一番弟子の報復(1)

 華音はじっと、鷹山の背中を目で追っていた。

 富士川ほど長身ではないが、すらりとした細身の体つきだ。絹のように滑らかな栗色の髪は、誰もが羨むほどに美しい。


 血の繋がりなど、微塵も感じさせない。


 ひょっとしたら、オーナーの赤城が調査させた内容は間違いなのでは――そう思わずにはいられない。

 しかし、古くから芹沢家に出入りしている高野和久が、この二番弟子の鷹山を『芹沢英輔の実孫』とはっきり認めているのだから、覆しようのない事実なのだろう。


 今日の鷹山はいつになく静かだ。朝からひとことも喋ろうとしない。窓辺にもたれるようにして立ち、前庭の花壇を物憂げに眺めている。


 鮮やかな紅。冴えるような蒼。


 五年前に亡くなった芹沢英輔の妻が心身ともに壮健だった頃、愛でていた花々だ。今もなお、執事が亡き夫人を偲んで、定期的に庭師に手入れをさせている。


 鷹山は、何か考え事をしているのだろう――こういうときは、構うことなくそっとしておくのが最良の選択だ。

 最近ようやくコツがつかめてきた。


 華音はセンターテーブルのところで一人、オーディションに受かった新入団員の入団手続きの書類に不備がないか、のんびりとチェックをしていた。

 午前中の鷹山は、大概この調子だった。午後になれば、オケの合わせのために市民ホールへ出かけたり、練習のオフの日でもこの書斎でスコアの研究にいそしんだりと、音楽監督らしく多忙に過ごしている。


「芹沢さん、コーヒー」


 庭を眺めるのに飽きたのか、鷹山はようやく窓辺を離れて自分専用のデスクまで数歩戻り、革張りの椅子にゆっくりと腰かけた。


 カフェイン中毒の音楽監督のために、華音は居候中の高野に頼んで、部屋の隅にコーヒーを淹れるための専用スペースを作ってもらった。

 ホームセンターで売っているような組み立て式のキッチンワゴンに、コーヒーメーカーを載せただけの簡単なものだ。


 コーヒー豆は、高野が経営する楽器店に出入りしているクラシック喫茶のマスターから一週間分ずつ挽いてもらい、缶に入れてある。水は軟水のミネラルウォーターをペットボトルに入れて、豆の隣に用意している。


 ドリップにペーパーフィルターをセットし、コーヒー豆を2杯、水は400ミリリットル。

 あとはコーヒーメーカーが上手く淹れてくれるはずだ。



 緩慢な時間の流れだ。

 仕事をし始めた頃と比べて、随分と沈黙の苦痛が和らいだ。

 芳しき香気が書斎の中をゆるりと漂っている。


 鷹山はこのコーヒーを淹れるときの、豆が息づくような芳醇な香りがたまらなく好きだという。目を瞑り、深く呼吸を繰り返すさまは、思わず見惚れてしまうほどだ。


 綺麗な顔をしている。透き通るようなきめ細かな白い肌。ひげの剃り跡も分からない。もともと薄い体質なのだろう。

 眠っているのだろうか――華音は鷹山にそっと近づき、顔を近づけて確かめようとすると。

 突然、鷹山の大きな瞳が開いた。至近距離で目と目が合う。


「ビッ、ビッ、ビックリさせないでください!」


 華音は慌てて飛び退いた。

 鷹山は取り乱すことなく、柔らかに問いただしてくる。


「……それは僕のセリフじゃないのか? どうしたの? 僕の顔に何かついてた?」


「鷹山さんにしては随分静かだから、呼吸止まっちゃってるんじゃないかと思って」


 華音は取り繕うようにして、言い訳を試みた。そのまま鷹山に背を向け、半ば逃げるようにしてコーヒーメーカーのワゴンまで移動する。


 ――いったい私は、何を?


 そんな挙動不審な華音を、悪魔な鷹山は見逃すはずもなく、わざとらしく食いついてくる。


「ふうん。もしそうだとしたらきっと――死因は、君が僕を驚かせたことによるショック死、だよ。ああ、世界的に貴重な才能の損失だ」


 また始まった――と、華音は思った。

 いつだってこの男の言うことは、大袈裟なのである。


「……へえ。見かけによらず、随分と心臓が弱くていらっしゃるんですね」


「そうさ。僕の心臓はガラスでできている」


「ああ、それって防弾ガラスでしょ。それなら納得です」


 華音のテンポの良い返答に、鷹山は声もなく身体を揺らして笑っている。今日は珍しく、大層機嫌がいいらしい。

 調子がいいとこうやって、会話を途切れさせることなくいつまでもじゃれ合いを続けてくる。

 口では鷹山には勝てない。

 しかし、それを何とかやり込めようと考えをめぐらしているとき、わずかに自分の気分が高揚していることに、華音は最近になってようやく気づき始めていた。

 きっと、いいストレス解消になっているのだろう。



「芹沢さん。君さ、シティフィルって知ってる?」


 華音は淹れたばかりのコーヒーをカップに注ぎ、ミルクのポーションをひとつだけスプーンの上に添え、それを鷹山へと差し出しながら、質問に答えた。


「知ってます。あそこの音楽監督はおじいちゃんの昔からの知り合いみたいです」


「大黒芳樹、ね。僕も名前は知っている。オケ業界では有名人だからね」


 そのとき、ふと。

 華音の心に、何か引っかかるものがあった。


【華音ちゃん、大黒芳樹って知ってるだろ?】


 富士川のマンションを訪ねたとき―― 一番弟子の彼が言っていたことを、華音は思い出した。


【こいつをいつまでも眠らせておくわけにはいかないからね】


 そう言って富士川は、師である芹沢英輔から与えられたヴァイオリン「ニコロ・アマティ」を、深き眼差しで見つめていた。

 そのときの情景がリアルによみがえってくる。



 鷹山は華音が淹れたコーヒーに口をつけた。

 液体を飲み込むたびに、喉が艶やかに動く。その様子に、華音はずっと見とれていた。

 鷹山はそんな華音の視線に、まったく気づいていないらしい。無造作にカップを元の位置に戻して、そのまま話を続ける。


「そのシティフィルが、うちにブッキングを仕掛けてきた」


「ブッキング? 何ですか、それ」


 鷹山はあきれ返ったように、嫌みったらしくため息をついてみせる。


「君の頭でも分かるように簡単に言うとね、演奏会の日時をぶつけてきたということだ。……常識がなさすぎだ。学校でいったい何習ってんだよ」


 口が悪い。いつものことなのだが――。


「演奏会の日時がかぶることくらい、別に珍しくないでしょ? そりゃ、お客さんの入りには多少影響があるかもしれないですけど。でも向こう、隣の市のオケだし」


 鷹山はデスクの上においてあったバインダーから、県の音楽連盟が取りまとめているイベントリストの紙を取り出した。そしてそれを華音に見えるように向けてくる。


「前もって決まっていたわけではなくて、あとひと月もないっていうこの時期に、突発的に開催を決めた演奏会なのに、か? その証拠にほら、ここ。場所も演目もまだ『仮』って書いてある。こんなの、誰かが作為的に仕掛けたに決まっているじゃないか」


「誰かって……?」


「『誰か』だって? そんな白々しい質問を僕にしようってのか?」


 鷹山が誰のことを言っているのか、華音には分かっていた。それでも、あえて知らないフリをする。


「だって、作為的ってつまり……わざとってことでしょ? そんなこと普通、ありえないですよ」


「つまり君は、富士川さんがそんなことをするはずがない――って言いたいのか?」


「別にそういうことじゃ、ないですけど」


 華音は鷹山に責められ、消え入りそうな声で返した。

 その言葉で、鷹山は何かの確証を得たらしい。納得したように数度、軽く頷いてみせる。


「へえ……富士川さんが移籍したってこと、やっぱり知ってたんだ。和久さんも口が軽いなあ」


 実のところ、華音は高野から聞いたわけではない。富士川本人の口から、それを聞いたのだ。

 しかし、それを鷹山に明かすことは、華音にはとてもできない。


「あの男以外ありえないよ。芹沢英輔先生を偲ぶ、なんてキャッチコピーもついているくらいだ。もちろん大黒氏の意向もあるとは思うけど。ハッ、何が芹沢先生追悼だよ。図々しい上に馬鹿馬鹿しい!」


 鷹山の表情が一変した。デスクを力任せに殴りつけると、半分ほど中身が残っているコーヒーカップとソーサーが派手な音を発てた。

 二番弟子の、兄弟子に対する相容れぬ感情が、時を経るごとに強まっていく。その事実が、華音の不安をなおいっそう掻き立てた。




 次の日の朝、午前八時をまわった頃である。

 夏休み中のため、自室でまだ寝ていた華音のもとへ、執事の乾がやってきた。


「華音様。起きてくださいませ――お客様がお見えでございます」


 華音が呼び声に気づき布団から顔を出すと、乾がベッドの足元のところに一歩分距離を置くようにして立っていた。

 しかし、華音はまったく状況が理解できていない。こんな早い時間に誰かと約束などしていないし、鷹山のアシスタントをするようになってからは、いつ何があるか分からないため、プライベートで遊ぶ予定もまったく入れていない状態なのである。


「お客って……誰?」


「旦那様と古くからお付き合いのあった方ですよ。大黒芳樹様の秘書の方です。華音様も、お名前はご存知かと思いますが」


「おおぐろ?」


 昨日鷹山と話していたばかりだ。記憶に新しい。

 大黒氏本人ではなく、秘書を務める人物とはいえ、華音が対等に話をできる相手ではない。


「どうしよう……鷹山さんはまだ来てないよね?」


「さすがにこの時間ではお見えになられてないです。高野様を起こしてまいりましょうか?」


 執事の乾の提案は、かなり気がすすまなかった。

 ある意味、高野を起こすほうが重労働だ。華音は首を横に振った。


「きっと布団に包まってミノムシになるだけだよ。とりあえず、用件だけ聞いてみる」


 難しい話ならメモに書き留めておいて、あと一時間ほどでここに姿を見せる音楽監督にそのまま伝えればいい。

 華音は急いで着替えると、大黒氏の秘書の待つ階下へと向かった。

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