女神の旋律(3)
――もうすぐここに来る。ということは、『切り札』は人物?
辿り着いた答えが、正解であって欲しくない。華音はそう切に願った。
「鷹山さん、正気なの? 話し合いで解決どころか、滅茶苦茶になっちゃう!」
「ならないよ。まあ、それが『消火剤』となるか男殺しの『爆薬』となるか、大きな賭けであることは確かだけど」
鷹山はあえて名前を出していなかったが、華音の予想は確信へと変わった。
高野と稲葉を直接会わせるだけでなく。
二人の仲違いの原因である赤川仁美を、この修羅場に呼ぶ――だなんて。
「興味のほうが大きかったというほうが正しいかな。和久さんと稲葉氏、二人の男をとりこにさせた女性だよ? どんな素敵な人なのか、この目で見てみたいじゃないか?」
嘘か本当かは分からない。
だが、興味本位で素敵な女性を見てみたかったなどと、鷹山は相変わらず好き勝手なことを喋りまくっている。
どうして自分の前で、そんなことを平気で言えるのだろうか――華音は反応に困り、はっきりと聞こえなかったフリをした。
すると。
「どうしたの、いきなり黙ったりして」
「別に」
怒声が飛び交う中、鷹山は不謹慎にも堪えきれずに吹き出した。
「何でそんな突然投げやりになるんだよ、君は。馬っ鹿じゃないの」
嘲り蔑むような眼差しで、華音の顔をしげしげと見つめている。
わざと怒らせるようなことを言って、どう反応するか楽しんでいる――悪趣味だ。
それを分かっていながら、いとも容易くのってしまう自分が哀しい。
「ば……馬鹿って。ただ『別に』って言っただけじゃないですか」
勝ち誇ったような鷹山の表情に、さらに余裕が加わる。
「もちろん君が一番素敵に決まってるだろ――って、言って欲しかったか?」
華音は激しく首を横に振った。心の内を見透かされているようで恥ずかしくなり、必死に否定する。
「本当にどうしようもないやつだな、芹沢さんは」
完璧に、手綱を握られてしまっている。
「どうしようもなく――馬鹿だ」
そんな鷹山の楽しそうな呟きが、華音の胸を静かに震わせた。
目の前では高野と稲葉の言い争いが続いている。
そこへ、とうとう。
芹沢家の執事に案内され、『切り札』がサロンに姿を現した。
「カノちゃん、また来ちゃった!」
「わー、華音ちゃんお久しぶりねー、元気だった?」
華音がよく見知っている母と娘は、無邪気に手を振っている。
「和奏ちゃん! それに仁美さんも! ご、ごめんね……今、和奏ちゃんのパパ、取り込み中で」
広々としたサロンの中央では、因縁のベヒシュタインを前にして、二人の男がいまだ激しく怒鳴り合っている。
高野の元妻・赤川仁美はいきなりの修羅場に物怖じすることなく、にこやかに微笑んで鷹山に挨拶をした。
「初めまして、音楽監督さん。あら、随分と美少年なのねえ」
喋り方が気さくで柔らかい。悪魔な音楽監督も、すっかり子供扱いである。
さっそく、鷹山は調子を狂わされているようだ。大きな目を瞬かせ、軽く肩をすくめてみせる。
「……少年、というほど若くもないんですが。すみません、わざわざご足労願いまして」
「いいのいいの。あの二人ね、昔っからしょっちゅうケンカしてるのよ。仲裁なら慣れてるから」
二人のピアニストは、新しい来訪者の存在に気づいていない。
『切り札』はわざと一つ、咳払いをしてみせた。
「貴方たちー、演奏会のことでまた周りの人たち困らせてるんですって?」
罵り合う声がぴたりと止んだ。
突然、辺りが静まり返る。
「ひ、ひ、仁美ちゃん!? どうしたんだ?」
高野は動揺の色を隠せない。突然現れた元妻の姿に、目を瞠ったまま固まっている。
役者がすべてそろった。
華音は鷹山に寄り添い、彼のシャツの背をつかんで、じっと成り行きを見守った。
「赤川さん……この間はどうもね」
稲葉は礼儀正しく、軽く会釈をした。
落ち着いている。しかし、気を遣って具体的な会話を避け、最低限の言葉だけを口にしているようだ。しかしそれが逆に、傍目には意味深な関係に映ってしまう。
「いいのよ。日本に帰ってきたときはいつでも遊びに来てね。この子も喜ぶから」
一瞬にして、高野を取り囲む空気が凍りついた。その音が聞こえてきそうなほどの、分かりやすさだ。
高野はそばにいた娘を引き寄せて無理矢理膝の上に座らせると、羽交い絞めのまま背後から頭突きをし、鼻をつまんで左右に揺さぶった。
「和奏、何喜んでたんだよ? んん? お父さんにちゃーんと説明してくれる?」
「だ、だっで……おびやげぐれだんだもん」
鼻呼吸を断たれ口で必死に息継ぎしながら、娘は必死に弁解をする。
理由を聞いて、高野は再度、愛娘に頭突きをくらわした。
「モノでつられてんじゃないよ、お前は!」
「こーら、自分の娘をいじめたりしないの」
高野の元妻は苦しがる娘を見て、能天気に笑っている。父と娘がじゃれている姿が楽しくて仕方がないようだ。
「もう。二人がケンカしちゃうなら、私が弾いちゃうんだからね?」
「……え」
その言葉の意味することを、高野と稲葉はすぐに理解できないでいた。
私が弾く――いったい何を?
「シューマンだったら貴方たちよりも上手なんだから。ほら、どいたどいた」
『切り札』は高野を押しのけるようにして椅子に腰かけると、ベヒシュタインの鍵盤に指を載せた。
やがて、静かに演奏が始まった。
高校の音楽教師らしい、基本を押さえた丁寧な演奏だ。ときおり首を傾げるも、楽しげに複雑な旋律を奏でている。
二人のピアニストは黙り、女神の旋律に酔いしれている。
しかし。
最後の最後で、彼女の指は和音を思い切りハズしてしまった。
たった一音のミスタッチで、短調がいきなり長調に――。
ある意味、天才的だ。
「ちょっと今の、凄すぎるよねー。せっかくのシューマンも台無し、あはははは」
自分自身の失敗を無邪気に笑い、女神は二人のピアニストを振り返った。
――絶句。
同じことを思ったのだろう、いがみ合う二人は一瞬だけ目線を交わし、それぞれ別の方向を見て空を仰いだ。
争う気はもう、削がれてしまったらしい。
「素晴らしい。やっぱり男殺しの『爆薬』だったかな? 凄いな」
鷹山がふざけたように華音に耳打ちした。
「ダメねえ、やっぱり毎日練習しないと」
高野の元妻は首をしきりに傾げながら、絶句したまま立ちすくむ二人のピアニストに、柔らかな笑顔を見せた。
仲裁なら慣れているから、と彼女が言っていたのは確かに間違いではなかったが、お互いを納得させるというよりは、争う気力を失くさせる、といったほうが正しいだろう。
あまりにも天真爛漫で、どこか能天気なのである。
ここにいる稲葉が彼女を、ワインの銘柄『ロジェール』になぞらえていると、オーナーの赤城が言っていたことを華音は思い出した。
ロジェール――純潔な乙女、と。
「DとF、鳴ってないね」
稲葉は彼女の迷演に対して、そう感想を洩らした。
演奏の良し悪しに対しては特に言及せず、一流ピアニストのよく利く耳で、鳴っていない音を正確に聴き取ったようだ。
それを聞いた高野は、恨めしそうな眼差しを稲葉に向けた。
「……お前が壊したんだろうが。まさか、忘れたわけじゃないだろうな」
時間が遡っていく。
二人は今、学生だった頃の世界に引き戻される。
「君が赤川さんにショパンを弾いてあげたピアノ、だろう? 赤川さんの心を手に入れた思い出のピアノか?」
「なんだよ、その言い方」
あの夜。
大学時代の稲葉努のバイト先だった、祖父のプロデュースするダイニングバーで。
高野は酔いに任せて稲葉を押しのけ、ピアノを弾いて。
初めて人前でショパンを、それも彼女が最も好きなショパンの幻想曲を弾いて聴かせて。
そして、彼女は――。
稲葉はすべてを振り払うように、首を激しく振った。
「あれからいつもいつも、赤川さんは君の話ばかり。高野君が高野君が、って。今でもそうだよ。赤川さんとの会話には君の話しか出てこない」
高野はすぐに二の句が継げず、一瞬、元妻に視線をやった。目が合うと、彼女は悪びれずに肩をすくめてみせる。
「……それは俺だって同じだよ。仁美ちゃんは昔っから稲葉君稲葉君って、お前の話ばかりで――うんざりなんだよ」
鷹山は先程から成り行きを見守ったまま、黙っている。
普段であれば一言も二言も三言も多い饒舌な音楽監督が、つかず離れずの距離で腕組みをしながら眺めている。
いろいろ考えを巡らしているらしい。
意外にも、解決の糸口はすぐに訪れた。
またもや女神様降臨、である。
「こんなことでいちいち争ってるから、まっとうな人生送れないのよ。いい歳して、ねえ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます