未知の世界(2)

 華音が得意げに言うと、赤城は何かに納得したように大きく頷いた。


「和久と富士川という青年は、君とは家族のようなものなのだな。君と話しているだけでそれが見えてくる」


「それは――――おじいちゃんがいたから、です。たぶん」


 認めたくないが、これが現実なのだ。

 華音は自分で発した言葉に、虚しさを覚えてしまう。


「高野先生はおじいちゃんのお気に入りで、祥ちゃんはおじいちゃんの弟子で。そして私はおじいちゃんの孫だった――それだけ」


 今の状況は、それですべて説明がつく。


「君が勝手にそう思い込んでるだけではないのか?」


「……え?」


「そんなふうに君が考えていると、彼は救われない、きっと」


 こんなにも。

 赤城の言葉は、華音の心をかき乱す。

 自分と富士川の何を知ってて、この男はそんなことを言うのだろうか。


 ――この人に、嘘は通用しない。


「赤城さんには、答えが……見えてるんですか?」


「最終的な理想形には、明確なビジョンがある」


 赤城は躊躇することなく言い切った。


「ただし。それを実現するには、現在は不可能な状況だ。人の気持ちを変えるのは簡単なようで――難しいからな」


 過去に自分自身が受けた体験に重ね合わせているのか――赤城は自虐的なため息を洩らす。

 華音は淡々と「そうですね」と、呟くように返事した。



「そもそも、今日のパーティーはね」


 赤城がその場の雰囲気を変えるようにして、新たな話題を切り出した。


「ドイツにクラシック音楽専門のレーベルがあるんだが、今度その販路を日本に広げることになってね、その新規参入を記念したレセプションなんだよ。我が社も一部資本参入しているんだ。だから私は、このレセプションに招待されているというわけだ」


 赤城の説明は、弱冠高校生の華音にはとても難しいものだった。経営に携わる人間でないと聞き慣れない言葉を、赤城はいくつも口にする。

 こういうときに、赤城は住む世界が違う人間なのだと、と華音は改めて感じてしまう。


「赤城さんって、何だかいろいろなことに手を出してるんですね」


「ブレーキの無い自転車をこいでいるようなものさ。とにかくこいでこいでこぎまくる。そうしないと、倒れて転んでしまうからね」


 華音は、赤城の言葉どおりの情景を想像してみる。華音には到底真似できない危険な行為だ。


「……ブレーキ、つけたほうがいいんじゃないですか? いつか大怪我しちゃいますよ」


「心配してくれるのかい? それはありがとう」


 赤城には何を言ってもこの調子だ。弄られ遊ばれている感が、どうも拭えない。


「話を戻すがね」


 赤城は会話を冷静にコントロールし、軌道を修正した。


「稲葉努氏は、そのドイツのレーベルと契約しているんだ。今回の来日は、日本版のレーベルの立ち上げのプロモーションも兼ねて、レセプションに出席する、ということなのだよ」


 つまり。

 稲葉努は現在、ドイツを中心に活動しているということらしい。

 『帰国』ではなく『来日』という言葉に、多少の違和感を覚えるが――。


「この稲葉氏は主に国際舞台で活躍しているピアニストで、音楽一門に生まれたサラブレッドらしい。扱いには気をつけてくれたまえ」


「プライドが高いってことですか? それなら大丈夫です、鷹山さんで充分免疫ついてますから。要するに、『うちで客演してみないかい? 稲葉さーん?』って言えばいいんでしょ」


 華音はおどけたように親指を立てて、それを赤城に向けて軽く振ってみせた。

 赤城は少女の答えに度肝を抜かれたのか、面食らった表情をさらしていたが――何か、赤城の心をつかんだらしい。突然、エントランスに響き渡るような大声で、大男は豪快に笑い出した。


「ははは、それでOKがでたなら、我が社の営業促進部の部長待遇で、ぜひとも君を採用させてもらうとしよう」


「ひょっとして馬鹿にしてません?」


 赤城は笑うのを止め、驚いたように目を見開いた。そのまま数度、瞬きを繰り返す。

 そして前髪をかき上げ、右足を左足の上に組み、華音のほうへわずかに身体を傾けた。

 いい香りがする。同級生の男子がつけているようなメンズフレグランスとは違う、深い瞑想の香りだ。


「いや、君のその分かりやすさを誉めているつもりだが。芹沢君は面白い人だな」


 大人の男の匂い――なのだろうか。しかし、鷹山の持つ空気とは、やはり一線を画している。

 どうにも落ち着かない。華音は雰囲気に飲み込まれぬよう、赤城を制した。


「……そこで無駄にカッコいい男のオーラ、出さないでください。使う場所、間違ってるでしょ」


「間違ってる? では、どこで出したらいいというんだい?」


「どこって、好きな人の前……とか?」


「では、まったく問題ない。私は君のことを気に入っている」


 恥ずかしげもなくいけしゃあしゃあと、この男ときたら――華音は軽く目眩を覚えた。


「あのですね……FavoriteとLoveは違うんですからね?」


「ほう、大したもんだな、芹沢君はさぞかし英語の成績がいいんだろうな」


 むきになる華音を、大人の余裕でさらりとかわすさまは、もはや職人芸の領域だ。


「赤城さんの英語のレベルって、どれだけ低いんですか。もう、馬鹿にしすぎですよ」


「今は日常会話程度ならこなせるが……私が高校の頃はきっとFavoriteなんて単語、知らなかったよ」


 何を言っても、かわされるか逆に包み込まれるか――しかし、それも慣れてくると、ある種の快感さえ覚えてくる。


「あー、そういえば赤城さんはスポーツ特進科って言ってましたっけ。部活やってればいいんですもんね」


「ははは、君こそ私を馬鹿にしているじゃないか。お互い様だな」


 二人は何だか無性に可笑しくなって、同時に笑い出した。

 高級なホテルのエントランスで、優雅な噴水の流れる音を聞きながら――。

 この美しき未知なる世界にそぐわない二人のやりとりが、なんとも滑稽だ。


「なんだかんだ言っても、私たちはいいコンビだ。そうは思わないか、芹沢君?」


「まあ、そうですね。お互い無いものを持ってるし?」


 お互いが助け合える存在――そう言いたかったのだが、赤城の答えは違っていた。


「いや、君と喋っていると夫婦漫才のようで、楽しいんだよ」


「……前言撤回します」


 華音は思わず深い深いため息をついてしまった。

 もう、何を言っても無駄に違いない。


 赤城はようやくソファから立ち上がった。そして、華音に片手を差し出し、気障なエスコート役に専念する。


「さあ、行こうか。稲葉氏の顔は分かるか?」


 差し出された大きな左手に、華音は遠慮がちに右手を載せた。慣れない行動が恐ろしく気恥ずかしい。

 しかし。この程度で挫けているわけにはいかない。

 華音は気を取り直した。何事も『慣れ』である。


「ちょっとつり目のナルシストっぽいクールなオジサンでしょ。何かの雑誌で見たことありますよ」


「オジサン……俺とも同い年なんだがな」


 そんな哀愁を帯びた赤城の呟きを、華音は軽く聞き流した。

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