断ち切れぬ宿命(1)

 華音と赤城が向かったパーティー会場は、ビジネススーツを着用した業界関係者で埋め尽くされていた。中にはキャリアウーマン風の女性の姿もあったが、皆仕事の延長のシンプルでクールな服装だ。

 桃色のドレスを身にまとった華音は、明らかに浮いていた。

 大株主の子息令嬢が暇つぶしに遊びに来たと、周囲からは思われているに違いない。


 会場である大広間をひと通り見渡すと、隅にひときわ華やかな一群が固まっている。

 こちらは一見して業界関係者ではないことが分かる。

 欧米人が何人か混じっており、その服装もみな煌びやかだ。おそらく本家ドイツのCDレーベルと専属契約をしている演奏家たちなのであろう。

 華音はその中に、目的の人物を見つけることができた。見失わないように目で追いながら、すぐさま赤城のスーツの袖を引っ張り、合図する。


「赤城さん、あの人ですよ。今、金髪の男の人と話してる、ほら、あの人! あれが稲葉努です」


「確かかい?」


 赤城は慎重に様子をうかがっている。


「話しかけてみれば分かるでしょ。行ってきます」


 もたもたしていてコンタクトにしくじってしまったら、あとからあの悪魔な音楽監督に何を言われるか分からないのである。


「待ちたまえ。もうちょっと状況を把握してから…………おいおい」


 華音は赤城の助言も聞く耳持たず、すぐに行動を開始した。




「あの! 稲葉努さんですよね!?」


「そうですけど……」


 いきなり場違いな少女に声をかけられ、男は面食らったようだ。神経質そうなつり上がった目を見開き、二の句が継げず黙ったまま、華音の顔をひたすら凝視する。

 華音はチャンスとばかりに、相手に返答の隙を与えず、さらにたたみかけるように言った。


「写真で見るよりずーっと、カッコいいですね。知的で、芸術的で、ちゃんと人間らしい生活してそうな……」


 華音がそこまで言うと、後ろに控えていた赤城が大きな身体を寄せすばやく耳打ちしてくる。


「芹沢君、最後の部分が微妙に失礼だぞ。和久と比べているのは分かるがな……」


 前途多難だ、と頭を抱える赤城とは対照的に、目的のピアニストは別のところに反応していた。


「セリザワ?」


 それを受けて、赤城が華音の前に進み出た。そして、礼儀正しく挨拶をする。


「我々は芹沢交響楽団のものです。私はオーナーの赤城麗児といいます。彼女は音楽監督の代理で、芹沢華音。先代の音楽監督の孫にあたります。まだ高校生なもので、若さゆえのご無礼をお許しください」


 こういうときになると、すぐに子供扱いする赤城が腹立たしい。華音が赤城の顔を見上げ睨みつけると、目の前に立ちすくむピアニストは特に気にするふうでもなく、さらりと言った。


「まったく構いませんよ。明るく元気な子は好きですから――そうですか、あの芹沢さんのお孫さんでしたか」


「芹沢英輔氏のことをご存知で?」


「ええ、もちろん。お亡くなりになられたばかりですよね、確か。海外で暮らしているもので、幾分情報が遅いんですけど」


 やはり祖父である英輔の名前は広く知られている。とりあえず話すきっかけがつかめたので、華音は安堵した。

 思っていたよりも紳士的で話がしやすそうだ。

 しかし、まだまたこれから。油断はできない。


「何かお飲みになりませんか? 芹沢君はオレンジジュースだな」


 赤城はすばやく片手を挙げ、近くを通りかかったウェイターを呼び止めた。


「ああ君、オレンジジュースを一つ。稲葉さんは?」


「ワインを。赤で。ロジェールはある?」


「すぐにご用意いたします」


 ウェイターはすぐに理解したらしい。きびきびとした無駄のない動きで対応している。


「では私も同じものをもらおう」


 ――ロジェール?


 稲葉は、華音の耳慣れない言葉を口にした。

 ロゼ、なら聞いたことがあるが、稲葉ははっきりと『赤』と言っていた。

 よく理解できなかったので、華音は二人の大人の男のやりとりに、じっと耳を傾けた。

 赤城は感心したように頷いている。


「私はアルコールの種類にはまったくこだわらない性質でね。あなたはこだわりが強いようだ、銘柄まで指定するとは」


「フランス語で『純潔な乙女』という意味なんです。ロジェール。僕の永遠の憧れです」


 ワインの銘柄の名前だったのか、と華音はそこで初めて理解できた。同時にそれが、この稲葉という男の人間性を如実に表した言葉であることに気づく。


 ロジェール――永遠の憧れ。なかなか言えることではない。


 音楽一門のサラブレッドというのは伊達ではないようだ。その辺の男とは確実に品位と美意識に差がある。


「華音さんのような方にピッタリのワインですよ。まあ、未成年では勧められませんが――」


 稲葉は、品のある笑顔を華音に向けてくる。

 それを聞いた赤城は、訝しげな眼差しを華音に向けた。そして、ため息混じりに呟いてみせる。


「ロジェール……ね。ぎりぎりアウトかな」


 なんということを。

 一気に頭に血が上り、顔が火照ってくる。

 言葉少なにこの大男は、華音の触られたくない部分をかき乱す――。


「セーフです! 全然セーフ!」


「本当か?」


 指示語がない。何がアウトで何がセーフか。余計なことを言うと足元をすくわれそうだ。

 華音は慎重に言葉を選ぶ。

 目の前には、事情を知らないピアニストの男がいる。


「……ぎりぎり、セーフです」


「そうか――それを聞いて安心したよ」


 鷹山と自分の関係の進み具合を、赤城は言葉巧みに引き出していく。

 そんな赤城の誘導尋問に、いとも容易く引っかかってしまうのが、華音はとても悔しかった。

 すると。

 意外にも、稲葉は見当違いの方向へ話を進めた。


「ああ、ひょっとしてお二人はお付き合いされていらっしゃるんですか?」


「さすがは稲葉さん、洞察力が優れていらっしゃる。分かりますか?」


 完全、脱力。

 どうして初対面の人間にまでそのような戯言を、こうもためらいなく言えるのだろうか。

 赤城の説明に納得したのか、稲葉は軽く頷いている。


「まあ、よくあることですからね。ゆくゆくはご結婚を?」


「まだ彼女は高校生ですから、かなり先のことになりますが――」


 軽快に相づちを打って見せている赤城に、華音は怒りを押えきれず、得意げな赤城の顔を指差して、稲葉に訴えた。


「ちょっと待ってください! この人はちょっと見た目若作りしてますけど、高野先生と同い年なんですよ!? 二十歳以上離れてるのに、そんな、付き合ってるだなんてありえません。稲葉さん、洞察力ゼロじゃないですか! それに赤城さん! ふざけないで、ちゃんと否定してください!」


 華音が必死の形相で、二人の男を交互に睨みつけた。

 赤城は、稲葉とお互い目配せをし、肩をすくめてみせる。


「付き合っていません。彼女は私の『おもちゃ』だ」


「こら」


 隙のない華音の切り返しに、赤城は三度言い直す。


「彼女と私は『純粋な労使関係』だ。――これで満足か」


「何で初めっから素直にそう言ってくれないんですか。まったくもう……」


 二人のやり取りを、稲葉は驚いたような眼差しで見つめている。

 しかし、今までの会話の流れで、おおよその人間関係はつかめたのだろう。


「……ですよね。高野君と同い年なら、僕とも一緒ですもんね。すみません芹沢さん、失礼なことを言ってしまって」


「私と高野和久は、実は高校時代の同級生なんですよ」


「ああ……そうだったんですか。高野君の……」


 そこへウェイターが所望した飲み物をトレイに載せてやってきた。

 それぞれがグラスを取ると、赤城と稲葉は軽くグラスを掲げて乾杯の意思を交わした。華音も慌てて二人の真似をする。

 稲葉は優雅にグラスを鼻先に近づけて軽く赤い液面を揺らす。目を閉じ軽く頷くとほんの一口、ゆっくりと含んだ。

 稲葉のワインを飲む仕草は洗練されている。華音はその様子に見とれていた。

 一方の赤城は、相変わらず豪快だ。以前アイスティーを飲んでいたときと同じように、あおるように一気に半分ほどを胃に流し込む。


「芹沢英輔さんのことは、よく知っていますよ。高野君が気に入られてましたから」


 お酒が入り、ほんの少しだけ稲葉が饒舌になった。

 自分たちのよく知る男の名を口にし、楽しげに語りだす。


「大学のときにですね、芹沢英輔氏がプロデュースしたダイニングバーでピアノを弾くバイトをしたことがあるんです。そこのバーで、高野君は飛び入りで演奏したことがあって、その演奏が気に入られたんでしょうね。それが縁で、今でもお付き合いがあるようですし」


「へえ、そういう経緯なんですか。高野先生のこと、初めて聞いた」


 華音は興味深く話を聞いていた。祖父の英輔が過去にバーをプロデュースしたというのも、そこで稲葉と高野がピアノを弾いていたということも、まるで別世界の話のようだ。

 それがきっかけで、高野は芹響の専任の客演ピアニストとして現在に至っているのだから、人生何が起こるか分からないものである。


「あいつはピアノを弾くのだけは上手いからな。私は素人だがね、高校のとき、和久のピアノを聴いて初めてクラシックの良さを認識した」


「へえ。なんか、面白いですね」


 今度は赤城の話だ。クラシック音楽にうといスポーツ特進科の赤城が、音楽科の高野の弾くピアノを聴いている姿――滑稽だ。


「赤城さんは高校時代の同級生で、稲葉さんは大学時代の同期なんですよね。赤城さんと稲葉さんは今日初めて会ったのに、高野先生を通して繋がってる。そして私は、大学を卒業した後の高野先生のことを知ってるから、三人合わせたら、高野先生の半生をまとめられる……かも?」


 華音がそう言うと、稲葉は納得したように頷いてみせる。


「高野君を通して繋がっている、何のつながりもない三人、ね。確かに奇妙だ、面白いですね」


「まあ、和久の半生をまとめる必要性はまったく無いが……」


 赤城が、もっともらしいことを言った。



 稲葉はじっとロジェールの赤い液体をグラス越しに見つめている。そして、突然ぽつりと呟くように言った。


「高野君は今、独身だっていう噂を聞いたんですけど」


 やはり、避けられなかった。

 華音は、ある程度予想していた気まずさと向き合わされてしまう。できることなら、今回のオファーは高野の離婚のこととは別にして欲しかったのだが――しかし、そうことは上手く運ばない。

 華音が返答に躊躇していると、赤城が代わるようにしてきっぱりと言い切った。


「その通り。五年前に離婚した」


「あ、赤城さん!」


「事実だ。隠す必要はない」


 確かに隠す必要はないのかもしれない。しかし、不必要にさらけ出し逆なですることもないのではないだろうか――。

 話の流れが良からぬ方向へと進んでいる。


「五年前……そうか……あれからもう、五年も経つんだ」


 稲葉は憔悴しきったように、深いため息をついた。ずっと下を向いたまま、グラスを持たないもうひとつの手で目頭を押さえている。


「あの……稲葉さん?」


「残念だよ、本当に」


 冷たく言い放つ稲葉の顔は、どことなく寂しげだ。


「離婚するぐらいなら、初めから結婚なんてしなければ良かったのに」

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