆっくりとオーナーへと向けた。
赤城はゆっくりとほの暗いロビーを歩いてくる。
一歩。また一歩。
確実に、そのときが近づいていく。
崩壊――。
赤城は目の前に立ちはだかり、威圧的な眼差しで、絡み合う二人を見下ろした。
腕を組んで黙ったまま、じっとこちらを見据えている。
「覗き見ですか? 無粋な人ですねあなたも――悪趣味だ」
「言い訳があるなら、先に聞こう」
「プライベートまでいちいち詮索される筋合いはないですよ」
「ここは君の家じゃない。公共の場で大人の男が女子高生に手を出すのは、決して褒められた行為ではないな。あまりにスキャンダラスだ」
鷹山に後ろから抱きつかれたまま、華音はなんとか自由になる両手で、自分の両耳を塞いだ。
聞きたくない。お節介な説教はもうたくさんだ。
その手の甲に、鷹山はなおも口づけてくる。
赤城が見ている前でなんてことを――華音は慌てて耳を塞ぐのを止め、身をよじった。
しかしそれを制するように、腰を引き寄せている鷹山の手にさらに力が込められる。
あくまで、挑戦的だ。
「僕たち、一緒に暮らすことにしましたから」
「鷹山さん……止めて」
「なんだと? 芹沢君、本当か?」
赤城は華音を睨みつけた。普段は冷静な青年実業家も、本気で怒らせるとその迫力は桁違いだ。
なんとか否定しようと力なく首を横に振るも、火のついた赤城には、まるで効果がない。
赤城は再び、鷹山を鋭く睨みつけた。
「だったら、音楽監督は辞任したまえ! 私はオーナーとして、君たちの関係に到底、責任が持てないからな」
「一緒に暮らしません! だから、辞めさせないで! お願い赤城さん!」
すると。
鷹山は突然気が触れたように、大声で笑い始めた。そしていっそう、華音を抱き締める腕の力を強めていく。
目の前に立つ赤城の顔が、わずかに歪んだ。
「あなたもご存知のとおり、僕たちは血の繋がった正真正銘の兄妹ですよ? 兄妹が一緒に暮らして、誰に迷惑がかかるというんです? 兄妹が仲良くしてて、何がいけないんです? 音楽監督を辞任する必要なんかどこにもないですよ」
鷹山が腕の力を緩めると、華音はひざに力が入らずに、その場へゆっくりとへたり込んだ。
「あの忌々しい呪われた屋敷で、僕たち兄妹は二人きりで生きていくんですよ。ずっと、ずっと一緒に――」
絆はやがて束縛へと姿を変えていく。
華音はロビーの絨毯の上にへたり込んだまま、怖々と顔を上げた。
赤城オーナーと鷹山が、お互い凄んだ形相で睨み合っている。
「『仲良くする』というのは、君にとっては随分と都合のいい言葉だな」
赤城の口から発せられた、至上の幸福を約束した残酷なひと言。
鷹山の、母親譲りの綺麗な顔がほんの一瞬、悪魔の如く引きつった。
「解釈は、どうぞご自由に」
鷹山は、足元に座り込んだままの華音の頭に、自分の右手をのせて愛しそうに優しくなでた。
ほんの数秒の時間が、永遠にも感じられる。
そのもどかしい感触に、心震わせながら。
すべてが崩れ始めたのだと、華音はおぼろげな意識の中でそう悟った。
(夢幻の章 了)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます