奇妙な三角関係(2)
『いったい、どういうつもりなんですか?』
『挨拶もなしに音楽監督の部屋に乗り込んでくるとは、大したもんだな』
『富士川さんの顔にコーヒーをかけたって、どうしてそんな大人気ない真似を』
華音は驚きのあまり、呼吸するのも忘れてしまう。
昨日のシティフィルの演奏会での話に違いない。
『人聞きの悪い。あれは事故だよ、手が滑ったんだ』
『そんな言い訳、信じるとでも思ってるんですか』
『信じるも信じないも君の自由だけど。別に、火傷するほど熱くもなかったし』
『どうして……どうしてなの。あなた、そんなに富士川さんのことが憎いの?』
『言いがかりをつけるのも大概にしてくれないか。僕は音楽監督だ。この先、楽団に留まるというのであれば、もう少し大人しくしてもらわないと――』
そこまで聞いて、華音はとっさにドアから身を離した。
昨日の夜、華音とオーナーの赤城がパーティーに出ているとき、鷹山と行動を共にしていたのはコンサートマスターの美濃部だ。
華音は足音を発てないようにして鷹山の控室の前から離れると、事の真相を確かめるべく、コンサートマスターの美濃部を捜すため、急いでその場から走り去った。
目的の人物は、ホール入り口の受付付近でスタッフの仕事を見守っていた。
華音は飛びつくようにして美濃部の腕をつかまえると、そのままエントランスの端へと引きずっていった。
「美濃部さん! 昨夜のシティフィルの演奏会の話……本当なの?」
「ああ……もう伝わっちゃったんですか。まあ、あんな公衆の面前じゃ、隠そうったって無理な話ですけど」
美濃部は相変わらずあっさりとしている。そして、自分が見聞きしたものを、そのまま華音に説明し始めた。
「どっちもどっち、だったと思いますよ。私、鷹山さんのそばを離れていたので、はっきり聞こえなかったんですよ。内容はよく分からないんですが、富士川さんのほうが先に鷹山さんに何かを言ったんです。気づいたときには鷹山さんが富士川さんの顔めがけて、持っていた紙コップのコーヒーを、こう……」
美濃部は身振りで再現してみせる。
華音はまるで自分が顔に褐色の液体を浴びせかけられたように、思わず目をつぶった。
鷹山は事故だといっていたが、明らかに故意であったと予想がつく。
「祥ちゃんは、いったい何を言ったんだろ……」
「鷹山さんはああいう人ですから、いったん火がつくとなかなか収まらないですし」
昨夜の鷹山の態度がおかしかった意味が、華音はようやく分かったのである。
二人の間に何があったのだろう。華音の不安は募るばかりだった。
「華音さん、公会堂のスタッフとの打ち合わせはもう、終わりました?」
「あ……そうだ、美濃部さん。ステージに行ってもらえますか? 指揮台の位置を決めるのに、コンサートマスターに立ち会って欲しいって言ってました」
「ええ? 私が決めていいんですかね? ……なんか、いつまで経ってもコンサートマスターに慣れてこないんですよ。分かりました、すぐに」
指揮者かコンサートマスター、と言われたのだから、別に美濃部でも構わないだろう。
なにより。
華音は今この状況で、鷹山の控室に入って行く気には到底なれなかった。
開演まで一時間を切った。
ステージで最後のリハーサルを入念に行う団員もいれば、大楽屋で弁当片手に談笑するものもいる。基本的に自由時間だ。
いくら仕事に奔走しているからといって、一回も顔を出さないのはまずい――華音は気が進まないながらも、鷹山の控室へと向かうことにした。
音楽監督のときの鷹山は、厳しい顔つきをしている。
華音が控室へ入っていくと、鷹山はすでにステージ衣装に着替えていた。糊の効いた純白のシャツに、シルバーグレーのスラックスとベストを着けた状態まで出来上がっている。上着はまだハンガーに吊るされたままだ。
白い肌と栗色の髪。すらりとした細身の身体。グレーの衣装を身にまとう鷹山はよく目立つ。
「運営スタッフは今回、赤城オーナーに指揮を任せているけど、普通のイベントの運営とはやはり違うからね、分かるところは君が助言をしてやってくれ。あとは……なんだったかな」
とりとめのないことを思いついたままに喋っている。やはり落ち着かないようだ。
「緊張、してるんですか?」
華音の問いに、鷹山は大きな瞳を瞬かせながら緩やかに問い返した。
「英輔先生は――どうだった?」
「……分かんない」
「ん?」
微妙な空気だ。二人きりの空間。
出会ったばかりの頃は、二人きりになると緊張で居心地が悪かったが――今は違う。
「おじいちゃんの楽屋に行ったこと、なかったから。入っていいのは、祥ちゃんだけだったし」
「あのさ」
「分かってる。その名前を口に出すな、でしょ」
「まだ何も言ってないじゃないか」
「そのことじゃないんですか?」
鷹山はテーブルの上を指差した。
「ネクタイ、どっちがいいかな」
華音は呆気にとられた。そんなこと、わざわざ他人に決めてもらうことだろうか。
鷹山が指差した先には、グレーの大きさの違う二つの蝶ネクタイがある。
「別にどっちでもいいんじゃないですか」
「どうしてそうやって適当なこと言うんだよ。演奏家にとって衣装は特別な意味を持つものなんだよ」
いちいち逆らうと長くなりそうなので、華音は子供のようなことを言う音楽監督に、ひとこと助言をした。
「……そっちの小さめのほうが、カッコいいかも」
「じゃあこれ、つけて」
「ええ?」
また、何を言い出すのだろう。この男は。自分でできることまで人にさせようとする。
しかし、音楽監督の言うことは絶対だ。特に演奏会直前で神経過敏になっているときは、すべてを聞き入れることがアシスタントの務めだ。
「時間がない。早くしてくれ」
「…………はい」
華音は選んだ蝶ネクタイを手に取ると、留め金の端と端を持って鷹山と向き合った。
腕を伸ばし、鷹山の首の後ろに手を回す。
音楽監督は無言のままだ。
近い。近すぎる。
緊張して手が震え、上手く金具が止まらない。
「首、絞めるんじゃないぞ」
鷹山は痺れを切らし、ふざけて悪態をついた。
「ひょっとして君、怒ってる?」
こんな至近距離で。真面目な顔で。いつキスされてもおかしくないほど近い場所で、探るように尋ねてくる。
【本当に、しようか】
昨夜の鷹山のささやきを思い出して、華音は恥ずかしさで顔が熱くなった。
無理矢理関係を進めようとしたことを、言っているのだろうか。華音が拒んだ態度を気にしているのか、それとも。
その動揺を悟られまいと、努めて冷静に対応する。
「私に怒られるようなことでもしたんですか? なに弱気になってるんですか、鷹山さんらしくない」
しかし、鷹山は華音の思惑とは違うことを返してきた。
「美濃部君から聞いたんだろう、昨日の一件」
――なんだ……そっちのこと、か。
なんて顔をするのだろうか――この音楽監督は。
普段楽団員たちにはおよそ見せたことのない、脆くてすぐに崩れてしまいそうな表情をする。
艶やかな瞳に映る不安定な心。
どちらかに引きずられては困る――そんな赤城の意見は、到底聞き入れられるはずがない。
「理由は何であったにせよ、公衆の面前で兄弟子の顔にコーヒーをかけるなんて、人として恥ずかしいと思います。怒りっぽいのはカルシウム不足なんじゃないですか? 今度書斎に小魚用意しておきますよ」
「…………」
何も言い返してこない。三倍返し必須の、雄弁で饒舌な音楽監督が、珍しいことにありえないほど大人しく、ネクタイをつけ終えるのをじっと待っている。
「はい、できました。じゃあ、私は受付のほうにいますから、時間になったら舞台袖に待機してくださいね。たぶん美濃部さんが呼びに来てくれますから」
「ちょっと」
半ば逃げるようにして控室を出て行こうとする華音を、鷹山がひとこと呼び止めた。
ドアノブに手をかけたまま、その場で振り返る。
「なんですか?」
「いいからちょっと」
鷹山は手招きをする。近くまで寄ると、指で自分の耳を指し示し、耳を貸せという仕草をする。
華音は素直に従い、鷹山のほうへと耳を寄せた。
何か指示し忘れていたことでもあったのか、それとも別な何か――。
鷹山は、華音の耳元に唇を寄せるやいなや、いきなり怒鳴った。
「誰が小魚なんか食べるか、バーカ!」
華音は反射的に耳を両手で塞いだ。これ以上できないくらい両目を見開いたまま、バランスを崩し床にへたり込む。
「そんなつまらないこと言うためだけに呼び戻さないでください! 鼓膜、破れるでしょ!?」
鷹山はツイと顔をそむけた。
もはや、まともに話を聞く気は無いらしい。
拗ねた悪魔への仕返しに、華音はステージ用の革靴の上から鷹山の足を思い切り踏んづけてやる。
そして、ぎゃああとか骨折れたとか凶暴人間だとか、大袈裟に喚き散らす彼の声を背に、そのまま控室を飛び出した。
――本当に、本当に気難しいんだから…………もう、知らない。
それが二人の、初めての演奏会の本番前、最後のやりとりだった。
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