企画者の苦悩(1)

 定期演奏会の翌日と翌々日の二日間は、練習のない完全オフとなっている。気持ちを切り替えるためと称して、芹響ではいつしかそういう慣習ができている。

 しかし、それはあくまで普通の楽団員たちの話であって、駆け出しの音楽監督やコンサートマスターに休暇はない。

 そして、そのアシスタントを務める華音も、当然休みをもらえるはずはなかった。




 定演の翌日の午後――。

 華音は学校から帰るなり、芹沢邸の玄関脇の雑談スペースで、美濃部の助言を仰ぎながらひたすら企画書を書く、という作業に没頭させられていた。

 企画といっても、演目を決めるわけではない。演奏会の大まかな構成を考えるだけである。

 その企画書をまず音楽監督に提出し、使えそうなものを選び、首席陣を交えた選曲会議に持っていく、ということらしい。

 自分が考えた企画が実際に演奏会として採用される――それは、華音にとってまったくの未知の領域だった。

 文化祭のクラスの出し物でさえ、自分の意見など通った試しはない。いや、自分の考えがあるかどうかも怪しいものだ。

 誰かが決めたことに従うということが、一番楽なのだから。そう、それだけのことなのである。

 しかし、今回の企画書作りは文化祭の出し物とはわけが違う。実際に興行として金銭のやり取りが発生する。

 責任重大だ。


 ――だけど、構成なんて……私なんかが、口出ししていいことなのかな?


 構成を企画することが音楽監督の指示によるものだとはいえ、華音はどうも腑に落ちない。

 指示といっても、直接本人から聞いたわけではない。待ち受けていた美濃部から伝言を受けただけなのである。

 半信半疑というのが本音だったが、美濃部が嘘をつくような人間でないことは、華音もよく知っている。

 気を取り直し、とにかく作業を進めることにした。



 罫線のない真っ白なルーズリーフに、華音は思いついたことを箇条書きにしていく。


「普通、ピアニストが客演する場合は、前半にオケだけで管弦楽曲を演奏して、後半でソリスト交えてピアノ協奏曲を演奏する、というのがパターンだよね」


 高野和久が年に二度客演する際も、そのスタイルだった。

 ピアノ協奏曲は華であり、客演のピアニストを招くという性格上、演奏会の後半に持ってくるのが不文律だ。たくさんの演奏会を聴いてきた華音には、それがよく分かっていた。


「こけら落としも……そのパターンでいいのかな? 何かもっと入れたほうがいいの? 三部構成とか――」


 今回の企画は新ホールのこけら落としだ。最も重要な一大イベントである。

 ピアニスト・稲葉努を客演に招くというところまでは決定したが、その具体的な内容はほとんど決まっていない。

 華音は向かいに座る美濃部青年に同意を求めたが、彼はどうにも浮かない表情をしている。


「もっと違う発想でもいいんじゃないですか? 鷹山さんは随分と新しい試みにこだわっているみたいですから」


「そっか……じゃあ協奏曲じゃなくて、祝奏としてアンコールを務めてもらうとか」


「それって、アンコールって言わないですよね。むしろ祝奏なら演奏会のあたまに弾いてもらうほうが自然ですよ。こけら落としならなおのこと……でも、それだとどうしても『前座』っぽいですよね……それじゃあ客演ってことには、ならないんでしょうね」


 超一流の国際的ピアニストを前座に――いくら鷹山が新しい試みを求めていると言っても、さすがにそれはまずいだろう。


「はああああ。……どうしよう、美濃部さん」


 華音のついた大きなため息の原因は、企画書の他にもあった。

 理由は、単純なこと。

 昨日の定演が終わってから、鷹山とはいまだにひとことも口をきいていないのである。


 華音が学校に行っている間に、鷹山は芹沢邸へとやってきて、そのまま書斎にこもっているらしい。

 しかも、美濃部青年に伝言して華音に企画書を書くよう指示を出している。あえて顔を合わせることを避けているかのようだ。

 とにかく気が重かった。

 あまりいい別れかたではなかったことが、華音はとても気掛かりだった。


 昨日は、鷹山が音楽監督に就任して初めての演奏会ということもあり、彼のもとには音楽業界の著名な人物が多数訪れていた。

 さすがに高校生が采配を振るうことができる状況ではなく、コンサートマスターの美濃部に鷹山のサポートを任せ、華音はひとり早々に帰宅したのである。


「昨日、あの後の鷹山さん、どんなだった?」


 華音は新しいルーズリーフを取り出して、とりあえず清書を始めた。ゆっくりと文字をつづりながら、それとなく美濃部に尋ねる。


「別に、いつも通りでしたよ。特に疲れも見せていませんでしたし。やっぱり演奏会慣れしてるなって、感心しましたよ私」


 それを聞いて、華音は幾分落ち着いた。演奏会前の控室での一件は、演奏会自体にはまったく影響しなかったらしい。

 さすがは二重人格者――華音はそう心の中で毒吐いた。

 そんな華音の心中をまったく悟ることなく、美濃部は淡々と説明を続ける。


「当然ですけど、芹沢先生のときとは客層が違っていましたね。新進気鋭の音楽家たちの姿が多く見られましたし。あの有名な羽賀真琴さんの姿もあって、感激しましたよ。私、大ファンなんです」


 意外な名前を、美濃部は口にした。


「羽賀真琴って、女流ヴァイオリニストの人?」


「あ、知ってます? CDとか出してますもんね。控室にもちょっとだけ挨拶に見えられてましたよ。鷹山さん、お知り合いなのかなあ。いいなあ」


 美濃部の能天気な物言いが、華音の胸を締めつける。


「あの人、祥ちゃんの大学の後輩だから。祥ちゃんがうちに居候してたとき、よく電話をかけてきたし……祥ちゃんとは仲が良かったみたい。鷹山さんのほうはよく知らないけど」


 正直なところ、その事実はすっかり記憶の奥底に追いやられてしまっていた。ここで再びその名前を聞くとは、華音は思いもよらなかった。


「あ、そうなんですか。富士川さんにそんなに仲のいい女性がいたなんて。まさか、お付き合いされてたりとか?」


「分かんないけど、あの人は好きだったんじゃないかな」


 藤堂あかりと、同じだ。

 富士川祥を慕う女の存在を聞くと、動揺を隠せなくなってしまうことに、華音は気づいていた。

 中学生だった頃に一度だけ、華音は学校の親しい友達の一人に、このことを話したことがあった。

 それは『ブラザーコンプレックス』だと、ひと言ですまされた。

 兄が好きという感情だけではなく、兄を取り巻く女性に嫌悪感を覚える――ブラコン以外の何物でもない、そう軽く笑われた。


「ああ、羨ましいなあ。私の憧れる人はみんな富士川さんのことが好きなんですよねえ……」


「みんな?」


「え、い、いや。別に何でもありませんから! 今のは聞かなかったことに」


 いつも冷静で感情を表に出さない美濃部が、珍しく取り乱している。持っていたボールペンで、目の前の紙にぐじゃぐじゃと、幾何図形を殴り書きしている。


「美濃部さん……それ、鷹山さんに出す企画書なんだけど」


「え? あ、うわわわ、すみません。……書き直してもらえますか?」


 華音はため息を吐きつつ、新しいルーズリーフを一枚取り出した。

 手を動かしながらも、華音はいまだいろいろなことを思い巡らせていた。


 ――兄が好きという感情だけではなく、兄を取り巻く女性に嫌悪感を覚える。


 はたして、鷹山に対しても同じ感情がわくのだろうか――華音はそんな疑問を抱き始めていた。


 兄であって、兄ではない男。

 兄ではなくて、兄である男。




「ふざけるのも大概にしろよ」


 悪魔な音楽監督の第一声が、これだった。

 それなりに考えて、綺麗に清書した数枚のルーズリーフは、無情にも目の前で破り捨てられる。

 さらに鷹山は、冷徹極まりない表情で、その残骸が積もるデスクを派手に叩きつけた。

 その風圧で、華音の足元へも一片、舞い落ちてくる。もちろん華音はすくみ上がったまま、それを拾うこともできずにいた。


「君が聞いてきた稲葉氏の条件ってやつはどこに行ったんだよ? まるで話にならないね」


 大きな両目がしっかりと華音の顔を捉えて離さない。


「あ、すみません。じゃあ、すぐに別の……」


「美濃部君、君は黙っていてくれないか」


 美濃部の助けを、鷹山は皆まで言わせず却下した。

 勢いは止まることを知らない。その矛先はすべて華音に向けられる。


「僕たちはお遊びで音楽活動しているわけじゃないんだよ。君は確かにまだ高校生でアルバイトという立場だけど、もっと責任を持って仕事してくれないか? 僕を失望させないでくれ」


 公私混同を避けている――それは理解する。しかし、それにも限度というものがある。

 いや、むしろ。


「それにしても美味いなあ、これ。あー、美味い」


 鷹山はデスクの引き出しから、何やらつまみのような小袋を取り出した。食べ切りサイズ、らしい。すでに封は開けられている。鷹山はその中身を手のひらに出した。


「……何ですか、それ?」


 いぶかしげに美濃部が覗き込んだ。

 どこからどう見ても、味付き小魚である。


「乾さんに持ってきてもらったんだ。どうやら僕はカルシウム不足『らしい』から」


 鷹山は不自然に『らしい』を強調しながら、華音を睨みつけた。

 わざわざ芹沢家の執事に言いつけてまで用意させた、とは。

 どう考えても自分に対する嫌味としか、華音には思えない。


「へえ、ちゃんと健康に気を遣ってらっしゃるんですね。私も気をつけないとな。やっぱり一人暮らしだと栄養偏りますもんね」


「そうなんだよ。最近心身ともに弱っててさ、昨日なんか小生意気なイノシシに足を踏みつけられるし」


 美濃部青年が事情を知らないことをいいことに、鷹山は嫌味を連発してくる。

 絶句。あきれて反論する力さえ出てこない。


「……」


「なに、君まだいたの? さっさと作り直してこいよ。期限は明日の夕方までだ。分かったな?」


 立ち尽くす華音にとどめの嫌味、そして小魚をかじる小気味よい音。


 ――なんなの? 公私混同、しすぎじゃない?

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