実に美しき狂乱の宴(4)

 華音が口を開こうとした瞬間、後ろから和奏が飛びついてきた。

 大黒氏が去るのを待っていたらしい。


「お兄ちゃん!」


「あれ、和奏ちゃん? 久しぶりだね。仁美さんもお変わりなく」


 富士川は、古くから高野の家族と付き合いがあった。高野一家が芹沢家にやってくるたびに、お喋りに遊びにと付き合うのは、いつも富士川の役目だった。


「この前カノちゃんちに行ったんだよ! でもお兄ちゃんいなかったから、つまんなかったー。ねえねえ、今どうしてるの?」


「ふーじかーわ君? なんだ、元気そうじゃない。んーでも、ちょっと痩せたかな? ねえ、華音ちゃん?」


 富士川と言葉をかわすこともままならない状態で、急に話を振られてしまい、華音は途惑うばかりだった。しどろもどろになりながら、目の前に立つ長身の男をちらり見やる。


「え? そ、そうですね……でも、祥ちゃんはもともと痩せてるから」


 華音は当たり障りのない返答をした。

 すると、赤川仁美は職業病なのか、先生が生徒を説教するように富士川にくいついた。


「また一人であれこれ思い詰めて、悩んでるんじゃないでしょうね? ダメよ? 男の人ってどうしてこうも意地っ張りなのかなー。富士川君は前科があるんだから、自分の身体は大切にしないと!」


「前科って……まるで犯罪者扱いですね」


 富士川は楽しそうに笑った。古くからの友人と懐かしい思い出を語り合うかのような、そんな優しい表情をみせている。


「あら、犯罪よ! 富士川君が倒れたりしたら、大切な人を悲しませることになるのよ? 犯罪よ犯罪ー!」


「俺には、悲しんでくれる家族はいませんから」


「何言ってるの、華音ちゃんがいるじゃない?」


「――そうでしたね」


 無機質な声色で、富士川は淡々と言った。

 さらりと過去形で。


「あらやだ、私ったら気がつかなくてー。さ、和奏。先に座ってましょ」


「えー、何で? 始まるまでまだ三十分もあるよ。もっとお兄ちゃんと一緒にいる」


「いいから、こっちへいらっしゃーい。じゃあ、またねー、富士川君」


 赤川仁美は、芹沢家の複雑な事情を知ってか知らずか、気を利かせるようにして、渋っている娘を連れて客席へと姿を消した。




 ロビーは一般客や招待客でごった返していた。

 祝いの席に相応しく、普段の演奏会に比べてみな服装も煌びやかだ。持参する花束の香りが辺りに漂う。


 ロビーの片隅のベンチに、華音と富士川は取り残された。周囲には大勢人がいるのに、どことなく空虚感がまとわりつく。

 何ともしがたい気まずい空気が流れる。

 二人きりにはなりたくなかった。

 富士川は黙ったまま、穏やかな表情で行き交う観客を他人事のように眺めている。



 華音は沈黙を破るようにして、富士川に話しかけた。


「この前は……ごめんなさい」


「別に、華音ちゃんが謝る必要はないよ」


 淡々としたものだ。思わず拍子抜けしてしまうほどだ。


「本当はここへ来るのを遠慮させてもらおうと思ったんだけどさ、大黒先生がどうしてもって。どうせみんなは舞台裏にいるだろうし、顔を合わせずにすむかなと思って。……ひょっとして、迷惑だったかな?」


「そんなことない。来てくれてありがとう」


 いつもと変わらない富士川の態度に、華音は安堵した。

 このまま自然に疎遠になっていくものだとばかり思っていた。

 鷹山相手だと露骨に無視をされ口をきかなくなってしまうのに、富士川は華音が何をしても何事もなかったように接してくれる。

 あんなにもひどい言葉をぶつけてしまったというのに。


 ――やっぱり、祥ちゃんは特別。


「それにしても凄いホールだ。芹沢先生が生きていたときだって、こんなホールで演奏するなんて考えられなかった」


 富士川は辺りをゆっくりと見回した。素直に感心しているようだ。


「祥ちゃんのせいなんだから」


「俺のせい? どうして?」


「公会堂を乗っ取ったりするから」


 ストレートすぎる言葉に、富士川は面食らっている。気持ちを落ち着かせようとしているのか、眼鏡のフレームを軽く持ち上げ直す。


「あのときは、とても芹響が定演を続けていけるとは思えなかったからね。いまさら何言っても、言い訳にしか聞こえないと思うけど」


「もういいの、すんだことだし。だからね、祥ちゃんのせいでこの専用ホールができたの。わずらわしい行政の手続きに悩まされないように、って」


「ははは、そうか。俺、責任重大だな」


 拗ねる子供を上手くあやすように、富士川はさらりとかわした。

 付き合いは長かったため、その扱いは手馴れたものだ。だから富士川とは、そうそう口喧嘩には発展しない。

 楽だ――華音はふとそんなことを思った。

 大切な人なのだ。

 たった一人の、大切な家族。

 たとえ血の繋がらない他人であったとしても、華音にとってはかけがえのない大切な人なのだ。



 しばらく二人は黙ったまま、観客が行き交うせわしないロビーを眺めていた。

 沈黙がいつの間にか心地よい。昔の二人に戻ったような、そんな感覚に陥る。


「悔しかった……のかな。鷹山に言われた言葉が突き刺さって」


 突然、富士川が呟くように言った。

 想いが言葉となってあふれ出す。


「楽団を存続させるかどうかは、俺が言い出すのじゃダメだって。芹沢の名を持つものが、華音ちゃんが言い出さなくちゃダメたって、そうあいつに言われてさ」


 告別式のあった日の夜。

 鷹山がウィーンからやって来た、あの日のことだ。

 楽団の今後を話し合う席で、確かに鷹山はそう言った。


【それを、富士川さんが言い出すのでは駄目なんだ。『芹沢』の名を持つ君が――いいか、君が言わなくては駄目なんだ】


「俺は、そんなことできるわけがないと思ってた。華音ちゃんに楽団のことが分かるはずがないし、自分にも自信がないことを華音ちゃんなんかに……ってさ。もちろん、楽団のことで華音ちゃんに心配や苦労をかけさせるなんて、絶対にしたくないことだったし――」


 富士川の言っていることは決して間違ってはいないのだろう。祖父が突然この世を去ってしまったあの状況では、誰だって同じことを思ったに違いない。

 華音自身も、まさか楽団の仕事をするなんて思ってもみなかった。


「鷹山は俺とはまるで逆だ。華音ちゃんを小間使いのように扱って、振り回してさ……でも、今の華音ちゃんはとても活き活きしてる」


 華音は思わず目を瞠った。

 富士川の眼鏡の奥の目が、優しく緩む。


「あの大黒先生に対しても堂々としてて、さっき客席へと誘導してただろう? 驚いたよ、俺の知らない華音ちゃんだったから」


「祥ちゃん――」


「前はあんなじゃなかった。芹沢先生に縁のある音楽界の重鎮が来ると、いつも俺の後ろに隠れてたのに」


 確かに。そうだったかもしれない。

 何かあると、いつもそうやって富士川の背に隠れ、そしてかばわれていた。

 でも今は。


「そんなことしてたら、鷹山さんに怒鳴られて罵倒されて終わりだから。そんなのにいちいち負けてられないし」


 華音がそういうと、富士川は深い深いため息を一つついた。憑き物が落ちたような、そんな穏やかな笑顔を華音に向ける。


「華音ちゃんのことは何でも知ってたつもりだったのにさ、なんだかもの凄く新鮮だった」


 照れくさそうにしながら、富士川はしみじみと言う。


「ここ数ヶ月で随分と大人っぽくなったし」


「そんな、お世辞ばっかり」


「俺が華音ちゃんにお世辞を言ってどうするの。小さい頃から可愛かったけど、今はむしろ綺麗になったというか」


 誉められて嬉しくないわけがない。幼い頃からの自分を知っている人物に言われると、それは尚のこと。

 華音は気恥ずかしさを隠しながら、富士川にお礼を言おうと口を開きかけた。

 そのとき。


「でもそれが俺じゃなく、すべて鷹山のお陰なのかと思うと――妬ける」


 一気に全身の血が引いた。

 喧騒のロビーが一瞬にして無音になる。

 何も聞こえない。何も見えない。


「もう、俺は――華音ちゃんには必要ないってことかな」



 演奏会開始五分前。

 1ベルのトランペット・ヴォランタリーが、ロビーいっぱいに鳴り響く。


 じゃあね、とひと言言い残し、そのままホール客席へと向かう富士川の背中を、華音はただ呆然と見送った。

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