女神の旋律(4)

 たった一言で切り捨てた。お見事、という他はない。当事者の彼女に言われてしまっては、身もフタもないだろう。

 ただ、稲葉はともかく、高野がまっとうな人生を送れていないことは、周知の事実である。

 図星を指された当の本人は、片手で額を押さえつつ言い訳を始めた。


「人のこと言えないだろ……俺がバツイチってことは、お前もバツイチなんだからな?」


「あ、そうだったわねー。でも、私は和奏と一緒だから、とりあえず普通にお母さんしてるし」


 相手にならないと諦め、高野はそばにいた娘を引き寄せた。問いただすように、しっかりと両腕をつかむ。


「ホントか? なあ和奏、お父さんだけには本当のこと言っていいんだよ?」


 しかし、娘はあくまで冷静だ。


「何なの、お父さんもお母さんも。どっちもどっちでしょ」


 和奏はきっぱりと言い切った。現在の状況をきちんと把握できているようだ。


「さすがは和奏! なかなか鋭いわねえ。じゃあね、和奏に選ばせてあげる」


「は? お前……何言い出すんだよ?」


 呆気にとられている高野を横目に、元妻は楽しげな笑い声を上げた。


「和奏が上手だと思ったほうと、三人で遊園地行こうか。どうせだから、冬休みに思い切って『ねずみーランド』まで!」


「お母さんホント!? うそ、やったー!!」


 母と娘は場所もわきまえず、大袈裟にはしゃぎまくる。


「ねえ。二人とも、この娘のために弾いてくれる?」


「赤川さんの頼みなら、喜んで」


 稲葉は二つ返事で、すぐに引き受けてみせた。

 一方の高野は、嫌悪感いっぱいの渋面を惜しげもなく曝している。


「そんなに聴きたけりゃ、あとで店まで来い。わざわざ演奏会で弾かなくてもいいだろ。あのスタインウェイで夜通し弾きつづけてやる。止めてと言われても絶対に止めてやらないからな。それに遊園地なんて、俺はもう懲り懲りだ」


「え! お父さん、行ったことあるの?」


 娘の目が輝いた。

 懐かしい、遠い日の思い出――。


「一回だけな。お前をずっと肩車してたお陰で、しばらく腕が上がんなくてピアノ弾けなくなったんだぞ」


「うそ、私も一緒に行ったんだ? 全然覚えてないやー」


「お母さんはみやげ物屋に入ったっきりでいつまで経っても出てこないし、お前はビービー泣き出すし……いい思い出なんか一つもない」


 高野の説明だけで、華音にはその光景が容易に想像できた。

 きっと妻に無理矢理、連れて行けとせがまれたのだろう。

 小さな子供の世話などまるでできない高野が、苦手な人込みを避けるようにして、泣き喚く幼児を前に途方に暮れている姿――。

 あまりにも分かり易すぎる。


「そんな昔のこと、よく覚えてるのねえ。ふふ、執念深いー」


 一方の元妻は、相変わらずこんな調子だ。

 高野は半分うなだれながら、残る力を振り絞って訴えかけた。


「とにかく俺は! そんな遊園地なんかに釣られて、ピアノ弾いたりなんかしないからな?」


「いいじゃない、一生に一度くらい稲葉君と同じステージに立ったってー。じゃあ、和久君は棄権するのね? ――だってよ、和奏?」


 仁美は年甲斐もなく、少女のように拗ねてみせた。娘のこともまるで友達のような扱いだ。


「いいからつべこべ言わず弾け、オヤジー」


「オ、オヤジ……って言った? 今!?」


 高野は面食らっている。

 知らない子供にオジサン呼ばわりされるよりも、はるかにダメージが大きいようだ。


「どうするの? 和奏が頼んでるのよ?」


 高野は迷いを見せている。

 期待に満ちた四つの瞳が、高野に向けられている。

 やがて深々と大きくため息をつくと、高野は投げやりに言い放った。


「……分かったよ。和奏が弾けって言うからだぞ? 遊園地なら、勝手に二人でも三人でも行ってくればいいじゃないか。俺は知らないからな」


 すると。

 突然、仁美は楽しそうに笑い出した。

 高野の反応は、すべて見通されていたことらしい。


「いくつになっても、ほーんと和久君はナイスガイねー」


「お父さん、ナイスガイねー。……お母さん、ナイスガイって、何?」


「…………」


 母親を真似た愛娘のひとことに、高野は再び絶句してしまった。




「では、お二方がこけら落としのソロを務めてくださるということで――よろしいでしょうか?」


 嵐が収束したのを見計らうようにして、それまで傍観していた音楽監督が、ピアニストたちに確認するように尋ねた。

 すでにやる気満々の稲葉は、傍らの高野に目配せをする。


「どうなんだい、高野君?」


「言っただろ、和奏が弾けって言うから弾くんだからな? そもそもお前と競うつもりはまったくないから、勘違いするなよ」


 高野の牽制も、どこ吹く風。稲葉はまったく動じる様子はない。

 むしろ、むきになる高野の姿に満足しているようだ。



 了承の確認が取れたと判断して、鷹山は表情を緩めた。


「稲葉さんからは同曲異演という提案がありましたが、変更させてもらいます。クラシック音楽愛好家には馴染みの深い、CD録音では定番のカップリングを。――お二人には、『イ短調』でお願いしたいのですが。それぞれどちらを受け持つかはお任せしますので」


「あー、イ短調……ちょっとだけ意外な選曲。でも、同曲異演より、ずっとマシかな」


 高野がようやく、少しずつ前向きな態度を見せ始めた。

 そして、元妻は相変わらずはしゃぎまくる。


「わー、イ短調? 楽しみだねえ、和奏? ――あ、ねえ、音楽監督さん?」


「なんでしょうか?」


「あとのことはよろしくね。私にできるのは、ここまで」


 仁美は意味ありげな微笑みを鷹山に向けた。

 天然なのか計算なのか分からない。

 鷹山は慣れたように極上の愛想笑いを返す。


「……善処します、とだけ言っておきましょう。では、外まで送らせてください。芹沢さん、ちょっと」


 鷹山は華音の耳元で素早く指示を出す。


「ここからは君の仕事だ。ソロと演目の構成が決まったら僕に報告してくれ」


「え? あ、はい……分かりました」




 母と娘が鷹山に促されるようにしてサロンをあとにすると、稲葉努は惚けたようにため息をついた。


「本当に赤川さんって、昔と変わらないな。いつまでも若々しく、そして瑞々しい」


 それを聞いた高野は、露骨にうんざりとした顔となる。


「そうかあ? よく見りゃ、目じりに小じわとか一杯あるだろ」


「そういうことを言ってるんじゃないよ、高野君……」


 再び雲行きが怪しくなってきたので、華音はとっさ話題を変えるように仕向けた。

 とにかく必死だ。

 もうこのサロンには高野と稲葉の他には、華音だけなのである。

 上手く話し合いを進めて演奏会の構成を決めるところまで持っていかないと、あとで鷹山に何を言われるか分からない。責任重大だ。


「あの! 鷹山さんが言ってた『イ短調』って、何の曲なんですか?」


「え? ノン君、分かりましたって、楽ちゃんに言ってたじゃない」


「だって、聞ける雰囲気じゃなかったから……」


 稲葉は右手を自分の胸に当て、誇らしげに答えた。


「そうそう、『イ短調』ね。じゃあ僕がシューマンを弾こう。必然的に僕が第一部を受け持つことになる、かな。高野君はグリーグね。君は北欧の抒情的な曲が似合う」


「……仕方がない。今回は稲葉が主賓のようなものだからな。弾きたいほうを弾けばいい」


 宿敵のいいなりになるのは、高野にとって甚だ不本意であるようだったが、演奏会の主旨を思い直したのか、大人しく譲歩してみせた。


「ありがとう、高野君。本当に夢のようだ、君と同じステージで演奏できるなんて」


「ふん、『彼女の前で演奏できるなんて』の、言い間違いだろ」


「もちろん、それもある。でも、高野君と弾けるのも本当に嬉しいと思ってるよ。――ショパンのときのようなことには、ならないからね?」


 そう言って稲葉は過去を懐かしむように、時が止まったままのベヒシュタインをなでた。

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