有名大指揮者の落日(1)
華音がベッドの上で目を開けると、そこは闇だった。
漠然とした怖さと、例えようもないほどの不安が、容赦なく襲いかかってくる。
人の気配はない。祖父も祖母も、執事も通いの家政婦たちも――誰もいない。
真っ暗な部屋の中に、小さな華音は一人ぼっちだった。
「ショウたん……」
小さな自分にできるのは、泣くことだけだった。
華音は、闇に包まれた自分の部屋のベッドの上で、大きな声を上げて泣き続け、とにかく必死に訴える。
怖い。
寒い。
早く、早く、早く――。
程なくして、華音の求めていた人物が目の前に現れた。
部屋にやってきた少年が灯りのスイッチを押すと、闇は光へと生まれ変わる。
「どうした? 怖い夢でも見たの?」
少年は掛け布団を引き剥がし、ベッドの上の幼い華音を抱き起こす。
華音は背中に回した小さな手で、少年のシャツをきつく握り締めた。
「ショウたん、いなくなったらヤダ……」
「どこへも行かないよ。華音ちゃんを放っておいて、いなくなるわけがないじゃないか?」
「どこにもいっちゃイヤ」
華音は少年に抱きついたまま、離れない。
少年は観念したように、華音を抱き締め背中をさすってやりながら、その耳元でゆっくりと優しいため息をついた。
「大丈夫。ずっと一緒に、いるからね――」
「いつまで寝てるの、華音ちゃん」
長い長い夢から目覚めると、一人の男がベッドの端に腰かけて、華音の顔を覗き込んでいた。
涼やかな面持ちと、知性をかもし出す眼鏡が印象的な青年だ。およそ肉体労働とは無縁の、痩せ型の体型の持ち主である。
華音は自分を起こしにきた男を確認すると、掛け布団の中で大きく伸びをした。
「……祥ちゃん、おはよー」
「もう高校生なんだから、一人で起きられるようにしないとね。なんなら、着替えもお手伝いいたしましょうか、お姫様?」
祥、と呼ばれた青年は、おどけたように言った。
「やだ、子供じゃないんだから……恥ずかしい」
「じゃあ、早く着替えて食堂へおいで。芹沢先生はもう席に着いて待っていらっしゃるよ」
「うそ、いつもより早くない?」
華音は途端に焦り、掛け布団を蹴散らすようにして、ベッドの外へと這い出た。厳格な祖父の顔が、脳裏をよぎっていく。
そんな華音とは対照的に、青年は緩やかに表情を和らげて説明をしてみせた。
「今日は、特別な日だからね――」
華音の祖父・芹沢英輔は、日本屈指の大指揮者である。音楽に疎い人間でも、その名を知らないものはほとんどいない、芸術界の著名人だ。
若い頃はヴァイオリンの演奏家として名を馳せ、その後一線を退いてからは、後進の育成指導に心力を注いでいる。
英輔は、その門下生たちを中心としたオーケストラ『芹沢交響楽団』を結成した。
現在も、その団体を自ら率いて、指揮者として活動している。
その芹沢英輔の一番弟子が、富士川祥という青年である。現在二十九歳の、才気あふれる逸材だ。芹沢交響楽団で、コンサートマスターを務めている。
富士川は、弟子入りをした高校時代から音大を卒業するまでの七年間、芹沢家に居候していた。
早くに両親を亡くした華音を、物心ついたときから面倒を見ていたのはこの富士川だった。芹沢老人の弟子としてヴァイオリンの研鑽を積むかたわら、遊び相手としてその後は家庭教師代わりとして、いつも華音のそばにいたのである。
富士川青年は大学卒業を機に、近くにマンションの部屋を借りて、自立した生活を送るようになった。しかし、そこには寝るために帰るだけで、以前と同様にほぼ毎日芹沢家に顔を出し、祖父のサポート業務をこなしたり、食事をともにしたりすることも多い。
食堂と呼ばれる部屋の大きな食卓の上座には、すでに祖父の英輔が威厳を漂わせて着席していた。
「おはようございます。遅くなりました」
「
祖父は遅れてきた孫娘にではなく、そばに控えていた執事に強く尋ねた。
直接華音に話しかけてくることは、ほとんどない。目の前にいても、こうやって執事に尋ねるのが、祖父の常だった。
重苦しい雰囲気の中、上手く間に入ったのは富士川だった。
「遅れたのは俺のせいです、先生。すみませんでした」
華音をかばいつつ、そして師の機嫌も損ねることがないように、器用に言葉を紡いでいく。
「芹沢先生、華音ちゃんも年頃の女の子ですから。身支度に時間がかかるのは大目にみてやってください」
一番弟子の答えに何か思うところがあったのだろう。祖父はそれ以上、華音を責めることはなかった。
静かにそして淡々と、朝食の時間は流れていく。
「今日の演奏会が終わったら、少しゆっくりしようかと思っている。祥、お前を私の後継者として、もう少し鍛えてやらなくてはならんからな」
その主人の言葉を聞き、執事の乾は富士川に紅茶を給仕しながら、嬉しそうに会話に加わってくる。
「それは頼もしいですね。富士川様はこれからの芹響を背負っていかれる方ですから」
「そんな後継者だなんて、俺なんかまだまだ……」
富士川はどこまでも謙虚な姿勢を崩さない。それでも一番弟子という立場として、己の行く末はもちろん理解しているはずだ。
いずれは、芹沢英輔の後継者として音楽監督となり、楽団を率いていくことになるのだろう――それは華音も信じていた。
英輔は、富士川の隣に着席している孫の顔に、一瞬だけ目をやった。
「華音も、十六になったことだしな」
続く英輔の言葉を、富士川は慌てて遮った。
「いや、あの、そんな、華音ちゃんはまだ高校生ですし」
そう言って、富士川は砂糖もミルクも入っていない紅茶を、スプーンで何度も何度もかき混ぜる。
芹沢老人は、途端にしどろもどろになる弟子の変わりようを、面白げに眺めている。
「まあ、すべては今夜の演奏会が終わってからの話だ」
師の言葉に、富士川は華音の横で、安堵したように大きなため息をついた。
朝食を終えると、華音は学校へ行くための支度を整え、玄関へと向かった。
華音を見送るためにと、珍しく富士川が玄関のところで待っていた。
華音が靴を履く脇で、富士川は呟くような声を漏らしている。
「……本気なのかな、先生」
「ねえねえ祥ちゃん、本気って何?」
今朝の食堂での、師弟の意味深なやり取りが、華音は気になっていた。華音はその疑問を、素直に富士川へぶつけてみる。
しかし、富士川は軽く息をつき、華音の疑問をあっさり一蹴した。
「子供には関係ないことなの。さあ、ゆっくりしてたら学校に遅れるよ」
「もう、こういうときだけ子供扱いして!」
華音が拗ねて頬を膨らませると、富士川の表情が和らいだ。
「あ、そうだ。祥ちゃん」
「どうしたの?」
華音はおもむろに富士川青年の胸に抱きついた。
幼い頃からのくせが今も抜けないでいる。
「祥ちゃん、頑張ってね。夜、ちゃんと聴きにいくから」
「はいはい、ありがとう」
こんな他愛もない日常が――。
何の前触れもなく、突然崩壊することとなる。
その日の昼休み、華音は学校の事務室から呼び出しを受けた。自宅からの緊急の電話を取り次がれたのである。
華音は腑に落ちなかった。
昼間に家から電話がかかってくることなど、まずありえないことだった。
――何だろう?
虫の知らせといったような漠然とした何かを、華音は感じ取った。
急いで事務室へ向かうと、無愛想な中年の事務職員が、華音に受話器を差し出してくる。
華音がそれを受け取り、耳に当てるのを確認して、事務職員は通話内容に立ち入らないよう、すぐに電話のそばを離れていった。
華音は気持ちを落ち着かせようと、大きく深呼吸した。
耳に当てている受話器から、丁寧な口調の男の柔らかい声が流れてくる。
『お忙しいところ申し訳ございません、華音様――』
電話をかけてきた相手は、芹沢家の執事・乾だった。
乾は淡々と続ける。
『先ほど、公会堂におられる富士川様からお電話がございまして』
今日は芹沢英輔の指揮者生活四十周年を記念する、特別演奏会が催されることになっている。
確かに執事の言うとおり、富士川は今夜の演奏会準備のため、市立公会堂へと出かけているはずだ。
華音はそのまま、執事の言葉に耳を傾けた。
『最終リハーサルの途中で、旦那様が突然倒れられたとのことです。旦那様は病院嫌いでいらっしゃいますから、これからこちらへ戻っていらっしゃるとのことです。富士川様から、華音様も早退していらっしゃるようにと――』
心臓の鼓動が、物凄い勢いで脳天まで響いている。
もう、執事の声は聞こえなくなっていた。
頭の中が真っ白になり、何も考えることができない。
華音は担任の教諭に事情を話し、急いで荷物をまとめると、ひたすら自宅へ向かって走り出した。
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