深く脆く美しい世界へ(1)

 鷹山は今日から毎日、芹沢邸へとやってくる。

 祖父が生前書斎代わりに使っていた二階の奥の部屋を、当面の間活動の拠点とすることに決めたからだ。

 そして今日は土曜日。華音のバイト初日である。




 昨晩、緊張でよく眠れなかった。


「楽ちゃん、もうすぐここに来るって」


 皺だらけのパジャマに身を包んだ高野和久が、あくびをしながら芹沢邸の食堂へと現れた。


 一方、先に席についてクロワッサンをちぎっていた華音は、高野の言葉に思わず手の動きを止めて、壁掛け時計に目をやった。

 針は八時半ちょうどをさしている。


 鷹山の要望で、華音の学校が休みのときは、朝九時から夕方五時まで身の回りの雑用をすることになった。もちろん、リハーサルや演奏会などの予定があるときは、それにあわせてバイト時間を延長することも、要望にはしっかりと盛り込まれている。


 華音はため息をついた。今朝からもう何度目だろう――すでに数えられないほどのため息をついている。


「鷹山さんって、時間にうるさそうだよね。休みの日の朝くらい、ゆっくりすればいいじゃない?」


「そういうところはね、楽ちゃんと富士川ちゃん、似てるんだよねえ……」


 目覚めきらない両目を瞬かせながら、高野はいつもどおり緊張感のない能天気な返事をする。


「んもう、高野先生! あの人と祥ちゃんを一緒にしないでよ。祥ちゃんのは『時間に正確だ』って言うの」


「俺から見たら、二人とも一緒だって。予定通りに行動できることには変わりないんだからさ」


「高野先生に比べたらね……そうかもしれないけど」


 二人の弟子のことを、この高野は以前から『似たもの同士』と称していた。

 華音にはそれがどうしても納得ができない。似て非なるもの――いや、そもそも似ているはずなど、ないのである。




 華音と高野が食堂で喋っている間に、鷹山はすでに芹沢邸にやってきたようだった。執事の乾に声をかけて、すぐに書斎にこもったらしい。


 お陰で、挨拶をするタイミングもつかむことができなかった。

 いきなりこれでは、バイトの初めからやりにくい。


 華音はとりあえず指定されている九時ちょうどになるのを待って、二階奥の書斎に向かうことにした。

 自分の家なのに、まるで別世界のように感じられる。廊下の窓から見える英国式の庭園の鬱蒼とした緑が、いっそう華音の気分を沈鬱とさせた。




 音を発てないようにして書斎の中へと入ると、鷹山は一人、設えのソファに腰をかけて、古い資料に目を通していた。


「コーヒー、淹れてくれないか?」


 ドアの開く音で華音がやってきたことを悟ったのだろう。よろしくと挨拶を交わすこともなければ、華音のほうに顔を向けようともしない。友好的雰囲気は皆無だ。


「じゃあ今、乾さんに――」


 華音が執事の名を口にすると、言い終わらないうちに鷹山が遮った。


「君が淹れるんだ。お茶汲みはアシスタントの基本だろう?」


 華音は思わず息を飲んだ。そして、以前鷹山に言われた言葉を思い出す。


『迷惑なんだよ。君のその、すぐに誰かに頼ろうとする根性が』


 早くも挫折しそうだ。

 二人だけのこんな重苦しい雰囲気に、とても耐えられそうにない。

 華音は分かりましたと小さな声で答えると、すぐに書斎をあとにして階下のキッチンへと向かった。




 ――ええと……コーヒーって、どこにあるんだっけ?


 普段は、執事の乾や家政婦が家事全般を担当しているため、華音はキッチンのどこに何があるのかまったく分からなかった。

 乾は今、食堂で高野の給仕をしている。家政婦は高野の部屋のベッドメーキング。コーヒーの在り処を聞こうにも、キッチンに人影はない。


 華音は適当に辺りを探し始めた。そして、食品庫の奥から、お歳暮でもらったらしきインスタントコーヒーの詰め合わせを見つけ、引っ張り出した。

 食器棚から来客用のウエッジウッドのカップを取り出し、木製のトレイの上に載せていく。

 ビンのラベルに書いてある分量と照らし合わせ、ティースプーン山盛り一杯をカップに入れ、電気ポットのお湯を注いでやる。

 できた。あたりに香気が漂う。

 こんなものだろう、と華音は一人納得していた。




 華音はコーヒーカップの乗ったトレイを携え、再び書斎へと戻ってきた。

 テーブルの上に高く積まれた書類の横に、細心の注意を払いながらゆっくりとカップを差し出した。


 鷹山は無言のままだ。資料を読むのに没頭しているためか、華音に目をくれようともしない。

 その場に立ち尽くしトレイを抱き締めながら、華音は目の前に座る鷹山に尋ねた。


「私は他に何をすればいいんですか」


 鷹山は資料から目をそらそうとはせず、淡々と答える。


「難しいことはない。僕のそばにいて、僕が何を考え、何を欲しているか――それを常に察して、気を利かせた行動をとってもらいたい。いちいち説明させるなんて野暮なことだけはさせないでくれ」


 言うのは簡単だが、実行するのは至難の業だ。

 ただでさえ鷹山の言動を理解できないでいるのに、何を欲しているか常に察して――なんて、華音にはまるで自信がない。

 その不安な気持ちが表情に出てしまったのか、鷹山は語調を緩め、付け加えるように言った。


「……まあ、最初から完璧にこなせるなんて思っちゃいないさ。ただ、努力だけは怠って欲しくない。いいな?」


「……分かりました」


 鷹山は華音の淹れたコーヒーにようやく口をつけた。口に含み、無表情のままカップをソーサーに戻す。


 何か言われるのではないか、と華音は内心動揺していた。しかし、鷹山は何かを考え込むようにしてソファの背に身を預けたままだった。


 しばしの間、気まずい沈黙があった。


 窓の外の庭園から聞こえてくる蝉の鳴き声が、はっきりと意識できる。

 居心地がとにかく悪い。当然のことだが、富士川相手とはまるで勝手が違う。




 鷹山は、読んでいた資料をテーブルの上に積んであった書類の束の上に置き、軽くため息をついた。そしてようやく、華音に向かいの席に座るよう勧めた。

 華音は鷹山に言われるがままに、トレイを抱えたまま向かい合うようにして腰を下ろした。


 鷹山は、今度はしっかりと華音の顔をじっと見つめてくる。華音も視線をそらせずに、鷹山が話し出すのをひたすら待った。


「和久さんから聞いたんだけど……君はヴァイオリンだけじゃなく、ピアノもろくに弾けないんだって?」


 何を言い出すのかと思えば、相変わらず人を小馬鹿にしたような言い草だ。華音は思わずむきになり、語調を荒げた。


「悪いですか?」


「別に悪くはないよ。ただ、どうしてなのか気になっただけさ」


「どうしてって……別に理由なんかないですけど」


「この『芹沢』の家に生まれて、音楽教育を受けない? そんな話、信じろと言うほうがどうかしてる」


 そのようなプライベートなところまで踏み込まれてこられても、困惑するばかりだ。

 この男が口にする『芹沢』の名は、そこはかとなく重い。重すぎる。

 華音は身じろぎもせず、ソファの上で石像のように固まっていた。


 その間も、鷹山は華音の様子をじっと観察している。おそらく鷹山も、華音との距離をつかむのに試行錯誤しているようだ。続ける言葉を慎重に選んでいるのか、幾分雰囲気を和らげてくる。


「君がどうしても音楽が嫌で嫌でしょうがなくて英輔先生に反抗していた、ということならまあ納得もするけど、そういう風にも見えないしね。和久さんや富士川さんのそばで暮らしてきたはずの人間にしては、随分と音楽に対する姿勢とか意識のレベルが低いんじゃないかなと思ってね」


 確かに、何も間違ったことは言っていない。鷹山の言うことは正しすぎるほどに的を射ている。

 しかし、華音は何だか釈然としない。


「鷹山さんには分からないと思いますけど、うちはホームドラマに出てくるような普通の家族とは違うんです。おじいちゃんは厳しく音楽をしつけることもなければ、優しく包んでくれることもなかったし」


「へえ。英輔先生のこと、嫌いだったの?」


 意外なことに、鷹山は華音の話を興味深げに聞き、そして食いついてきた。


「嫌いじゃないです。でも……大好きかと言われれば、それは違う気もするけど」


「英輔先生なりの罪滅ぼしなのかな。しかし、随分と自己中心的だと言うべきだな。自分が救われたいがために、今度は君の可能性をもぎ取ってしまうなんてね」


 何を言っているのか、華音には理解できなかった。

 仮にも自分の師匠だった人物を『自己中心的』と言い切るなど、普通では考えられない。


「罪滅ぼし? ……今度は――って?」


 一気に緊張が増し、膝の上で握り締めていた拳がじっとりと汗ばんでくるのを感じる。


「君、何も聞いてないのか? 自分の一人息子に、つまり君の父親に自分の音楽性を押しつけて、挙句に潰してしまったという罪さ。――大罪だよ」


 鷹山の最後のひと言に、華音の心臓は縮み上がった。

 出会ったときから変わらない容赦のない辛辣な言葉の数々――。

 華音は圧倒され、動悸を必死に押さえようと、ただひたすら呼吸を繰り返す。


「もっともっと、好きにさせてみせるさ」


「……え?」


「僕が君に、音楽とはいかに深く脆く美しいものであるか――嫌というほど思い出させてやろう」


 教える、ではなく思い出させる、と。鷹山は確かにそう言った。


 いかに深く。

 脆く、そして美しく。


 鷹山の心の奥底に潜む闇に、彼の音楽に対する美意識が垣間見える。


「あの男じゃ、無理さ。しかし、僕にはそれができる」

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