甘えは決して許さない(2)
楽団員がすべて部屋を出ていってしまうと、先ほどまで窮屈だった室内は一気に広々となった。
傍観者だった赤城と華音は、ようやくソファから立ち上がると、一人残った鷹山のもとへと歩み寄った。
「すみません、彼女と二人にさせてほしいんですが」
鷹山は大きな瞳をゆっくりと瞬かせて、赤城に目配せをした。
二人きりにされるのは困る――華音の胸に不安がよぎる。
しかし高野と違い、この赤城という男は忙しい身分だ。簡単に引き止めるわけにもいかない。
その証拠に、赤城のほうもあっさりと退席を了承した。ではまた明日、と手を挙げ挨拶しながら、颯爽と部屋から出ていってしまった。
重苦しい空気がたちこめている。
鷹山は並べられたパイプ椅子を二つ引っ張ってきて、少し離して向かい合うようにして置いた。話し合うというより、面接でもするような配置だ。
「そこへかけて」
鷹山は自分で片方のパイプ椅子に座りながら、もう片方の椅子を指差し、立ったままの華音を呼び寄せた。
華音は警戒を解かずにゆっくりと近づき、鷹山と向かい合うようにして、用意された椅子におずおずと腰かけた。
「話はオーナーから聞いているはずだけど?」
「楽団のために働け……と、いうことですか?」
「言っておくけど、僕はあの男のように下心があって君を指名したわけじゃない。やるからには完璧な仕事をしてくれ。『だって』とか『でも』とか『そんなこと言ったって』なんて台詞は聞きたくないからな」
鷹山が打ち合わせの前に、華音と赤城に対して露骨に嫌悪感たっぷりの顔を向けていたことを、華音は思い出した。
「し、下心なんてあるわけないでしょ? 赤城さんは高野先生の同級生なんだもの」
だから、華音にとって赤城と高野は同じようなものだ――そう言いたかったのだが。
「それは違うね」
あっさり否定されてしまった。
「あの人は独身だ。何があってもおかしくない。歯止めをかける要素を持ち合わせていないということだ。和久さんは離婚したとはいえ子持ちだからね、そうそう間違いは起こらない。君はもう、十六になったんだろう? そんなことも分からないような子供か? とにかく、必要以上に奴に近づくのは――はっきり言って、不愉快だ」
何が気に食わないというのだろう。華音のやることなすこと、すべてが気に入らないのか。
それとも。
「別に私のことは、……鷹山さんには関係のないことじゃないですか」
鷹山は一瞬、途惑うような微妙な表情を見せた。人に口答えをされることに慣れていないのか、それをさらに封じ込めようと、矢継ぎ早に言葉を繰り出してくる。
「楽団の士気が下がる真似はやめろと言ってるんだ。君が色目を使ってあの男をたらしこんで、お金を出させてるんだと、みんなに思われるのも時間の問題だ。富士川さんがいなくなったら次はあの男か?」
信じられなかった。
この男は。何ということを口にするのだろうか。
いったい自分が、何をしたというのだろうか。
「迷惑なんだよ。君のその、すぐに誰かに頼ろうとする根性が」
――迷惑、だなんて。
自分のことを何も知らない人間に、どうしてここまで辛辣な言葉をぶつけられなくてはならないのだろうか。
華音が反論もできず黙り込んでしまうと、鷹山はようやく気がすんだのか、唐突に本題に入った。
「君には、僕の専属アシスタントになってもらう」
鷹山の目はしっかりと華音をとらえている。
依頼でも懇願でもなく――これは命令だ。
専属。その言葉は華音にとって「地獄」を意味する。
音楽監督の、専属アシスタントに。
「ちょっと待ってください! そんな、専属とか言われても学校だってあるし、それに……いくらおじいちゃんの孫だからって、楽団のこと、何にも知らないんだもん。全部祥ちゃんがやってて――」
鷹山は華音の台詞を遮るようにして、きっぱりと言い切った。
「いいか、できない言い訳を考えるよりもまず、できる方法をその頭で考えろ」
「そんな突然言われても――あ」
「できないなんて言葉、聞きたくないと言っただろう? 僕の言うことが分かったら、ちゃんと返事をしろ。いいな?」
もはや、絶句。絶句するしかない。
赤城にアルバイトをしろと言われたときは、もっと事務的な――チケットの販売業務や楽団員たちの小間使いなど、雑用をこなせばいいのだと単純に思っていた。美濃部青年がしていたような仕事の、「お手伝い」程度に考えていたのだ。
しかし。
音楽監督の専属アシスタントとなれば、芹沢英輔と富士川祥のような関係に近い。四六時中、そばに付き従い、音楽監督の要求はすべて受け入れる。
それを承知で、この鷹山という男は華音に、容赦のない要求を突きつけてくるつもりなのだろうか。
――負けられない。負けてなんかいられない。
「もう、分かったよ! やればいいんでしょ、やれば!」
半ば自棄になって、怒鳴るように声を張り上げて返事をした。
とにかく首を縦に振らなければ、いつまでもしつこく言ってくるに違いない。華音はもうすでにうんざりしていた。
やると言えば、きっと鷹山は勝ち誇ったような満足げな笑みを浮かべて、自分を見て蔑むように笑うんだ――そう、華音は想像していたのだが。
鷹山の表情は硬いままだった。逆に、いっそう強ばりが増している。
華音の態度が癪に障ったらしい。その大きな瞳で華音を見据えている。無慈悲で冷たい、悪魔の眼差しだ。
「いい加減にしろよ。自分の置かれている立場をきちんとわきまえろ。英輔先生の孫娘なら、そのくらいのことは分かってるはずだ。楽団にとって、音楽監督のポジションがどういうものなのか」
鷹山の剣幕に、華音は再び言葉を失った。
「……」
分からない。
どういう人間なのか、何を考えているのか、まったく読み取れない。
暑い――。もうすでに日は暮れ、窓から見える芹沢家の庭園は漆黒の闇夜へと変貌する。
二人だけの世界。
「もう一度だけ聞く。僕の言うことが分かったな?」
楽団にとって音楽監督は――神にも等しい。
「………………はい」
どうして肯定の返事をしてしまったのか、よく分からなかった。
完全に拒絶できない何かが、華音と鷹山の間には存在する。
壊れそうだ。
しかし、後戻りできないのだ。
「僕は富士川さんとは違う。甘えは決して、許さないからな」
鷹山の容赦のない言葉が、刃となって華音の心を深く深く突き刺した。
富士川祥との、優しい思い出もろとも――刃はもう、抜けない。
その夜。
静けさを取り戻した芹沢邸で、華音は自室で一人、机の引き出しの中を探っていた。
お土産でもらった未使用のキーホルダーが入れられた箱を取り出すと、その中身を一つ一つ確認していく。
富士川は演奏旅行に出かけるたびに、華音のためにキャラクター物のキーホルダーをお土産に買ってきた。お陰で、箱の中はたくさんのキーホルダーで一杯だ。
幼い頃から続いている習慣なのだが、中学に上がる頃になるとさすがにキャラクターものは子供っぽく感じられ、実際に使用することはほとんどなく、すぐに箱にしまわれることが多かった。
ふと、上部の隅のほうに寄せられるようにして入れられたひとつのキーホルダーに目が留まった。
驚いた。
それは、これから華音がキーホルダーをつけようとしているものに初めからついていたそれと、とてもよく似ていたからだ。
透明なクリスタルの中に四葉のクローバーの葉が閉じ込められている。明らかに今までの可愛らしいものとは雰囲気が違っている。
――いつもらったんだろう?
比較的新しいものだというのは分かる。一番上に置かれていたところをみると、ごく最近なのかもしれない。
明らかに他のものとは異質で、どことなく大人っぽい雰囲気を纏わせている。
華音が高校に上がって、さすがにキャラクターものを喜ばないということを、富士川が悟ったから――おそらくそうに違いない。
別に、大した意味があるわけではないのかもしれない。
だが、しかし。
富士川がいつもとは違い、同じものを二つ購入して、ひとつを華音のお土産に、ひとつを何となく自分のマンションの合鍵につけていた。
たったそれだけのことが――。
華音は箱の中をじっと見下ろしながら、やりきれない思いで下唇を噛んだ。
どうして。
自分のそばにいるときに気づかなかったのだろう。
それは、富士川祥という人間が当たり前のようにそばにいたから、そんなちっぽけなものに込められた意味など、華音は気づくことができなかったのだ。
――お揃い……だったんだ、これ。
華音はその真新しいキーホルダーを取り出すと、元からついていたクローバーに並べるようにして、富士川からもらったカギに取りつけた。
これがあれば、いつでも富士川のところへ行くことができる。
富士川は精一杯の優しさで、華音のことを包み込んでくれるはずだ。
――祥ちゃん……私、どうしよう。
【君には、僕の専属アシスタントになってもらう】
突然、鷹山の威圧的な瞳と横柄な声が、華音の脳裏によみがえってきた。
【僕は富士川さんとは違う。甘えは決して――許さないからな】
――やめて、やめてやめて。
華音は鍵をベッドの掛け布団の上に投げ出し、とっさに両耳を塞いだ。
会いたい。今すぐに。
そばにいて欲しい。
しかし、その願いは叶うはずもない。
この状況をどう説明していいのか、今の華音にはまったく見当がつかなかった。
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