第29節 -対象a-

 9月9日。いつもと変わらない穏やかな朝がやってきた。

 窓から差し込む太陽の光が一日の始まりを告げる。

 支部で宛がわれた自室でフロリアンは普段より少しだけ遅い目覚めを迎えていた。今日のシフトは休日だ。


 時計に目をやると時刻は7時半を指している。二度寝をしてゆっくりするのも良いが、せっかくの休日なのでコロニア市内を見て回りたい気持ちもある。

 聞いた話では今日は市内で小規模ながら催し物があるという。その見物に行くのも一興だろう。

 ベッドから起き上がりながら大きな伸びをする。とても爽やかな朝だ。

 まずはシャワーを浴びて身支度を整えることにしよう。その後は外出して朝食はカフェでとってみるのが良いだろう。

 行く宛もなくぶらぶらと観光をするのはどこの国でも楽しいものだ。

 


 そうして着替えも済ませ、いつも通りに身支度を終えたフロリアンは出掛けようとしたが、ふと振り返って机の上に置いたあるものに視線を当てた。

 スタンガン。この国で起きている事件に関連しているのかどうかは分からないが、最近裏通りで非常に物騒な事件が発生していることから携帯を許可されたものだ。

「使うことになるなんて思わないけど。」

 そう呟きつつも、異国の地で万が一ということも有り得る。休日とは言え何らかのアクシデントが起きればすぐ対応できるような心構えと準備をしておくのも機構の隊員の使命だ。

 扉から机まで戻り、ワイヤー針を射出して対象の動きを封じる銃型スタンガンを手に取ると、目立たないようにジャケットの内側へ忍ばせた。

 こうしたものを携行するのは決して気分が良いものではないが、今回に関しては仕方ない。

 使わずにいられることを祈ろう。そう思いながら部屋を後にした。



 支部の廊下に出て外出用ゲートへと向かう。途中ですれ違う隊員たちと挨拶を交わす。

 朝が苦手な隊員はやつれた表情をしていたりもするが、それでも皆一様に笑顔で挨拶を交わしてくれる。中には自分が休暇だということを見て取って『良い一日を』と声を掛けてくれる隊員も少なからずいた。

 南国ということが関連しているのか、セントラル1とは違った温かさと陽気さがこの支部には満ちている。

 セントラルは中央統括管制を兼ねていることから、どちらかというと規律的な側面が先行して目立つが、ここでは個々人の自由意志による行動的な側面が少しだけ強いような印象だ。

 機構に入構しておよそ5年。遠く離れた支部へ来て、慣れ親しんだ環境とは異なった良いところを肌身に感じる毎日である。

 セントラルと支部の違いについて思考を巡らせつつ歩いていたその時、目の前から歩いて来た一人の女性隊員から元気の良い挨拶をされた。


「おっはようございま~す☆」

「おはようございます。」唐突に聞こえた元気の良い爽やかな挨拶に反射的に返事をする。

 フロリアンはすれ違いざまにその隊員の姿を見たが、どことなく違和感を感じた。


 桃色ツインテールの髪型に可愛らしい鶏の鞄を携行している幼い少女?

 そんな隊員がこの支部にいただろうか?誰かの家族?娘?


 違和感の正体を確認する為にすぐに後ろを振り向いたフロリアンであったが、その時には既にすれ違った隊員は姿を消していた。

 周囲を見渡すがどこにもいない。忽然と姿を消したという表現がしっくりくるような感覚だ。

 不思議に思いながらも結局、強い違和感の正体については確認することが出来ないまま外出することになった。


                 * * *


「行ってきまーす。」

 そう言って自宅を元気に飛び出したのはアヤメである。

 学校が休校となっているこの日、市内で催されるイベントを目当てに遊びに行くことが目的だ。

 当然、少し離れた位置からではあるが警察や政府の人間が監視や護衛を行っている。

 鬱陶しいことこの上ない。そう思いつつも隠れる場所も無い大通りで彼らを遠ざけることは不可能だろう。しばらくの間は彼らを引き連れながら純粋に休日を楽しみ、頃合いを見て一気に撒くことに決めた。


 ほんの少し歩いた自宅からほど近い場所でも露店が出店されており、既に人々が集まって賑わいを見せている。食べ物の良い香りも周囲に漂う。

 その光景に高揚感を感じつつ歩みを進める。

『アイリス、私アクセサリーを売っている露店を見てみたいわ。』自身の中にいるアヤメが言う。

 人通りの多い中で返事をするわけにはいかないのでそれとなく頷く仕草をしながらアヤメが気に入りそうなアクセサリーを売っている露店を探してみる。

 今日のイベントは国際文化交流フェスタと呼ばれる催しで、ミクロネシアだけではなく日本やアメリカ、ドイツやスペインなどミクロネシアの歴史と関りを深く持つ国々の露店が多数出店される。

 数年前から国際交流の一環として定期的に開催されているお祭りだ。各国の本格的な料理の店やミクロネシアの店ではなかなか見つけることの出来ないアクセサリーなども多い。

 このイベントが開催される際にはアイリスは主に食べ物を、アヤメは主にアクセサリーを見て回ることを楽しみにしている。


 さらに歩みを進めていると近所に住む人々が声を掛けてきてくれた。

「アヤメちゃん、おはよう。朝ご飯は食べた?」

「おはようございます。朝はまだなんです。露店で何か食べようと思って。」アイリスはいつものようにアヤメになり切って笑顔で返事をする。

「そう、向こうに美味しいカレー味の料理があったわよ。ドイツの料理らしいんだけど…」

「カリーヴルストよカリーヴルスト。濃い味で良かったわ。アヤメちゃんもどう?」みんなが次々と声を掛けてくれる。

 アイリスはアヤメという少女の人望がいかに強いものなのかをこういった時に実感する。それと同時に、過去を通じて自分には無かった経験の為非常に羨ましくもあった。

「ありがとうございます。それを頂きに行きますね。」美味しい料理の露店情報を早速仕入れたアイリスは、アヤメの要望であるアクセサリーも探しつつカリーヴルストを売っている露店へと向かうことにした。


 目的の露店へ向かう道中、足元で赤い染みのようなものが段々増えてきたことにアイリスは気付いた。

 おそらく近くでブウが売られているのだろう。東南アジアを中心に親しまれる嗜好品で、噛み煙草のようにして嗜むものだ。

 ミクロネシアではヤップを中心としてブウと呼ばれ昔から親しまれているビンロウヤシの果実で、英語ではビートルナッツといわれている。

 嗜み方はシンプルでビンロウヤシの果実であるビンロウジを半分に割り、サンゴ礁から作った石灰をかけ、煙草の葉で丸めて口に入れて噛む。

 頭がふわっとなるような感覚を得られる刺激性や興奮性のある清涼嗜好品だ。これは大人だけではなく子供も嗜んでいたりする。

 また、ブウと石灰を一緒に噛むと化学反応で唾液は真っ赤に染まるのだが、それを道端で吐いている為に道が赤く染まる。なので道端に赤い染みが目立つようになったら付近でブウの露店があると見て間違いない。

 ちなみに赤く染まった唾液を飲み込むのは刺激が強すぎる為に避けた方が良い。

 そしてもう一つ、嗜好品といえばポーンペイではシャカウという呼ばれる伝統的な飲み物がある。

 これはカヴァの根を叩いて絞り出した汁に水を加えた飲み物で、先程の刺激的な麻酔性のブウとは対照的に非常に強い鎮静作用のある代物だ。

 シャカウは近年ではバーや喫茶店でもよく見られるが、元々は主に儀礼祭宴で作られることの多い飲み物であった。その為、本来は作り方や飲み方に加えて飲む順番に至るまで細かな作法がある。

 アヤメの参加している精霊にまつわる儀式においても必ずと言っていいほど作られるが、アヤメ自身は土のようなどろっとした独特の味が苦手でいつもほんの少しだけ飲むだけであとは遠慮するようにしている。

 飲んだ後の不思議な脱力感自体は決して悪いものではないのだが…


 歩みを進めるアイリスはいよいよ近所の女性陣が言っていたドイツ料理であるカリーヴルストの露店へと辿り着いた。

 カリーヴルストとは端的に言うとカレー味のソーセージだ。よく焼いたソーセージにケチャップとカレー粉、又はカレーソースとカレー粉をまぶしたシンプルな料理である。

 露店で売られているものは付け合わせとして小さなパンかポテトが付属することが多い。

 ソーセージの焼ける匂いとカレーの良い香りが周囲を包み込んでいる。

 目の前で焼きあがっていくソーセージに目を輝かせながら、アイリスはいつものようにアヤメになり切って店主に注文をした。

「カリーヴルストひとつくださいな。」

「お、アヤメちゃんも来たか。あいよ。丁度今焼きあがった出来立てがあるんだ。ポテトとパンはどっちにする?」アヤメからお代を受け取りながら店主の男性は元気よく答えた。

 そしてポテトとパンで悩むアヤメを見ながら店主は言う。

「よし、じゃぁ特別だ。二つともつけておこう。しっかり食べなよ。」

「ありがとう!」アイリスは礼を言いながら出来立てのカリーヴルストとポテト、パンが乗ったプレートを受け取った。


 目的の料理を手に入れたアイリスは早速焼き立てのカリーヴルストを頬張る。

 濃い味付けにジューシーな肉汁が溢れてくる最高の逸品だ。付け合わせのポテトやパンと一緒に食べるとボリューム感が増してたまらない。美味しい料理を食べて幸せに浸りながら自身の中のアヤメと共に次の行き先を考える。

 結果、アヤメの提案によって次は日本料理を食べに行こうということになった。確か付近に “タコヤキ” という食べ物の露店があったはずだ。

 さらに、その近くにある日本の伝統的な小物を扱う露店も目的地である。そこにはアヤメが気に入りそうな髪飾りや小物がたくさん置いてあるに違いない。

 アイリスはうきうきとした足取りで次の目標に向けて歩みを進めた。


                 * * *


『対象は市内イベント会場を徒歩で移動中。周囲に目立った動き無し。』

「そのまま状況の報告を継続してくれ。」

『了解しました。監視を継続します。』

 自らのオフィスで待機するウォルターは護衛として配置している部下からの報告を受け取りながら状況の把握に努める。

 これまでの所はイレギュラーなことも起きず、全てが万事計画通りに事が運んでいる。

 状況が動き出すのはもう少し先になるだろう。昼過ぎだろうか。

 まだ人もまばらな状況では期待した成果は望めない。もっと人通りが増えてきてからが勝負だ。

 机の上にある警察専用の端末から市内に設置された監視カメラの映像を抽出する。現在のところ追跡対象であるアヤメは日本の露店が多数並ぶ区域に向かって歩いているらしい。


 ウォルターは市内のメイン道路に設置された監視カメラの映像に時折映り込む彼女の姿を見て思う。

 こんな幼い子が国を揺るがす大問題に関わることになるなど。あまりにも若く幼い。

 本来は大人達の事情が複雑に絡み合うような問題に首を突っ込んで大変な重圧を受けるような立場の子ではない。

 友や家族と仲良く無邪気に遊び、学び、日常を過ごすことが何よりも宝になる年頃だというのに。

 彼女曰く、聖母の声とその導きによって起こされる奇跡。結果としてもたらされようとしている結末はあまりに残酷だ。

 出来ることなら第五、第六の奇跡を彼女が起こすよりも前に “全てを終わらせてしまいたい”。一連の出来事の何もかもを。


 そうだ、その為に何としても仕留めなければ。


 今日という日で終わりにしなければ。その時はもうすぐ、もうすぐだ。

 ウォルターは深い深呼吸をしながら時計に目を移し、おそらく事が動き出すであろう時刻までの残り時間を確認しながらこの後起きる出来事について思いを馳せながら静かに目を閉じた。


                 * * *


「おい、今日で片が付くんだろうな?」地下の部屋の中、珍しくにやりとした顔でアルフレッドが言う。

 ついに計画を実行する日だ。自分達の命を絶つと言ったあの小娘を先に亡き者にする日が訪れた。

「問題ない。目標から2キロ離れた位置から一撃で片を付けられる。」ベルンハルトが不敵に笑いながら答える。

「そいつは重畳。良い報告が入ることを期待してるぞ。」

 現在までの所はアヤメが自分に付いている護衛を撒く気配は無いという報告がある。

 だとすれば動き出すのは午後だ。人通りが圧倒的に増えてきた段階でおそらくあの少女は行動を起こす。

 そして一人きりになったところを銃撃。空からの警戒も地上からの警戒も意味を為さない位置から狙撃が出来るように手配してある “例の物” は誰であろうと防ぐことは出来ないだろう。

 アヤメがどれほどの特別な力を持っていようと、心臓か頭を一撃で吹き飛ばされれば何もしようがない。

 そんな今回の計画で使用する “例の物” …狙撃ライフルは特別に海外から取り寄せたアンチマテリアルライフルの最新型で、現世界に存在するものの中では最高クラスの代物と言っていい。

 最大射程約3キロメートル以内での精密射撃が可能であり、スナイパーの腕に依存する面もあるが誤差数センチの範囲で目標を撃ち抜くことが可能だ。

 その驚異的な命中精度を実現させているのは量子コンピュータの機能を持つ特殊なマイクロチップだ。その場の射撃環境や風速、気温などあらゆる要素による弾道変化を発射前に計算し、目標を確実に射貫く為の瞬間的な弾道補正を行うシステムが備わっている。

 当然アンチマテリアルライフルの名を持つからには威力も最高峰でありコンクリートの壁はもちろん、至近距離なら戦車すら貫通する威力をもっている。

 そんな銃を人間の子供一人を撃ち抜くために使用するのはやり過ぎに感じられるかもしれないが、相手は神の代理を名乗る奇跡の少女だ。

 それくらいの備えをしておかなければ “確実に仕留める” ことは出来ないだろう。


 運命の時は迫っている。

 捕らぬ狸の皮算用は良くないと理解しつつも計画の完遂は目に見えた結果だ。

 あとはここで吉報が入るのをくつろぎながら待つだけで良い。


 アルフレッドとベルンハルトはいつもより良い酒のボトルを空け、今日という1日での勝利を確信して前祝をした。


                 * * *


 国際文化交流フェスタの会場において政府側から派遣した護衛の報告を聞いたウィリアムは安堵した。

 この様子であれば問題なさそうだ。きっと何も起きることは無い。特に自分達を撒くこともなく少女はイベントを楽しんでいる。

 そうだ、そのままでいてくれ。半ば祈るような気持ちでウィリアムは思った。

 年相応に無邪気に楽しくイベントを楽しんだ結果、今日という1日が終わってくれたらそれで良い。

 彼女の立場上でいうと本来は1人で出歩くなど言語道断、もってのほかというべきことではあるが、個人の自由な日常を権力で束縛したくないという大統領の意向によって離れた位置から護衛を付けるという現在の決まりになっている。

 故にアヤメは学校への登校も休日の外出も特に不自由なく出来るわけであり、今回のイベントへの参加もこうして自由に行うことが出来ている。

 問題はそんな温かな考えが悲劇を生む可能性についてだが、警察と共に政府側からも監視護衛を付けていることで万全の対策は取られていると思っている。

 どうにも警察に関してはいまいち信用が置けないが、政府側からの護衛も付いているのだから妙なことにはならないだろう。


「何も起きなければ良いんだ。頼む。」


 今度は祈るように呟きながらウィリアムは椅子から立ち上がる。

 立ち上がって部屋の扉まで歩みかけてウィリアムはその足を止めた。


 我々の決断は果たして正しいのだろうか。最近は常々そんなことが頭をよぎる。


 聖母の信託を下す奇跡の少女。

 皆の意識の中に記憶された超常的存在。

 しかし、その本心がどこにあるかは分からない。

 それなのに、確実に今のこの国の未来を左右する象徴である。

 この国の未来は幸せに満ちたものであると期待する中で、誰もが運命をその手に委ねて縋りついている。


 そんな今の彼女の存在はこの国の国民全てにとって、あらゆる意味で “対象a” と言って差し支えない。

 我々に出来たこと、我々が選んだこと、我々が決めたこと。

 我々が出来ること、我々が選ぶこと、我々が信じようとするもの。

 本当にこれで良かったのだろうか。本当にこれで良いのだろうか。

 これまでのことを思い返しながら彼女のことを憂い思う。


 ウィリアムは静かに首を振り呼吸を整える。悩んでいても仕方がない。

 止めた歩みを再開し、彼女の動きに特に異常が無いことを大統領へ報告する為に秘書官室を後にして大統領執務室へと向かった。


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