鬼と悪魔の一騎討ち(1)

「お久しぶりです、富士川さん」


 鷹山はにこりともせず、淡々と言った。

 兄弟子の富士川が驚いているのは明らかだった。眼鏡の奥の切れ長の目が、これほどないまでに見開かれている。


「お前……今頃、何をしに来たんだ。忙しくて帰国なんかできないんじゃなかったのか」


「僕は招かれざる客、ということですか? ハッ、仕方ないじゃないですか。僕だってウィーンで遊んでいるわけじゃありません。演奏会のスケジュールだって立て込んでいるんです。第一、演奏会を放ってまで、弔事に参加しろとは英輔先生には教わりませんでしたからね、僕は。……まあ、あなたはどうか知りませんけど」


 綺麗な顔からは想像もつかないほどの辛辣な言葉の数々を、鷹山はためらうことなく紡ぎ出す。次々と口をついて出る言葉は止まることを知らない。非常に弁の立つ男だ。

 その横柄とも言える二番弟子の迫力に、団員たちは微動だにできないでいる。


 やはり鷹山という男の存在は、ごく一部の古参団員にしか知られていないようだった。鷹山の氏素性をささやき合う声が、取り巻く人垣の中から漏れる。

 鷹山はその周囲の反応などまるで気にすることなく、透き通った大きな瞳を、目の前の兄弟子からそらそうとはしない。


「どうしてあなたが指揮なんかしているんです?」


「どうして――だと?」


「あなたはヴァイオリン弾きで、コンサートマスターだったはず。指揮者が死んだからといって、そう簡単に後釜に座ることができるんですか?」


 富士川は確実に、鷹山の言葉に動揺しているようだ。眉間にしわを寄せ、眼鏡を持ち上げ直す。


「便宜的に……代役を務めているだけだ。後釜だなんて、そんな言い方されるのは心外だ」


 努めて冷静さを保とうとしているが――この二番弟子の前では何の意味もなさない。それどころか、二番弟子の口調はいっそう厳しさを増す。


「便宜的な代役ですって? 馬鹿馬鹿しい! あなたには自信がないんですか? この交響楽団を背負っていく自信ですよ。主人のいなくなった城を築き上げて、その土地の民衆を引っ張っていく城主になる自信が」


 華音の心臓の鼓動が、どんどん高鳴っていく。

 目を覆ってしまいたい。耳をふさいでしまいたい。

 多くの楽団員たちに囲まれて、一番弟子は二番弟子に統率力の無さをさらけ出される。この上ない富士川の屈辱感が、見守る華音にも伝わってくる。


「お前の言葉を借りて言えば、俺は崇拝するべき城主を失った参謀長だ。長い間その城主に仕えてきた参謀長が、じゃあ城主になってくださいと言われて、簡単になれると思うか? 先生の存在があまりに大きすぎて、はっきり言って俺はもう潰されそうだ! 何年もこっちに寄りつかなかったお前に、いったい何が分かるというんだ」


「分かりませんよ、あなたの考えてることなんか」


 二人とももう止めて、と華音は思わず叫びそうになった。しかし、声を出す勇気が出てこない。ただ、悪魔の横柄な振る舞いから目をそらせずに、その場で固まってしまっていた。

 そのときである。

 人垣を掻き分けて、富士川の前に進み出てきたのは、藤堂あかりだった。


「いったいあなたは何なんですか! いきなり現れて、富士川さんを愚弄するような真似、失礼じゃないですか?」


 富士川をかばうようにして、鷹山に対して負けず劣らずの迫力だ。

 辺りはいっそう緊迫感を増した。

 鬼と悪魔が睨み合うその真ん中に、己が立場を省みず切り込んでいく。まさに、一触即発だ。

 鷹山は、目の前に進み出たその若い女性団員を、訝しげな眼差しでじっと見据えている。


「君こそ誰なんです。……別に、興味なんかこれっぽっちもないですけど」


 あかりが何かを言い返そうと口を開きかけたそのとき――。

 富士川が再び前へ進み出た。あかりを背にかばうようにして、鷹山に対して努めて冷静な対応を試みる。


「彼女は去年音大を出たばかりのメンバーだ。お前が知らなくて当然だ。……藤堂、かばってくれるのは嬉しいけど、この男は一応、芹沢先生の弟子だから」


「弟子? この人が、芹沢先生のお弟子さんなんですか?」


 あかりは富士川の肩越しに、鷹山の顔をいぶかしげに見つめている。驚きと途惑いを隠し切れていない。

 その反応に、鷹山は肩をすくめてみせた。


「どうやら『一応』と冠されてしまう程度の扱いのようですけど。……まあいいでしょう、込み入った話は、後程また」


 鷹山はあかりと富士川に背を向けた。そして、取り囲んでいる人垣に道を開けてくれと言い、そのままホールを出て行った。

 あかりは、横柄な二番弟子を複雑な表情で見送っていた。

 そして富士川に出過ぎた行動を詫び、他の団員たちと一緒に、再び後片付けの作業に戻った。




 それまで人垣の後ろで傍観していた華音と高野は、皆が散らばったあと、ようやく富士川のもとへと辿り着いた。


「楽ちゃんやるねえ、相変わらず。ああ富士川ちゃん、俺ちょっと楽ちゃんと話してくるよ」


 楽団関係者の中で、唯一まともにあの『二番弟子』と話せるのがこの、高野らしい。

 富士川もそれを承知しているためか、素直に首を縦に振った。


「そうしてもらえますか? 俺では収拾がつかなくなりそうですので」


 途惑いと呆れが入り混じったような、大きなため息をつく。


「華音ちゃん、驚いただろう? 手のつけようがない『悪魔』さ」


 悪魔だ――悪魔以外の何者でもない。

 顔は綺麗なくせに、その心は歪みきっている。

 華音に対する憎悪の伴った威圧的な態度は、いったい何を意味するものなのか――。


「本当にあの人、おじいちゃんの弟子なの?」


「あいつを弟子にしたのは、芹沢先生の唯一の失敗だったんじゃないか、と俺は思うよ」


 富士川は、力なく首を横に振ってみせた。




 そこへ、先ほどまで受付にいた美濃部が、手に大きな封筒を携えて、二人のもとへとやってきた。

 美濃部は、落ち着きなく辺りを見回している。


「あれ? 高野先生はどちらです?」


「鷹山っていう人と一緒に行っちゃったよ。どうしたの、美濃部さん?」


 さっきのアレですよ、と美濃部青年は華音に説明し、持っていた封筒を富士川に渡した。


「富士川さん、実はさっきですね、うちの楽団を買い取りたいっていう方がいらしてですね、楽団の責任者と話がしたいって、その封筒を置いていったんですけど」


「楽団を……買い取る、だって?」


 ざっと表と裏を眺め、不審げな面貌で中身を簡単に確認する。

 富士川はため息混じりに、眼鏡を上げ直した。どうしていいのか分からずに混乱しているようだ。


「俺は……俺は決められないよ。そんな、買収なんて……まいったな」


 そこへ、ようやく高野が戻ってきた。

 すでに黒のネクタイは緩められ、シャツの第二ボタンまで外されている。だらしないことこの上ない。


「とりあえずホテルにチェックインしてからさあ、芹沢邸まで来るように言っといたよ」


「すみません。高野さんも同席してもらえますか?」


 富士川の申し出に、高野はもちろん、と二つ返事で了承してみせた。

 華音は胸をなで下ろした。

 一番弟子と二番弟子だけでは、また先ほどのような争いになりかねない。ただ、高野がいたところで二人を仕切ることはできないだろうが――いないよりははるかにマシである。


「高野先生、この人知ってる?」


 華音は富士川が手にしていた封筒を、高野のほうに向けてやった。

 美濃部がそれに補足する。


「歳は高野先生と変わらないくらいで、物凄く長身の、キリリとした佇まいの男の人でしたよ。赤城エンタープライズ代表、だそうで」


「赤城エンタープライズ……あかぎ……赤城?」


 高野は美濃部青年の言葉を繰り返した。そして、さらに確認する。


「ひょっとして、赤城麗児?」


 高野の言葉に、富士川が反応した。


「高野さんのお知り合いですか」


「知り合いっていうかまあ、高校の同級生なんだよなあ」


 高野は煮え切らない表情をしている。『友達』と言わないあたり、その微妙な関係が想像できる。


「ああ、そういうことなんですか。でしたら、高野先生が間に入ってくれたら、いくらか交渉しやすくなるんじゃないですか?」


「ええ? 俺が? そんなの無理無理。俺、麗児君には何言われても逆らえないから」


 高野は片手を振ってみせた。

 事態はどんどん悪化の一途を辿っている。

 芹沢英輔という大指揮者が死んだという事実――それによって、富士川と華音の運命は、予想だにしなかった方向へと、どんどん流されていっている。


「祥ちゃん……」


「心配しなくていいから。俺が何とかするから、華音ちゃんは何も考えなくていいんだ」


 富士川の右手が、優しく華音の頭をなでるようにして置かれた。

 頼れるのはもう――富士川しかいないのである。

 華音の脳裏に、赤城という大男と悪魔の二番弟子の顔が錯綜していた。

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