第17節 -天使のような悪魔-
午後8時。太陽が完全に沈み夜の静寂が訪れる。
政府庁舎や裁判所が立ち並ぶ首都パリキールはコロニア市とは違い夜の灯りもまばらだ。
ジョージは暗闇に沈む海の様子を大統領執務室から眺めていた。
機構の面々は集めるべき情報を集め終えて、いよいよ明日からは第五の奇跡に対応する為の本格的な調査活動を開始するだろう。
政府、ヴァチカン、テンドウ夫妻…そしておそらくは警察からも何らかの情報提供を早速受けたはずだ。
残された時間は僅かに1週間と数日。それまでに対応策を彼らは整えることが出来るのだろうか。
頭の中で思考を巡らせていると、部屋の中で個人用のスマートデバイスが着信を告げる光を放つ様子が窓に反射して見えた。
こんな時間に何の用だ…
言葉に出すわけではない。電話の主に心当たりのあったジョージは大きな溜息をつきながらデバイスへ歩み寄りデバイスを手に取った。
* * *
「なるほどな。あのロザリアという総大司教も彼女と同郷というわけか。」
ジョシュアから午後からの一連の話を聞いたハワードが言う。
支部内にある少人数用のラウンジでハワードとリアム、ジョシュアは指揮官同士の報告会も兼ねてに夜のひと時を楽しんでいるところである。
セルフミニカウンターバーが設置されたラウンジは三人の貸し切りだ。
「その話が真実であれば、女性でありながら総大司教という地位に就いているのも頷けます。」手に持つオンザロックのブランデーを傾けながらリアムが言う。
「他でもない。同郷のイベリスと玲那斗のお墨付きだ。間違いないだろう。」お約束のホットミルクを飲みながらジョシュアが言った。
「そうなると少しやりづらいな。ヴァチカンに対して隠し事は出来ないときたか。それよりジョシュア、やっぱり酒は駄目か?」ホットミルクを愛飲する様子を見たハワードが言う。
「酒は性分じゃない。俺は下戸だ。これがいつでも一番落ち着くんだよ。」笑いながらジョシュアは言う。
「眠れない時は私もよく飲んだものです。ずっと昔、まだ小さい頃は母に頼んでミルクを温めてもらっていました。」リアムが昔を懐かしむように言った。
「そういえば中尉の出身は?」
「私はこの島の出身です。ポーンペイで生まれて、ずっとこの場所で暮らしてこの場所で過ごしてきました。」ジョシュアの質問にリアムは答えた。
「そうか。人生を故郷で過ごすというのは良いな。俺はもう長いこと故郷の土を踏んでいない。」
「右に同じくだ。国連で過ごすことになって以来、故郷はおろか祖国に帰ることも滅多に無い。」
「大尉も少佐もアメリカ出身でしたね。なんだか少し憧れます。」
「そうか?アメリカと言っても国土が広い。一口に言ってしまえばワシントンやニューヨーク、ロスアンゼルスのような都会を想像するかもしれないが、道の両脇は見渡すばかりの麦畑なんて州も多い。俺はそっちの出身だ。都会より田舎の方が落ち着くよ。」
「大尉に言われてみれば “らしい” ですね。」
「 “らしい” とはどういう意味だ?」
ジョシュアの一言で3人は笑い合った。
何でもない会話に花を咲かせる。互いの故郷のこと、人生のこと、家族のこと。何気ないやりとりでしかないが、それらが疲れた心を癒していく。
しばらくの間酒とミルクを傾けながら話していた3人だが、ふとジョシュアがリアムへ問いかけた。
「中尉。今回の件について実の所はどう思っている?お前さん、努めて冷静に淡々と実務をこなしているが、本心で考えていることは別にあるのだろう?」
「分かりますか?こうも簡単に見抜かれるとは。大尉にも総大司教と同じ力があるのではないですか。」冗談っぽくリアムは言う。すると横からハワードが言った。
「それは私も気になっていた。」
「俺に総大司教と同じ力なんてないさ。」ジョシュアが答える。
「違う、そうじゃない。中尉の本心の話をしているんだ。」
ジョシュアとハワードのやり取りにリアムは盛大に笑った。ハワードが話を続ける。
「ここに来てから一度も尋ねたことは無かったが、時折そういう表情をしているからな。」
その言葉にしばし考え込むそぶりを見せつつ、手元のグラスを傾け一口ほどブランデーを飲んでリアムは言った。
「正直に言えば、どちらが正しいのか私にも分かりません。アヤメという少女を止めることが正しいのか、止めることなくこの国の治安を正常化させることが正しいのか。それは皆同じはずです。多くの国民が願うことはこの国の発展と明るい未来。暮らしやすい豊かな生活。近年になってようやく先進諸国の人々と同じ水準で生活できるようになった人々も多い。当事者である私達にとっては非常に難しい問題です。」
「本音は?」ハワードが言う。
「マルティムは壊滅させるべきです。しかし、アヤメという少女に罪を背負って欲しくはない。彼らは人が定めた法の下で裁きを受けるべきだ。」リアムはそう言うとグラスのブランデーを飲み干す。
「それを叶えられるように努力することが明日からの俺達の任務か。」
「今日の情報収集である程度道筋は見えたのではないか?」ジョシュアの呟きに対しハワードが言う。
「テンドウ夫妻から話を聞いて、何やらフロリアンとルーカスがある仮説に行き着いたみたいだが、立証が出来ないと言っていたな。奇跡の水や治癒に関連して電気分解法がどうとか言っていたか。あの短い話からヒントを見つけ出すのだからフロリアンの直感はさすがだ。あとは立証が出来ればというところだが…正直、ルーカスの知恵と知識、技術をもって立証できないなら俺はお手上げだ。あくまで水を生成する段階的な話の一工程に可能性が認められるだけで、それでは再現性がないと言っていた。科学の限界というやつだよ。」ジョシュアがぼやく。
「立証は難しいかもしれないな。イベリス、ロザリア、アヤメ…皆科学で語ることが出来る常識の範疇を超えた存在だ。だが案ずるな。それをさらに乗り越える為にその中の一人である彼女の助力を得ているのだ。想像していた以上に素晴らしい人物だと私は思っている。」ハワードが言う。
「イベリスか。無邪気に笑っているのが奇跡のような少女だ。過去の記録を読む限りではな。あんな仕打ちを受ければ普通は世界を呪いたくなるだろうに。愛する人と離れ離れになり、自らは巨石に圧し潰されて崩落する思い出の城塞の中で、燃え盛る炎に焼かれて死に至った。ただ目の前にあった幸福を掴もうとしていただけの何の咎もない、何の罪もない1人の女の子が、だ。そんな仕打ちを受けて尚、それでも彼女はただただ人々の温かな可能性というものを今でも信じている。」玲那斗と共に日々すぐ近くで彼女を見守るジョシュアは素直な気持ちを口にした。
その言葉にリアムが問い掛ける。
「姫埜中尉の存在が大きいのでは?」
「それもあるだろうがな。決して全てではないだろうさ。あの子自身が信じたいと思っているからこそだと言える。」
一通り話し終えた三人の間に沈黙が流れる。現実に対する思いをそれぞれが心に抱く。
「酔いが醒めたか?」
「お前はそもそも酔ってないだろう?」ジョシュアの質問にハワードは即答する。
「それもそうだな。」
再び笑い合った三人は片付けの準備に入る。
「これ以上は明日に響く。この辺りでお開きにしよう。」
ハワードの言葉で夜の楽しいひと時は締めくくられた。
* * *
「今日は星空は良いのか?」温かな紅茶をイベリスへ差し出しながら玲那斗は言った。
「ありがとう。色々考えることが多くて。眺めたいのだけれど、心から楽しむ余裕が無いわ。」
夕食を食べた後、2人はゆっくりと割り当てられた自室でくつろいでいた。
この時間になって疲れが出てきたのだろうか。イベリスは少しだけ俯き加減で考え事をしているようだ。
彼女の様子を見ながら玲那斗は自分用に淹れた紅茶を一口飲む。
カップをテーブルにおいた瞬間、イベリスが手元で何やら包み紙を開けながら唐突に言う。
「玲那斗、口を開けて。」
「え?」戸惑いながらも言われた通り玲那斗が口を開けるとイベリスが何かを食べさせてくれた。サクサクした食感と上品な甘さが口に広がる。
「大統領から頂いたクッキーよ。きっとこの紅茶によく合うわ。 “君が持っていきなさい” と言われて手渡されたのだけれど…とてもお断り出来なかった。」
「好意は受け取っておきなよ。個人的なお土産程度なら規定違反に触れるような内容ではないから安心して。」
玲那斗の言葉を聞きながらイベリスも顔をほころばせながらクッキーを食べる。
彼女が美味しそうにお菓子を頬張る様子を微笑ましく思いつつ、玲那斗はイベリスが今何を考えているのか尋ねてみた。
「何を考えているんだい?」
「テンドウ夫妻とアヤメちゃんのことよ。ご両親がおっしゃることも分かるのだけれど、私はアヤメちゃんが考えていることも何となくわかるような気がするの。」
「でもあの子は聞こえてくる聖母の声に従っているだけという話じゃないのか?」
「本当にそうかしら。例え聖母の声が聞こえてきたとしても、それを実行するかしないかはあの子自身が決めることよ。結果的に多くの人々が幸せになる方法として声の主から提示された答えは殺戮だった。でも彼女は答えを聞いて尚、何も躊躇うことなく奇跡を最後まで完遂させようとしている。そこに自らの意思が関与していないとは思えない。」
「そうだな。言われてみればそうだ。両親が本当はどう思っているかだって気付かないような歳でも無いだろう。むしろ、大人より敏感に周囲を感じ取ることが出来る年齢だ。」
「実はね、今日テンドウご夫妻の自宅から帰る間際にアヤメちゃんを見たの。一瞬だけど目が合った。」
「どこにいたんだい?」
「二階の壁際よ。もしかしたら、私達の話の一部は聞いていたかもしれないわ。その時に見た彼女の眼差しは真っすぐだった。何も迷うことも無く、戸惑いも無い。そんな目だったわ。」
「となると、ますますもって彼女は彼女なりの意志を持って奇跡に臨んでいるという信憑性が増すな。」
そう言って二つ目のクッキーを玲那斗が食べる。
その間、イベリスはやや伏し目がちに考え事をしていたようだったが、おもむろに顔を上げてふと呟く。
「ねぇ玲那斗?何が正しくて、何が間違いなのかしら。私達が彼女を止めようとしていることは本当に正しいの?」
その質問に玲那斗は考え込んだ。難しい質問だ。
「正直に言うと、俺にもわからない。ただ、マルティムを放置することも出来ないし、彼女に殺戮を実行させるわけにもいかない。感情に流されてしまうことは避けるべきだが、特に今日の両親の話を聞くとな。」
二人はしばし無言となる。
イベリスは言葉を発しないまま視線を窓の外に向けて星空を見上げた。
「だが、分からないという理由で立ち止まるわけにもいかない。」
「え?」玲那斗の言葉にイベリスは微かに声を漏らす。
「うちの総監の受け売りだよ。ハンガリーで行った演説でそういう趣旨のことを言ったんだ。知らない、分からない、知ろうとしない、見て見ないふりをする…そうした行いを止めて前に進むべき時代が訪れたんだって。」
「初めてお会いした時にも感じたのだけれど、ヴァレンティーノ総監は聡明な方ね。」
「そうだな。」
玲那斗は紅茶を一口飲み気持ちを落ち着けてから言った。
「イベリス、もしかすると今の問いの答えは結局最後まで分からないままかもしれない。どういう結末になるかは誰にもわからない。けど、俺達に出来る精一杯を持って一歩ずつ前に進んでいく歩みは止めたらいけないと思う。調査を進める中で何か分かるかもしれない。妙案が思いつくかもしれない。今回は同じチームに君もいる。とにかく、明日から俺達に出来る最善を尽くそう。」
イベリスは柔らかな微笑みで返事を返した。
「前を向いて歩き続けることが出来るのは今を生きる人々の特権ね。過去の存在である私にはその在り方がとても眩しいわ。」
「いいや、君もだよ。俺達と一緒により良い明日の為に頑張っている。」
「相変わらず貴方は優しいのね。…そういうのは私だけにしなさい。」語尾は微かに、聞こえるかどうかという声でイベリスは呟く。
「え?」今度は玲那斗が微かに声を漏らした。
「二度言わせないで。」
戸惑う玲那斗に向かってそう言った彼女の顔には、先程まで影を潜めていた明るさが戻っていた。
* * *
「おい、通報があったのはこの辺りだな。」
「そのはずだ。怪しい奴がいるって話だったが。」
市民の通報を受けた二人の警察官が夜道を巡回している。そこは昼間でも人気の少ない “裏通り” と呼ばれる場所だ。
しっかりと整備の行き届いた表通り、通称メインストリートとは違って旧時代的なレトロ感が残ったままの空間。
背の高い建物に囲まれ、圧迫感のある細長い路地が続く迷路が永遠と続くかのような錯覚を通る者に印象付ける。
街並みに光と影というものが存在するのであれば、この場所は間違いなく “影” と呼ばれる側の区画に該当するだろう。
「誰もいないぞ?悪戯だったんじゃないか?通報者は幼い女の子のようだったと言うしな。」一通り裏通りを見回った警察官が言う。
「それならそれで良いんだが。何か起きるよりはずっと良い。」
「それもそうか。」
怪しい人物の姿も無ければ、特に異変が無いことも確認した警察官が引き返そうとしたその時、近くの建物の陰からよたよたとした動きの何かが近付いてくるのが見えた。
それは顔を下に向けていて表情は分からない。薄暗い中、僅かに灯る街灯に照らされた姿からやせ細った男性のような姿が確認出来る。手にはなぜか鉄パイプが握られている。
「なんだあれは?酔っ払いか?随分足取りが悪いようだが。」
「おい、こんなところで何をしている。」
手に持った懐中電灯の光で細身の男らしき人物を照らし、警戒しながら近付いていったその時、顔を下に伏せていたよたよた歩きの “ソレ” は突如として走り出し、手に持っていた鉄パイプを振り上げて二人に襲い掛かってきた。
「貴様!何をする!やめろ、大人しくしろ!」
警察官の1人が素早くソレを羽交い絞めにして動きを抑える。
もう一人も加勢し取り押さえようとした次の瞬間、目の前で男を羽交い絞めにしていた警察官が突如として膝から崩れ落ちた。
加勢しようとしていた警察官が目をこらすとよたよた歩きのソレの後ろに1人、いや2人、3人とよたよた歩きをした生気のない表情をした男女のような何かがさらに近付いてきているのが見えた。
そのうちの1人が手に持った鉄パイプで同僚を殴ったらしい。
残された警官はとっさにセーフティーを外した銃を構えて応戦の構えをとる。
「止まれ!両手を頭の上に組んで地面に伏せろ!言うことを聞かないと撃つぞ!両手を上げろ!地面に伏せろ!」
しかし目の前から迫り来るソレが止まる様子はない。
「くそっ、どうなってやがる!」
意を決した警官が引金を引こうとした瞬間、後頭部に鈍い激痛が走る。
何が起きたのか確認する時間も知覚する間も与えられないまま、目の前で崩れ落ちた同僚と同じように残された警察官は勢いよく地面に倒れ込んだ。
すぐ背後には、鉄パイプを振り下ろしたばかりの別のよたよた歩きの女らしきものが立っていた。
警察官2人の周囲をよたよた歩きの “何か” が徐々に取り囲んでいく。
すると、どこからともなく1人の少女が姿を現し “ソレ” らに向かってゆっくり歩いて近付きながら言った。
「だぁめだめー!君達ぃ、それ以上叩いたら、めっ!だよ?」
頭から血を流して倒れる二人を目の前に冗談でも言うように少女は満面の笑顔を浮かべて言う。
「はぁい☆警察の皆さんこんばんは!って聞こえてないかー。そっかー、ざーんねーん。夜だから眠たくなっちゃったー?頭に刺激的な衝撃でも受けちゃったのかにゃー?」
鮮やかなプリズムピンクのツインテールと世にも珍しいアスターシューと呼ばれる紫色の瞳が特徴的な少女は、明らかにふざけた態度をとりながら倒れた警察官を嘲笑うかのように覗き込み見下ろした。
倒れた警察官に短いスカートの中が見えるか見えないかの際どい位置にわざと立ちながら少女は言う。
「でーもー。見つかっちゃったら面倒くさいしー?聞こえてない方が良いよねぇ。もしもーし?今上を見上げたら幼女の花園が見えちゃうぞー☆うん、聞こえてないない。」
1人で話して1人で納得し、倒れた警官の耳元で悪ふざけをした後は再び1人で頷く。
警官が完全に意識を失っていることを確認した少女はおもむろに両手を二回ほど叩いた。
すると周囲を取り囲んでいたよたよた歩きの生気のない男女らしきものは “まるで存在そのものが無かったかのように” 紫色の煙となって霧散し消えていく。
彼らが手に持っていた鉄パイプだけが地面に落ちて転がる音が響いた。
「証拠いんめーつ☆これでよしっと。それじゃ、お兄さんたち!もう用事は終わっちゃったし、私帰るから。風邪をひく前に優しい誰かに見つけてもらえると良いね。ばいばーい♡」
ウィンクをしながらピースサインをした手を目元に当て、弾けるような満面の笑顔でそう言い残した少女は暗闇の中に溶けるように消えていった。
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