一番弟子の報復(2)

 秘書ということだったので、華音は芹響でいうところの美濃部青年のような若者を思い浮かべていた。

 しかし、実際客間に通されていたのは、オーナーの赤城よりも幾分年上の、小柄な中年男性だった。口ひげを豊かに生やし、その風体はまるで小熊だ。

 小熊男は礼儀正しくお辞儀をし、穏やかに微笑んでいる。


「このたびは突然のご無礼をお許しください。そちら様が演奏会の会場をキャンセルされたということで、私どもが第一土曜日を使用させてもらうことになりました」


「キャ…………キャンセル?」


 何を言われているのか、華音にはまったく分からなかった。

 小熊男は華音の反応に構うことなく、淡々と説明を続ける。


「ええ。いつも第一土曜日は芹響さんが使用されていたようですので、常連のお客様の混乱も避けられないでしょうから、もし何かございましたら私が窓口になりますので、ご連絡いただければと思います」


 そう言って、大黒氏の秘書は持参した大きな封筒から、モノトーンでデザインされたチラシとサインペンを取り出し、余白に自分の名前と連絡先を書いた。

 そして用件をすませると男は長居は無用、とすぐに帰っていった。


 残されたチラシには、確かに芹響が定期演奏会を予定していた日時が刷られていた。鷹山が説明していた「ブッキング」だ。

 そして、さらに。

 開催場所のところにはっきりと「市立公会堂」という、ありえない五文字が明記されていたのである。




 華音はいてもたってもいられず、鷹山に電話をすることにした。

 緊急連絡用にと、携帯番号を教えてもらっていたのだが、実際にかけるのはこれが初めてだ。

 たったの数コールが永遠に続くような、そんな錯覚を覚えてしまう。

 しかし意外にも、目的の人物はすんなりと出た。


「鷹山さんですか? あの、芹沢ですけど」


『何だ、君か』


「朝早くにすみません。寝てたのならごめんなさい」


『こんな時間まで寝てるわけがないだろう。僕は早起きなんだよ』


「……老人みたいなんですね」


『フン、確かに君よりは年くってるけどね。それより――』


 鷹山はただならぬ状況を察知したようだった。


『どうした? 何があったんだ?』


 何と説明したらいいのだろう。頭の中で、先ほど小熊男が話していたことを自分なりに必死にまとめようとするが、華音自身、今ひとつ理解できていない。

 とりあえず考えられることを、華音は恐る恐る尋ねてみる。


「今度の定期演奏会を、あの……勝手にキャンセルさせたりして……ないですよね?」


『君、なに寝惚けたこと言ってるんだよ。朝っぱらからそんな笑えない冗談を聞いてる暇はないんだけど。何で僕がそんなことをしなくちゃいけないんだよ』


 受話器の向こうで、相変わらずまくしたてている。

 華音は構わず続けた。


「シティフィルの方が先程お見えになって、うちの定演がキャンセルになったから、その空いた日に公会堂を使わせてもらうって、言ってきたんですけど」


 黙った。

 鷹山の呆気にとられている顔が目に浮かぶ。

 それでもすぐに状況を把握したのか、受話器の向こうから鷹山のすばやい指示が飛んだ。


『今からすぐそっちに向かう。詳しい話はそのとき聞く。状況確認が必要だな。公会堂の事務局の電話番号を調べておいてくれ』


 華音が返事をする暇もなく、鷹山は一方的に電話を切った。




 鷹山は三十分ほどで芹沢邸に現れた。


 デスクの上に用意した公会堂の事務局の電話番号に、彼は自分の携帯からすばやくコールする。

 まだ九時前だ。事務局が開いているのは午前十時から午後七時まで。催事があるときは午後十時までとなっている。

 電話に出たのは公会堂の守衛らしかった。おそらく事務局が閉まっている間は守衛室に電話が繋がることになっているのだろう。

 鷹山は来月の第一土曜日の予定を守衛に尋ねている。電話の向こうでもたつく守衛に、鷹山は眉を寄せていらつきをあらわにしている。


 ひとしきり話して電話を切ると、鷹山は携帯をシャツの胸ポケットへ戻し、難しい顔をしながらため息をついた。


「事態は深刻だ。ブッキングどころか、会場を乗っ取られた」


「乗っ取られたって……どういうことなんですか?」


 鷹山はデスクを両掌で叩きつけた。会館の電話番号を記したメモ紙がふわりと浮かび、床へ舞い落ちる。


「まだ分からないのか? シティフィルは僕らが定演を予定していた日に、市立公会堂で演奏会をしようとしてるってことだよ」


 鷹山の尋常ではない剣幕に、華音は一瞬ひるんだ。

 やり場のない怒りが、鷹山の大きな両の瞳に満ちている。


「ええ? そんな、だって……毎月第一土曜日は芹響が定演をやることになっているはずなのに」


「誰が決めたんだ、そんなこと? まさか、市の人間がそう決めて勝手にホールの使用許可をとってくれているなんて、君はそんな愚かなことを考えてるわけじゃないだろうね」


 ――使用許可? ……そんなことを、突然言われても。


 演奏会がどうやって運営されているかなど――もちろん、今の華音の仕事が運営業務を管理することだということは、承知している。

 演奏会を行う日付を決めて、曲目を決めて、ポスターとチラシとプログラムとチケットを作って、地元紙の催事欄に宣伝をお願いして。そのくらいなら分かる。

 しかし、会場を押さえる方法など、その知識は皆無に等しい。


「うちのホームグラウンドはどこだ? 定演は市立公会堂でずっとやってきているはずだな? そう、『市立』。公共の建造物だ」


 鷹山は華音の反応を待たずに、ひたすら弁を振るう。


「つまり、公会堂は行政機関の下に置かれてる。融通を利かせてくれることは――正直、期待できない」


 言葉が出てこない。

 自分が取り返しのつかないミスをしてしまったのではないか、という恐怖が華音を襲う。しかし、今の華音にはいったいどんなミスをしたのか、それすら見当がつかない状態だった。

 鷹山は混乱している華音に、容赦なくたたみかけるようにして言う。


「凹んでるヒマがあったら、行動に移せ。公会堂に直接行って、話を聞いてくるんだ。午前中のうちにすませろ。戻り次第、僕に報告すること。分かったか?」


「……分かりました。すぐにやります」


 厳しい指示も、今の華音にとっては救いの光だ。とりあえず何をすべきか分かるだけで、随分と動きやすくなる。

 華音の前向きな反応を見て、鷹山は幾分語調を和らげた。


「失敗したらやり直せばいい。分からないことはすぐに調べて覚えたらいい。君は大きな責任を背負っているが、それと同時に皆の期待も背負っているんだということを――忘れるなよ?」


 責任、そして期待。

 今まで華音の身にそのような重い言葉がのしかかったことはなかった。


 何もできない。何も期待されない。

 祖父母や執事、兄代わりの富士川や高野に甘やかされた、温室育ちの娘に過ぎなかった。


 だが、この悪魔の二番弟子が音楽監督となってからの自分は、随分変わった――華音はそう感じていた。

 それがはたしていいほうなのか悪いほうなのか、それはまだ華音には分からない。


 華音が書斎をあとにしようとドアノブに手をかけたとき、鷹山の声が背中越しに響いてきた。


「しかし、とんでもない『鬼』の仕打ちだな。あの人にはつくづく失望させられる」


 無慈悲な冷たい『悪魔』の声が、華音の背中に突き刺さる。

 華音は振り向くことができなかった。身を引き裂かれてしまいそうな感覚に苛まされ、逃げるようにしてドアの外へと出た。

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