鬼と悪魔の一騎討ち(3)
芹沢家の応接室は、異様な雰囲気に包まれていた。
富士川は、硬く口を閉ざしたまま、身じろぎもせずに座っている。
華音はどうしてよいのか分からず、高野の隣で震えていた。
そんな状況も、上座に座るこの男にとって動じる材料とはなりえない。
「では、その赤城という方と話し合いを持ちましょう」
いつの間にか、話し合いの主導権を握っているのは、この鷹山楽人という『悪魔の二番弟子』だった。
「大丈夫かなぁ……」
ソファの背もたれに身を預けるようにして、高野はゆっくりとため息をついた。素直に肯定できない何かが、そこには存在しているらしい。
「いやさ、麗児君がいい加減な男じゃないことは俺がよく知ってるけどさ、同時に一筋縄じゃいかない男だというのも、よく知ってるんだよねえ」
「芹沢先生亡き今、芹響には資金力が足りません。夢ばかり語っていても、芸術は廃れるんです。我々が音楽に集中するためにも、運営ビジネスのエキスパートを引き入れたほうがいい。もちろん、お互い対等な立場で話し合えることが最低条件ですけどね。スポンサーだからといって、選曲まで口を挟まれたら困りますし。いつでも緊張感を保てる関係でないと、芸術としての音楽ビジネスは腐るだけです」
鷹山が一気にまくしたてるように言った。迷いは見られない。
どうやら鷹山という男は、思っていることを論理的にすべてを吐き出さなければ気がすまない性質らしい。相手に反論する隙を与えないのだ。
もちろん、華音に入り込む余地などあるはずもない。
高野は慣れているためなのか、鷹山の意見をすべて飲み込んだ上で、自分なりの意見を展開していく。
「じゃあ、最初からそんな危険をおかさないで、今までどおり定期会員募って、規模縮小してやっていくほうが、楽団員にとって幸せなんじゃないの?」
高野の言うとおり、芹沢交響楽団には少なからず固定ファンがついている。
たとえ指揮者が替わっても、今までどおり高野が客演していれば、そこそこの動員は見込めるはずだ。
ただ、それ以下にもならない代わりに、それ以上の発展も難しい。
それでも今の状況を考えたら、現状維持が最良の選択のように思えるが――。
しかし、鷹山の答えは『ノー』だった。
「和久さん、それはどうでしょう。今のままでは現状維持はありえません。団員も減るでしょう。しかしスポンサーを取りつければ、オーディションで優秀な団員を引き入れることができる。別に英輔先生の門下生じゃなくたって、僕はいいと思うんですよ」
鷹山は両腕を組み、大きな瞳を瞬かせ、高野を説得するように言う。
「もう……」
それまで黙っていた富士川が、ようやく口を開いた。その表情にはまるで精気がない。
「俺が口を挟む余地はなさそうだな。お前にはいろいろと言いたいことはあるが……今の俺の力じゃ、その資格もない。しかし……お前が頑張ったところで、無駄骨だ」
心なしか、眼鏡の奥の瞳は潤んでいる。
「もう、終わりだ」
力のない富士川の悲しげな心の声が、応接室内に響いた。
しかし、そんな兄弟子の言葉を、二番弟子は無常にも切り捨てる。
「一番弟子のあなたがそんな調子だと、助かるものも助からない。楽団員たちの意見も聞かずに、あなたの感情的意見だけで『終わり』だなんて、結論を出さないでいただきたいですね」
「芹沢先生がいなくなったのに……楽団を続けようとするのがそもそもの間違いなんだ。買収されてまで、続ける意義などどこにある? そんなの……俺は御免だ」
高野が慌てて、睨み合う二人の弟子たちの仲裁に入った。
「落ち着いてよ二人とも。買収の件はさ、まあ、とりあえず話を聞いてみるだけなら……麗児君はまったく知らない人間でもないし、気楽に会ってみるのも悪くないと思うよ? 俺もついていくからさ。そうだ、ノン君も一緒に行こう!」
「わ、私も?」
意外な話の展開だった。華音は正直なところ、部外者を決め込んでいたのである。
「麗児君はフェミニストなんだよ。女の子連れて行ったほうが、和やかに話せると思うから」
「……フェミニスト?」
告別式に現れたあの長身の青年実業家が、フェミニストだとは、華音にはとても想像しがたい。
気は進まなかったが、高野が一緒なら心強い。
もちろん僕もついて行きます、と鷹山がひとことつけ加えるようにして言った。
富士川は、最後まで黙ったままだった。
赤城エンタープライズとの売買契約交渉は、三日後に行われることになった。
鷹山は、帰国したついでに実家に顔を出してくると、二泊の予定で北海道へと飛んだ。交渉には間に合わせて帰ってくるつもりらしい。
富士川は告別式の夜以来、芹沢邸に姿を見せていない。
芹沢邸は静けさを取り戻しつつあった。
それでも弔問客はいまだ絶えることはない。執事がその応対に追われている。
何かが大きく動き出そうとしている。
これまでずっと変わらず守り続けていた物が、壊れゆくかもしれない不安。
いや。すでに崩壊は始まっているのかもしれない――。
富士川が、二日ぶりに芹沢邸へとやってきた。
華音は執事に呼ばれて、自室から階下の応接間へと向かった。
中に入ると、富士川は立ったまま窓辺にもたれ、見慣れた中庭の木々の緑を眺めていた。
いつもと何かが違う――華音はすぐに察した。
「ごめんね。もうここには、俺の居場所はない」
その言葉が何を意味するものなのか、華音にはすぐに理解できなかった。
「一番弟子という肩書きは、何の意味もなさないんだってことを、あの男に思い知らされた」
――ああ、そんな。
とうとう、来るべきときが来てしまった。
華音は、いつかこうなるのではないかと内心危惧していた。しかし、それがこんな唐突に訪れるとは、思ってもみなかったのである。
「やだ、私も行く。私を一人に……しないで祥ちゃん」
わがままだということは、分かっている。
しかし今、富士川までもがいなくなってしまったら――華音はこれからどうやって生きていけばいいというのだろうか。
精神的支えは、この富士川だけなのだ。
けれども、富士川にそんな義理はない。
華音は富士川にとって、師匠の孫娘というだけの関係に過ぎないのだから――。
もちろん、彼がそんな打算的な愛情で、華音を包んでいたわけではないことは、充分承知している。
しかし現実問題、どうすることもできないことなのだ。
「華音ちゃんまでここを出たら、駄目だ。芹沢先生が悲しむよ。あとのことは高野さんに頼んでいくから」
聞きたくない。そんな言葉、聞きたくない。
「祥ちゃん!」
華音のすがりつくような眼差しに、富士川は切なげな表情を見せた。両腕を伸ばし、そっと華音を抱き締める。幼い頃から変わらぬ優しい抱擁。
富士川は華音を抱き締めたまま、耳元でささやくように言った。
「俺の、最後のわがままを……お願いだから聞いてくれ」
聞きたくない。聞きたくない。
「嘘……」
富士川は華音を放すと、そのまま背を向けて、迷いを断ち切るようにしてひと言――。
「元気で」
今まで言われたことのある富士川の言葉の中で、それは最も冷たく無慈悲な別れの言葉だった。
華音は呆然と、部屋を出て行く富士川の背中を見送っていた。
涙は、出てこなかった。
富士川祥が退団届けを出したのは、芹沢英輔が亡くなってからわずか五日後のことだった。
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