有名大指揮者の落日(2)

 芹沢邸は、広大な敷地に建てられた洋館風の大邸宅である。

 華音はようやく自宅へ辿り着き、重い鉄製の門扉を力任せに押し開くと、玄関まで長く続く石畳を全速力で駆け抜けた。

 ミューズの像が載った噴水の脇を通り、玄関先へ到着すると、そこに芹沢家の執事がいつもの冷静さを逸した不安げな表情で、華音を待ち受け立っていた。


「ああ、華音様! さあ、早く二階の方へ」


 軽く頷き玄関から中へと入ると、華音は真っ直ぐに祖父の寝室へと向かった。呼吸を整える余裕もない。

 階段を駆け上がり、左に進み、突き当たった角を右に折れた先が祖父の寝室である。延々と続く長い廊下を、これほど恨めしく思ったことはない。

 ようやく最後の角を曲がると、一番弟子・富士川祥が、部屋の前で憔悴した表情でたたずんでいた。


「祥ちゃん!」


「ああ、早かったね。そんなに息を切らして。さあ、こっちへおいで」


 華音は富士川に促されるまま、廊下の隅に置かれた長椅子に腰かける。富士川も、その右隣に並ぶようにして座った。

 富士川は思いつめた表情で、じっと芹沢英輔の寝室のドアを凝視し、眼鏡の奥の瞳を心なしか潤ませている。端整ながらも怜悧な印象を与える顔立ちは、さらに険しさを増し、いっそう悲壮感を漂わせている。


「祥ちゃん、いったい、どうなってるの?」


 華音が呼吸を整えつつやっとの思いで尋ねると、富士川は虚ろな表情のまま、堰を切ったように説明をし始めた。


「華音ちゃん、すまない。俺がそばについていながら……リハの休憩中に、芹沢先生は一旦楽屋へ戻られたんだけど、休憩時間が過ぎていつまで経ってもステージへ姿を見せないものだから、様子を見に行ったらすでにぐったりとしていて……発見が遅れてしまった」


 富士川は片手で額を押さえ、己の行動を悔やむように、空に向かって深いため息をつく。


「そんな……祥ちゃんのせいじゃないよ。祥ちゃんのせいなんかじゃないから」


 しかし、どんな言葉をかけても、今の富士川には何の慰めにもならない。むしろそれが、どんどん彼を追い詰めるだけの結果となってしまう。

 富士川の様子から、祖父の容態は決して楽観できる状態にはないのだと、華音は悟った。

 いったい、どうしたらいいのだろう――華音にはもはやなす術もなく、憔悴しきった富士川の横で、ただじっと長椅子に座り込んでいるしかなかった。



 そのときである。

 遠くのほうから、陽気な鼻歌らしき旋律が聞こえてきた。

 パッヘルベルのカノン――鼻歌の主は歩調に合わせて、細かなパッセージをもの凄い勢いで、かつ正確な音程で奏でている。徐々にその旋律は大きくなり、最後の角を曲がる頃になるとラララと歌いだしたから、たまらない。

 二人は恨めしい表情をしながら、目の前に現れた場違いなほどに陽気な男へ、揃って顔を向けた。


「いったい何の騒ぎなんだい? 執事のオっさんから電話もらったんだけど、俺さあ、起きたばっかだったから、あんま聞いてなかったんだよねえ。ここに来いってことは分かったんだけど」


 市内で楽器店を経営する、芹沢家に縁の深いこの青年、名前は高野和久という。

 本職はピアニストであり、今夜の記念演奏会で、協奏曲のソリストを務めることになっている。

 高野の実年齢は三十八歳。すでに青年という域を越えているが、彼の涼やかな顔立ちと無駄のない身体つきで、確実に十は若く見える。外見だけではなく、精神面や生活面においても、大人の落ち着きがまるで感じられない。

 そんな高野の出で立ちを、富士川は半ば呆れ顔で見回した。


「急いで来てくれたのは結構なんですが、着替えくらいしてきたらどうなんですか?」


 軽蔑の眼差しを向ける富士川の横で、華音も驚きを通り越し、思わず呆れ顔になる。


「高野先生、いい歳して恥ずかしくない? ここまで、その格好で来たの?」


 高野のいい加減ぶりは、富士川や華音もある程度理解していたつもりだった。しかし、さすがに皺だらけのパジャマ姿で来られると、驚愕と困惑を隠せない。

 しかし、当の本人はあくまで飄々と答える。


「どうせ車なんだし、何で恥ずかしいのさ。全裸じゃあるまいし。というか、執事のオヤジがすぐに来いっつうから。それよか富士川ちゃん、何で今頃ここにいるのさ? それにそうだ、ノン君だって学校はどうしたんだい?」


 高野は首を傾げている。

 演奏会のある日は、朝から会場へ出かけて入念なリハーサルを欠かさない富士川が、本来ならここにいるはずがないのである。

 富士川は眼鏡の奥の、切れ長の目を伏せた。


「芹沢先生が倒れられたんです。意識が戻らなくて……今、お医者様に診ていただいているので、それを待っているところです」


「私も電話もらって、学校からいま帰ってきたばかり」


 立ったまま二人を見下ろしていた高野は、事情を聞いて何か思うところがあったらしい。尋ねるべきかどうかを迷うような、わずかな沈黙が流れる。

 やがて、高野は重々しく口を開いた。


「ねえ、富士川ちゃん。今夜の演奏会、どうするつもり?」


 富士川は高野を見上げた。その表情には精気がない。


「どうするって……そんなこと、俺に言われても困ります」


「おいおい、そんなこと言ってられないよ? とにかく時間がない。最悪の事態を想定して、手を打っておいたほうがいい」


「公会堂に楽団員を待機させてあります。あとは芹沢先生次第です。もし駄目なら、演奏会はキャンセルします」


 その一番弟子の返答は、高野の予想に反したものだったらしい。面食らったような表情で、再度聞き返す。


「う、嘘? こんなでかい演奏会を当日キャンセルすんのは、もの凄おおおく大変だよ? 払い戻しとかするなら、それ相応の現金も用意する必要があるし、少なからず苦情も出るだろうから、その応対をする人もそれなりの人数が必要になるしさ。富士川ちゃん、それでもいいの?」


 高野はこの業界でそれなりのキャリアを積んでいる。そのため、演奏会の運営というものがどんなに大変であるかを、それなりに心得ている。

 もちろん、富士川も充分承知しているはずなのであるが――しかし、今夜の演奏会は特別な意味を持つものであることが、一番弟子の決断を鈍らせている。


「キャンセルすると決まったわけではないんです。縁起でもないことを言わないでください。俺は芹沢先生が指揮をとると信じていますから」


 富士川の真剣な眼差しに、高野は説得を続ける気を失くしたようだ。肩をすくめて軽くため息をつく。

 華音は身を硬くして黙ったまま、ただ成り行きを見守っていた。



 重苦しい雰囲気が続く中、高野は思い出したように富士川に尋ねた。


「ウィーンへは連絡したの?」


「いえ……一応報せておいたほうがいいでしょうか。無駄でしょうけど」


 そう言って、富士川はすぐ脇の客間のドアを開け、備え付けの電話に向かった。

 華音は二人のやり取りがよく飲み込めなかった。残った高野に素直に疑問をぶつけてみる。


「高野先生、ウィーンっていったい何なの?」


「あれ、ノン君知らなかったの? 芹沢のオヤジの二番弟子が、ウィーンにいるんだよ」


「二番弟子? 祥ちゃんの他にも弟子がいるの?」


 初めて聞く話だった。

 高野は説明するのが面倒くさそうに、頭を掻いた。


「ほとんどこっちには寄りつかないからねえ、彼は。楽団の連中だって、オヤジに二番弟子がいること知らない奴が多いし。第一、富士川ちゃんが――」



「ふざけたことを言うんじゃない鷹山!」



 開きっぱなしにしてあった客間のドアの向こうから、富士川の怒声が聞こえてきた。

 高野は声量を落とし、華音に耳打ちする。


「あの調子なんだよ、昔っから。まあ、音楽やってる人間は得てしてプライドが高いけど、あの二人は半端じゃないからね。俺に言わせりゃ、似たもの同士なんだけど」


「たかやま、って名前なの? 高野先生は会ったことあるの?」


「鷹山楽人がフルネーム。タカは鳥類の『鷹』のほうね。ガクトは音楽の『楽』に人という漢字。楽ちゃんとは共演したことがあるよ。十年くらい前だったかな、楽ちゃんはまだ中学校に入ったばかりの頃でさ、俺もまだ若かった……」


 高野は懐かしそうに言った。


 再び、富士川のヒステリックな叫び声。


「お前という奴は、いったいどこまで外道なんだ!」


 そして受話器を電話機に叩きつける音。



 客間から飛び出してきた富士川は、凄まじい憤怒の面貌だった。


「やっぱり無駄でしたよ! あいつには人間の血が流れていないんです! まったく、ウィーンまでの電話代が損しましたよ!」


「落ち着いてよ、富士川ちゃん。楽ちゃんは何て言ってたんだい?」


「葬式の日程が決まったら、それから帰国を考えるなどと! 一番弟子のあなたが看取ればそれでいいんじゃないですか、って。いいんじゃないですか? 恩師の一大事に馬鹿げたことを! あいつときたら、まるで他人事なんです!」


「相変わらずだねえ、楽ちゃんも」


 高野は、富士川をなだめるように、苦々しい愛想笑いをした。

 華音はもう、どうしてよいのかまるで分からなかった。

 富士川がこれほどまでに感情的に怒りをあらわにするのを、華音は今まで見たことがなかった。それだけで、『鷹山楽人』という祖父の二番弟子が、相当厄介な人物であることは想像がついた。


 そのとき、目の前のドアがゆっくりと開いた。

 三人が同時に、そちらに顔を向けると、出てきたのは白衣の男、芹沢家の主治医だった。


「先生! おじいちゃんは?」


「芹沢先生の容体はどうなんですか!」


「……その様子だと、相当ヤバいみたいだねえ」


 白衣の男は、すべての感情を押し殺した顔で、無機的に喋り出す。主治医が何気なく口にした言葉は、人生の終わりを告げるにはあまりにも簡単なものだった。




 芹沢英輔が息を引き取った。


 部屋の中には華音と高野、そして富士川青年の三人が通された。


 祖父は生前と変わらぬ険しい顔で、寝室のベッドに横たわっていた。

 唯一の身内である華音よりも、富士川のほうが取り乱していた。ベッドの脇に膝をつき、芹沢老人の遺骸に取りすがり、声を押し殺すように泣いている。一番弟子である富士川にとって、芹沢英輔という人物は神にも等しい存在だった。

 華音は、震える富士川の背中をじっと見つめていた。


 主治医と看護婦はすでに一階へ下り、執事と今後の対応を話し合っているようだ。


「もうすぐ三時か……」


 高野が、壁掛け時計を見ながらひと言呟いた。

 富士川はようやく顔を上げ、ゆっくりとよろめきながら立ち上がった。ズボンのポケットからハンカチを取り出すと、眼鏡を外して涙を拭った。


「俺、公会堂に戻ります。電話では事情を説明しきれないので」


 楽団員たちが、音楽監督が戻ってくるのを信じて待っているのである。演奏会開始予定は七時。時間はない。

 コンサートマスターである富士川は、現況を説明すべく、一度戻らなければならない。

 富士川が踵を返し、部屋から出ようとドアノブに手をかけた、そのとき――。


「私も行く」


 華音がそう言うと、富士川は驚いたように振り返り、泣いて充血した目を見開かせた。


「何言ってるんだ、華音ちゃんは芹沢先生についていてあげないと」


 そう言って、富士川はすぐに華音に背を向け、再びドアノブに手をかけ直す。


「やだ、祥ちゃんと一緒に行く」


 華音は富士川のそばへと駆け寄り、シャツの袖をつかんだ。


 富士川は立ち止まり、袖をつかむ少女を振り返った。その顔には、困惑の表情を浮かべている。前へ進むことも、引き止められた手を振り解くこともできず、身動きが取れないでいる。


 高野はその状況を見かねて、ゆっくりと二人に近づくと、富士川のシャツから華音の手をそっと引き剥がした。


「ノン君、あんまり富士川ちゃんを困らせないの。たぶん向こうは、これから修羅場になるだろうしね」


 高野に諭され、華音はやっとの思いで小さく頷いた。

 一方の富士川は、『修羅場』という言葉を聞いて、眉間のしわをさらに深くする。


「そうですね、おそらく。華音ちゃんは高野さんと一緒にいればいいよ。公会堂のほうが片付いたら、すぐに戻るから。いいね?」


 富士川は高野に目配せをした。すると高野も、それを無言で受け止めた。

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