崩壊の始まり(2)
突然、女神様は奇妙なことを言い出した。
「……行ってきて? ってお前、それ、どういうことだよ?」
「ついさっきね、申し込んできたから。私から二人へのご褒美」
「二人へのって……まさか、俺と稲葉と和奏とで!?」
高野は周りの迷惑も省みず、素っ頓狂な叫び声を上げた。その見開かれた目には、ハッキリと『理解不能』という文字が浮かび上がっている。
一方の仁美は、何を大袈裟な、と元夫の反応を一蹴した。
「いいじゃない? 和奏が二人と行きたいって、そう言ってるんだから」
仁美はそばにいる娘に同意を求めた。和奏は調子よく首を縦に振っている。
「お前さ、なんでもかんでも和奏をダシにすれば俺が折れると思ってんだろ?」
「思ってるよ? だって和久君は――」
母親の続く言葉を奪うようにして、娘が父親に告げた。
「ナイスガイなんでしょ。カッコいい男って意味なんだってよ、お父さん」
「言葉の意味は俺だって知ってるさ、この馬鹿娘。……おだてたって、お前の言うことなんか聞かないからな、今度こそは!」
高野は人差し指を元妻の顔の鼻先に突きつけて、きっぱりと言い切った。
すると仁美は、高野では相手にならないと諦めたのか、今度は稲葉のほうへと向き直った。
「ね、ね、いいでしょ稲葉君?」
「もちろん喜んで。なんか、楽しそうじゃない?」
そばでやりとりを聞いていた華音も、事態収拾のために援護射撃をする。
「よかったじゃない高野先生。和奏ちゃんと出かけるのも、久しぶりでしょ?」
「ノン君そう言うけど! 遊園地に行くのも嫌なのにさ、さらにどうして稲葉と一緒に!?」
いまだ意地を張りつづけるピアニストに、ライバルの同期は勝ち誇ったように言った。
「だったら、高野君はベンチに座って待っていたらいい。そしたらその間、僕はお姫様とデートしてるから。赤川さんの子供なら、赤川さんと同じように大切にするよ、僕は」
「うんうん、そうして頂戴。よかったねー、和奏。稲葉のオジサンに欲しいもの、何でも買ってもらいなさいね?」
高野は、稲葉と元妻のやりとりに、ヤキモチを焼くのを通り越し、完全に呆れ返っているようだ。
「なに言ってんだよお前たち……何が仁美ちゃんと同じように、だ」
「そんなふうにされたくなかったら、和奏のそばについていてあげればいいじゃない? それだけのことでしょ」
結局のところ、女神様に一番弱いのは他の誰でもない、高野自身なのである。
そして、二人の愛の証である一人娘・和奏にも、なんだかんだで弱いのだ。
自分の名前の一文字『和』を分けた、最愛の娘――。
そして、結局こうなってしまう。
「稲葉と遊園地かあ……ピアノで競うよりもはるかにヤなんだけと。……ちょっと待て、お前はどうするんだよ」
「私は家で待ってるよ。和奏のことよろしくね? 一応、お父さんなんだから」
「仁美ちゃん、俺――」
「あ、間違った間違った。和奏ー、お父さんのこと、よろしくね。ちゃんとうちに連れて帰ってくるのよー? いい?」
「もう、しょうがないなー」
元妻と愛娘のやりとりに唖然となっている高野和久を見て、稲葉努は噴き出すようにして、心の底から楽しそうに笑った。
華音は喧騒に包まれた会場をそっと抜け出し、ホテルのロビーを一人、ゆっくりと歩いていった。
その先には眺望ラウンジがあり、全面ガラス張りのスペースがある。昼間は街並みを一望でき、午後八時を過ぎた現在は、色とりどりの鮮やかなネオンが煌いている。
展望ラウンジとその周辺ロビーは照明を半分以下に落としてある。夜景を楽しめるように、というホテル側の配慮らしい。
ほのかな灯りが癒しとくつろぎの空間を演出している。
もう十二月。クリスマスのイルミネーションが街じゅうを彩っている。
華音は窓にそって設置されている手すりに身を預けるようにして、美しい煌めきをひとり眺めていた。
何度も大きなため息をつく。
【でもそれが自分じゃなく鷹山のお陰なのかと思うと――妬ける】
富士川の言葉が、何度も何度も華音の脳裏をかすめていく。
【もう、俺は――華音ちゃんには必要ないってことかな】
【――妬ける】
突然、背後から誰かに抱きつかれる感触がした。
華音は驚きのあまり、逃げるようにして身をよじり、慌てて振り向いた。
そこにいたのは、華音がよく知る香りをまとう男だった。
「鷹山さん? もう……ビックリさせないでください」
華音は相手を確認し、抗うのを止めた。
ホテルのロビーの絨毯に足音が吸い込まれて、鷹山の近づいてくる気配に華音はまったく気がつかなかった。
華音は軽くため息をつくと、鷹山と距離を置くようにして一歩退いた。
「こんなところにいていいんですか? 来賓の方への挨拶、全部すんでないんでしょ」
「いいんだよ、あとはオーナーに任せておくさ。疲れきって営業スマイルする気力もない」
鷹山は窮屈そうにしながらネクタイを緩め、シャツの第一ボタンを外した。
如何ともしがたい、気まずい空気が流れる。
華音は場の雰囲気を取り繕うべく、思案を巡らした。
「えっと、じゃあ何か飲み物を……」
「必要ないよ。どうしたんだよ、何だかよそよそしいじゃないか?」
「だって……向こうにたくさん人がいるもん。いつロビーへ出てくるか分からないし」
思いつくがままに、適当な言い訳を試みる。
つい先ほどまで考え巡らせていたことをあわてて隠そうとする華音に、鷹山は特に気づいた様子はない。あくまで淡々とした調子で言葉を返してくる。
「別にいまさら隠すこともないだろう? 団員たちだって、口には出さないだけで、僕たちの関係に気づいてる」
「……そうなの? かな、やっぱり」
舞台袖での団員たちの冷やかすような態度を思い返してみると、鷹山の言うことはおそらく正しいのだろう。
「知らないやつらの目からは、ありきたりの恋人同士に見える。君が演奏する楽団員だったらね、公私混同だと言われてしまうだろうけど。君は僕専属のアシスタントだから、誰の文句も受ける筋合いはない」
そう言いながら、鷹山は華音の腕を引き寄せて、おもむろに抱き締めた。
華音は誰にも見られていないか辺りを何度も確認し、急いで鷹山の抱擁を引き剥がした。
「誰かに見られたらどうするの?」
「ハッ、誰も来ないよ」
しかし、何度その腕を解こうとしても、鷹山はじゃれるようにして、いつまでも華音の身体にまとわりついてくる。
「兄妹だって知ってる人も、いるんだから。こういうことは、ここではちょっと……」
「せっかくのロマンティックな夜景を目の前にして、何もせずに黙ってろって?」
ようやく、鷹山は華音の身体にじゃれつくのを止めた。そして、展望ラウンジの分厚いガラスに額を擦りつけるほどに近づいて、街の夜景を興味深げに眺め始める。
鷹山の大きな瞳に街のネオンが映り、繊細な輝きを放っている。
「雪が降り出したら、最高に気分が盛り上がるんだけどな。そうは上手くいかない、か」
無邪気に夜景を眺めている鷹山を横目で見て、華音はようやく覚悟を決めた。
――今しかない。
華音には演奏会が始まる前、心に決めたことがあった。
いつになるか分からないけれど。
自分たちの本当の関係を知る人間がいなくなる、そのときまでは。
この想いを封印しよう――と。
華音は大きく深呼吸をすると、勇気を振り絞り、おずおずと話を切り出した。
「一緒に暮らすっていう話なんだけど……もうちょっと待って欲しいの」
「待つってそれ、いつまで?」
夜景から目を離すことなく、淡々と返事をする鷹山の声からは、まるで深刻さは感じられない。
「それは……分かんない」
華音は夜景に背を向けた。そして、そのまま鷹山にも背を向けてしまう格好となる。
とても視線を合わせられる雰囲気ではなかった。
「芹沢さん、こっちを向いて」
振り向くことはできない。
揺れる。揺らいでしまう。
「こっちを向けって言ってるだろ。聞こえないのか?」
華音の背中に、鷹山の声が突き刺さった。迫のある低音が、森閑としたロビーに響き渡る。
これ以上彼を怒らせて騒ぎが大きくなってはたまらない――華音は泣きそうになるのを必死にこらえながら、恐る恐る鷹山のほうを振り返った。
すぐさま、彼の大きな二つの瞳にしっかりと捉えられる。そしてその視線は、華音をどこへも逃さぬようにして、艶やかに絡みついてくる。
「だって……赤城さんには……もう、隠し切れない」
あまりの緊張に声が震えてしまっているのが、華音自身にも分かった。
「そういうことか。それじゃあ、仕方がないね」
それっきり、鷹山は黙ってしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます