崩壊の始まり(1)
演奏開始前、満員となった客席ホールに、予定にはなかった場内アナウンスが流された。
ピアノソロ交換が粛々と告げられると、当然のように客席はざわついた。しかし、第一部のソロを受け持つ高野と指揮者の鷹山が揃ってステージへ姿を現し、笑顔で客席に向かってお辞儀をすると、何事もなかったように緩やかな拍手をもって迎えられた。
高野と稲葉が大学の同期であることは、パンフレットやポスターで大々的に告知されていた。それらには、二人が好敵手であることを煽るような宣伝文句ももれなくついており、二人の競演を楽しみに足を運んだ観客がほとんどだった。
そのため、突然のソロ交換劇は、逆に観客を喜ばせる結果となったようだった。
高野の指が鍵盤の上に置かれると、巨大な空間は静寂に包まれていく。
やがて――。
こけら落としに相応しい華々しく艶やかな音が、ステージ上からあふれ出した。
第一部が終わった休憩時間、和奏がトイレへ行ってくると言い、一人で席を立った。
高野の元妻は、娘がそばを離れたのを見計らい、隣に座っていた華音にふわりと語りかけてきた。
「和久君のピアノはね、いつだって奇跡的なのよ」
そう言って、先ほどまでピアノを弾いていた男の存在に思いを馳せるように、照明の落とされたステージ上を見つめ続けている。
「稲葉君は天才的で、和久君は奇跡的――」
ホール内の喧騒の中に、仁美の凛とした声が浮かび上がる。
華音は黙ったまま、彼女のおしゃべりに耳を傾けていた。
「稲葉君は、こと音楽に関しては完璧主義で、どんなときでも常に100点の演奏をするのよね。それは音楽家一族という恵まれた家庭環境もあるけど……プレッシャーも当然大きかったはずだから、陰で相当な努力をしていたんだと思う。まさに1パーセントの才能と99パーセントの努力っていう感じ。正真正銘の天才的ピアニスト、ね」
華音は素直に頷いてみせた。
それに対して、仁美は華音の反応に構うことなく、淡々と言葉をつむいでいく。
「和久君は、他人から評価されることをとにかく嫌がって、コンクールも出たがらなかったし、練習だってしたりしなかったりだし、演奏もその日によって出来にムラがあって……でも彼はね、ここぞという場面で、こうやってサラっと120点の演奏を披露しちゃうのよねー。ホント、奇跡的ピアニストなんだから」
いくぶん気持ちが落ち着いたのか、仁美は大きくゆっくりとしたため息を一つつく。そして、華音のほうへと顔を振り向かせ、意味ありげに微笑んだ。
「でも基本的にはねー、似たもの同志なのよ。だからこそぶつかり合うし、分かり合えたりもするのよ。ほら、この間も説明したけど、華音ちゃんのおうちにあったベヒシュタイン」
「ああ……昔、稲葉さんと高野先生がケンカして壊したって、言ってましたよね」
「そう。原因は私だっていうんだから、ホントおかしいわよねー。要するにあの二人、好みの女性のタイプが一緒ってことでしょ? あはは、自分で言っちゃった」
仁美はどこか突き抜けたような、明るいはしゃぎ声をあげて、楽しげに笑い出した。
その様子を見て、華音は思わず言葉を失ってしまった。
稲葉努という男に『ロジェール』、永遠の憧れである――とまで言わしめた存在であるというのに、である。
稲葉と高野が真剣に争っている原因がこの調子では、彼らの想いも浮かばれない。
華音は気を取り直し、ゆっくりと尋ねた。
「あの……仁美さんは稲葉さんのこと、ちょっとでも好きだったりとか……しないんですか?」
「好きよー、好きに決まってるじゃない。友達だもん」
「……そう、ですよね」
何を聞いても無駄なのである。
これが、彼女の最大の武器なのだ。
華音がそのまま黙ってしまうと、仁美は何か思い当たったように意味ありげな笑顔を見せた。
「ふふ、そういう意味じゃあ、ないのよね? そうだよねー、華音ちゃんだってもうお年頃だもんね。そういうの、聞きたいよね」
ほんの少しの沈黙の後、仁美はゆっくりと口を開く。そしていつになく真剣な眼差しで、華音をまっすぐに見つめた。
その両瞳が、静かに瞬く。
「しょうがないよ、二人いっぺんに選べないもの」
「じゃあ、ちょっとは稲葉さんに気持ちがあったり、とか?」
「そうねえ……もし和久君があの時、あの店に現れなかったら、いまごろ私、稲葉仁美だったかもしれないね」
意外な言葉だった。
華音は返答することも忘れ、ただじっと仁美を見つめ返した。
「そんなもんなのよー、恋愛って。タイミングっていうのかな。そういうの、すごくすごく大事」
そう言って、仁美は華音の心を見透かしたかのように、穏やかに微笑んだ。
華音はあわてて愛想笑いをし、はぐらかすように軽く首を傾げてみせた。
しばらくして、和奏がトイレから戻ってきた。
仁美は何事もなかったかのように取り繕い、娘を迎え入れる。
「さーて、続いては稲葉君ね。和奏、稲葉のオジサンのコンサートはね、ホントはものすごーく高いの。タダで聴けるなんて、とってもラッキーなんだからね?」
そう言って仁美は、学生時代に戻ったような無邪気な笑顔を見せた。
こけら落としの打ち上げは祝賀会と称して、通常の定演とは違い、とある市内のホテルのワンフロアを貸し切ってのフォーマルな席が設けられた。
立食形式で、それぞれが自由に歓談できるスタイルとなっている。
主だった来賓などそうそうたる面子に囲まれて、華音は完全に気後れしていた。
鷹山はステージ衣装から濃灰色の細い縦縞のスーツに着替えている。そして、赤城と並ぶようにして業界関係者と挨拶を交わしている。華音はその様子を、会場の隅からひとり眺めていた。
重圧から解放されたせいか、鷹山の表情は晴れやかだ。珍しく、惜しみない愛想笑いを振りまいている。
そのうち、年配の婦人たちがここぞとばかりに、鷹山の周りを取り囲んだ。そのほとんどは来賓同伴の有閑マダムたちだ。少年と見紛うような綺麗な容貌の若い男を、当然マダムたちが放っておくはずがない。
鷹山は慣れているのだろう。着飾った婦人たちを相手に上品かつ丁寧に応対し、楽しそうに振る舞っている。
――こうしてみると、鷹山さんって住む世界が違う人なんだな……。
自分のことなのに、まるで他人事のように眺めているもう一人の自分がいる。
芹沢という音楽の一門に生まれ育ったはずなのに、華音はいつでも蚊帳の外にいたのだ。
確かにここ半年ほどで、自分のアシスタント兼雑用係としての存在意義が、広く認められるようになった。しかし、もともとはその辺りにいるただの高校生にすぎないのである。
しばらくして、本日の主賓である稲葉努と高野和久が、華音のもとへと近づいてきた。
いつもは連れ立ってそばにいることをよしとしない二人も、演奏会を終えて幾分気が緩んでいるようだ。
華音は笑顔で二人のピアニストたちを迎えた。
「お疲れ様でした。二人とも、鬼気迫る渾身の演奏でしたね」
「そりゃそうですよ。相手が高野君ですから、決して手は抜けませんよ」
稲葉はつり上がり気味の目を穏やかに緩ませて、上機嫌で答えてくる。
一方の高野は、冴えない表情であらぬ方向を見つめている。稲葉と一緒にいるのが、どうにも落ち着かないらしい。
「俺は別に勝負してるつもりなんてなかった」
「もういいよ、高野君。あとは女神様のご神託を待つばかりだ」
華音は念のため、会場内を見渡した。最終審判を下す赤川母娘の姿は、まだ見当たらない。
そのときである。
高野の背後から、少女が勢いよく飛びついてきた。
「お父さん!」
まるでタイミングを見計らったかのように、水色のワンピースでおめかしをした高野の愛娘が登場した。
高野はため息をついた。
「脅かすなよ和奏……心臓に悪いだろ。お母さんは?」
「お父さんの友達に挨拶しにいったよ」
「……友達? 稲葉ならここにいるけど」
合点がいかない複雑な表情の高野に、華音は笑いをこらえながら耳打ちした。
「高野先生、それってきっと、赤城さんのことなんじゃないの?」
「あっ……そうか、麗児君ね」
稲葉は『お父さんとお母さんの友達』であり、『お父さんの友達』というなら、高校時代の同級生である赤城オーナーのことを指しているはずだ。
高野は自分の早とちりに、ひたすら悔やむような表情を見せている。
もちろん、隣にたたずむ男は、勝ち誇ったような笑みを浮かべるばかりだ。
「嬉しいよ高野君。僕のことをちゃんと友達だと思ってくれていたんだね」
「止めろよ、気味悪いな」
高野がふてくされてしまうと、そこへようやく女神様が登場した。
「ごめんねー、遅くなって」
高野の元妻・赤川仁美は無邪気に手を振りながら、こちらへ駆け寄ってくる。
稲葉は着ていたジャケットの襟を正すと、仁美に向き直った。
「赤川さん、どうだった?」
「二人ともカッコよかったよ。でも、なんか悔しくってー」
「悔しい?」
華音は思わず聞き返した。『悔しい』とは、およそ感想には似つかわしくない言葉だ。
だってね、と女神様は続けた。
「同期にこれほど凄い演奏されちゃうとね、悔しいじゃない? 私だったらこうやって弾くのに、とか」
「お前、ここまで来てダメ出しなんかするなよ」
稲葉とは対照的に、高野はいまだふてくされたまま、八つ当たり気味に、元妻の能天気な物言いを諌めた。
しかし、元妻はまったくこたえていないようだ。あえて聞こえない振りをしているのだろう。
「じゃあ、約束どおり! 三人で遊園地行ってきて」
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