告別式(2)

 足音が完全に聞こえなくなったところで、ようやく美濃部は、華音の様子をうかがうようにして、おずおずと喋り出した。


「楽団……買うとか言ってなかったですか? 今の人。ますます雲行きがあやしくなってきましたね」


 高野の知り合いらしい赤城という大男は、確かにそのような言葉を口にしていた。


「売るとか買うとか、そんな物みたいに言われても……私にはよく分かんない」


 これが正直な華音の気持ちだ。富士川なら――何と言うだろうか。

 そもそも華音は、楽団がどういう運営体系なのかもよく理解していない。もちろん、一般会社でいうところの社長にあたるのが自分の祖父である、ということくらいはとりあえず分かる。そして富士川はその秘書、というところだろう。

 すると、華音の隣で、美濃部は自身の見解を淡々と述べ始めた。


「売っちゃったら、事実上『芹沢交響楽団』はなくなっちゃうでしょうね。まあ、楽団員が路頭に迷うようなことはなくなりますけど、うちみたいにね、一人のカリスマ指揮者が君臨するような団体には結構キビしいと思いますよ。第一、団員のほとんどが芹沢先生の門下生ですからね。楽団の名前が変わってまで演奏を続けたいと思うかどうか――」


 そこまで口にして、美濃部は何かに気づいたような顔をし、一瞬言葉を詰まらせた。


「あ……すみません。華音さんの前で言うことじゃ、なかったですよね」


 美濃部は申し訳なさそうに言った。


「いいよ別に。楽団は私のものじゃないから」




 雨はますます強くなってきた。滝の音にも似た雨音が、建物全体を包んでいる。

 そんな中。


 遠くから、革靴の規則的な足音が響いてきた。その音は、徐々に近づいてくる。

 今度はセレモニーホールの職員の声はしない。

 遅れてやってきた弔問客なのだろうか。

 どんどん靴音が大きくなる。

 華音は音のする方向を、じっと見つめた。




 角を曲がりようやく姿を見せたのは、モスグリーンのスーツに身を包んだ若い男だった。喪服ではない。先ほどの大男に比べると背丈は並だが、立ち姿はすらりとしている。

 その青年は、おもむろに受付のテーブルの前に立つと、華音の顔をいぶかしげに見つめた。


「君が、英輔先生の孫娘?」


 それが、男が発した最初の言葉だった。

 見た目以上に、喋り方は落ち着いている。色白で、瞳は吸い込まれそうなほど大きい。まつげが長く、そしてくせのない栗色の髪が印象的だ。


 ――英輔、先生? この人、もしかして……。


 華音は青年の勢いに押され、声も出せずにいた。


「どうなの? 僕の言ってること、聞こえないのか?」


 綺麗な顔に似合わず、その態度は辛辣で横柄だ。

 隣のテーブルでクロークの番号札を整理していた美濃部が、見かねて助け舟を出す。


「ええと、確かに芹沢先生のお孫さんにあたりますけど、……失礼ですが、どちらさまですか? 差し支えなければ、こちらに記帳をお願いできますか?」


 青年は美濃部のほうに一瞬だけ、視線を向けただけだった。


「富士川さんに、相手にするなとかクギ刺されてたりするわけ?」


 華音の心臓が縮み上がった。

 間違いない、この人。


 『悪魔の二番弟子』――。



 やはり美濃部は大人だ。どう対処してよいか途惑う華音とは対照的に、社交辞令をいかんなく発揮させている。


「あ、もしかして芹沢先生のお弟子さんですか? いやあ、初めまして! 美濃部です。私、おととし芹響に入団したばかりなんで、芹沢先生のお弟子さんがウィーンにもう一人いらっしゃること、つい三日前に知ったんですよ。私もヴァイオリンなんです! 良かったらウィーンのこととかいろいろ教えてください」


「ヴァイオリン? じゃあ、富士川さんとも一緒なんだ」


「ええ、一応は。でも私はただの下っ端ですからね。他の団員のように音大出身でもないですし」


 そこでようやく、青年の表情が緩んだ。


「それはむしろ光栄じゃないか。不毛な派閥争いに巻き込まれずにすんでるんだろう」


「そうですね。気楽なもんです、寂しいくらいに。ハハハ」


 美濃部が調子よく笑ってみせる。

 青年はそばにあった筆ペンを手に取ると、帳面に慣れぬ手つきで文字を綴リ始めた。


 鷹山楽人。


 たかやま、がくと――。


 やはり富士川が電話で怒鳴っていた、その張本人だ。

 華音は思わず、青年の顔をうかがうように見てしまう。

 記帳を終えたばかりの『鷹山楽人』は、筆ペンのキャップをゆっくりとはめると、それを華音の鼻先に突きつけた。


「その顔じゃ、あの男に相当、吹き込まれてるって感じかな」


「祥ちゃんは、そんな人じゃないです」


 ペンを突きつけられたままの状態で、華音は必死に言葉を返した。

 すると鷹山は何が癇に障ったのか、微かに眉間にしわを寄せて、ゆっくりと大きな瞳を瞬かせる。そして嘲るような眼差しで、華音の顔を刺すように見据えた。


「ふーん……あの男のこと、好きなの? 趣味悪いな。最悪。気に入らないね」


 震えが止まらない。

 綺麗な顔をしているのに、言うことは性悪そのものだ。


 ――なによ、いったい何なの、この人。


 鷹山はようやく突きつけていたペンを下ろすと、記帳したページの上に投げるようにしてそれを置いた。




 程なくして、追悼演奏会に列席していた弔問客が、次々にホールの外へと出てきた。

 漆黒の人波が、雑然とした空気とともに流れていく。先刻よりさらに強くなった雨に、みな一様にうんざりした顔をしている。


「ああ、終わったようですね。私、富士川さんを呼んできますよ」


 そう言って立ち上がりかけた美濃部の腕を、華音は反射的に引き止めた。


「美濃部さん待って! 私が行く。受付、空けるわけにいかないでしょ?」


 美濃部がここからいなくなると、この鷹山という男と二人きりになってしまう。こんな重い空気に、華音はとても耐えられそうになかった。


 じっと、悪魔がこちらを見ている。

 大きな瞳、神経質そうな眉。なぜか華音に対しては、威圧的な表情を崩そうとしない。


 華音は美濃部を無理やりその場へ残し、逃げるようにして会場の中へと走った。




 ステージでは、楽団員らが楽器の搬出などの後片付けに忙しく動いていた。富士川の姿をすぐに見つけることができない。

 華音は焦燥感にかられた。

 ちょうどそこへ、高野和久がだるそうに歩いてくるのを見つけ、華音は思わず高野のもとへと走り寄った。


「先生! 高野先生!」


「あ、ノン君。どうしたんだい? そんな怖い顔して」


 高野は華音の姿をとらえると、その場で立ち止まり、大きく伸びをしてみせた。座席の質が悪すぎるんだよねえ、などと文句をたれている。

 しかし今は、高野の戯言に付き合っている場合ではない。


「あの人が来ちゃったの! 祥ちゃんが電話で怒鳴ってた、おじいちゃんの弟子とかいう人!」


 高野は驚いたような顔をし、伸ばした腕を一気にだらりと脱力させた。


「ええ? うっそ、楽ちゃん帰ってきたんだ? どれどれ」


「どれどれじゃないって先生! 悪魔だって言ってた意味、分かったもん……あの人、怖い」


 そんな華音の必死の訴えも、高野にはまるで伝わっていない。高野は呆れたような笑みを浮かべ、子供をなだめるようにして華音の頭を軽くなでてくる。


「俺が楽ちゃんのこと、『悪魔の二番弟子』って言ったから、ノン君、真に受けてんのかい?」


 真に受けるも何も――あれは『悪魔』そのものだ。

 あくまでのん気に構えている高野が、華音にはまるで理解できない。

 高野と華音が話をしている間に、何やら楽団員たちのほうからざわめく声が上がっている。片付ける手を止めて、一人、また一人と集まりだしている。


 「悪魔」がホールの座席通路を歩いていた。

 その通路の先にたたずむのは――富士川祥だ。


 富士川と鷹山を取り囲むようにして、楽団員たちが集まっているのだということに気づいたときには、『鬼』と『悪魔』がお互い手を伸ばせば届く距離まで近づいていた。


「やだ、……祥ちゃん」


 華音は高野の腕を引っ張り、富士川のもとへと走った。

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