しらんぷり

鯖虎

しらんぷり

 冬だというのに汗ばんだ体にシャツが張り付いて気持ち悪い。別に急ぎ足でもないのに、脂じみた嫌な汗が体中を覆い、呼吸が浅くなる。

 だってーー見られている。

 別に視線なんてのはないものだけれど、気配とか視線とか、そんな何かの感じがする。首筋を舐めるように生温かい何かが通り、寒気と鳥肌に包まれる。ただでさえ薄暗い曇り空で気が落ちるのに。

 何だろう。

 振り返れば良いのだけど、見てしまえばどうせなんでもないのだけど、もし嫌なものがいたらどうしようと考えてしまう。高校生、それも受験間近にもなって何を言ってるんだと思うけども。わけのわからないものに気を取られていないで、もはや慣れ切ったあの苦しみに身を浸さないといけない。

 わざわざ枯尾花なんて引用しなくても、世の中の怖いモノなんて皆気のせいだ。死んだ人間はただの肉で幽霊とかいうものはないし、妖怪なんて単なる出来事の説明だ。いわゆるモンスターなんてのは、怖いは怖いけどそれは狼や熊が怖いのと同じようなもので、別にこんな嫌な気持ちになるものじゃない。凶暴な人間や話の通じない人間はそれはそれは恐ろしいものだけど、邪気だの念だのは発しない。そんな変な、おかしな怖いモノは存在しないんだから大丈夫だ。

 だから、見ない。

 世界は主観で出来ている、と思う。石をひっくり返すと出てくる気持ち悪い虫も、石をひっくり返さなければ自分の中では存在しない。それならどんなに嫌な感じが、不気味な気配がしていても、見さえしなければ自分の世界に“それ”はない。いや、主観というなら確かに感じてはいるのだけれど、それでも認識をしなければそれはない。

 常識を持ち出せばそんなくだらないことを考えなくてもいいはずなのに、非常識と切って捨てるにはあまりに生々しい、ぬるりとした感覚がまとわりつく。

 俯向いて早足に、とにかく足元だけを見ながら歩く。それは道の歩き方としては危ないものだけど、怖いよりはいくらかマシだ。

 いきなり黒いモノが飛んできて頭に当たる。頭を払うと何かが落ちた。嫌だなと思って踵の近くに落ちたそれを見ると、あまり見たことのない黒光りする虫だった。ついそのまま目線を上げるとーーダメだ、と思い慌てて目を伏せる。

 後ろになんかいた。

 一瞬しか見なかったからよく分からないけど、それはなんだか全体的に赤い塊だった。

 いやーー

 いる訳無いだろ。気のせいだよ。

 ストレスで気がおかしくなってるんだ。最近勉強ばっかりで夜も遅いし、疲れも溜まってる。そう言えば物もよく落とすし、判断力も鈍ってる。この間は財布を家に忘れたし、気付いたらブツブツ独り言を言ってた。昨日なんかーー

 昨日の夜、自転車に乗ってて何かに乗り上げた。誰かの家の前だったかな。それで、なんとなく見るのが怖くてそのまま行ったんだった。あれはなんか轢いてたのかな。だったら嫌だな。それであれかな、轢いたのに戻らなかったからそれが怒って、血塗れの体引き摺ってずるずる追いかけて来て……

 いやいや。ある訳ないよ。そんなの。たしかに何か轢いたかも知れないけど、猫とか狸とかそんなんだよ。あんな時間に外に居て、自転車なんかに轢かれるのは。猫だよ猫、猫だ。あー、悪いことしちゃったな。なんか、どうしたら良いんだろう。お寺とか行けばいいのかな。ペット霊園、は違うよな。死体はないけど、お寺で手とか合わせたら気が楽になるかな。いつもそういうのあんまり気にならないけど、ストレス溜まって気持ちが参ってるんだきっと。手でも合わせて、気持ちに整理を付けたら元通りだよ。

 あのお寺はいつもそこそこ人が来るけど、今日はどうだろう、混んでるかな。そういえば今日は人通りが少ないというか、誰ともすれ違ってないな。校門を出た時は当然のように大勢居たけど、いつの間にか自分しか居なくなっている。

 何が、というわけでもないけれど、ねっとりとした気味の悪さがまとわりつく。虫の羽音に体がびくりと反応する。

 なんなんだーー

 動悸が早くなるのを感じ、どうにも焦点の合わない世界の中で自分の正気を疑う。

 人通りがないのなんてたまたまだろ。18歳で真っ昼間にオバケが怖いってなんだよ。いないんだよそんなの。振り向いたらいないんだ。振り向かないけど。気持ち悪いし、怖いし、生温い気配がずっとくっついてきてるけど。

 でも、今いるのはいつも通りの通学路に決まっている。

 目に見える景色はいつもと同じ。あの家の前のプランターに植わった枯れかけの花、錆びた止まれの標識、消えかけた道路の白線、潰れた駄菓子屋、ボロ屋にやたら新しい選挙ポスター。いつも通りいつも通り。小学生が描いたヘタクソな絵の交通安全ポスター。自転車のマナー向上? うるさいな。嫌味かよ。でもほら、いつも通りだ。ヤブの悪評が立っていつまでも壊れた看板を直せない歯医者の隣に昔何があったかもう分からない駐車場があって、その先は横道を挟んで古い民家。そこにはいつも通りボロボロのタオルやベビー服が干してあって、横道に立ったカーブミラーにはいつも通りーー

 赤。

 なんだよ、見ないからな、と思いながら目を伏せて横道を通り過ぎる。

 なんでそんな所にいるんだよ。なんで“そんなの”がいるんだよ。なんでいつもと違うんだよ。怖いよ。おかしいよ。おかしいって。何が。自分が?

 焦燥感が腹の奥から背中をなぞり、手汗が滲み出る。顔が火照っているのに、体は脂汗が冷えて寒い。

 狂気なんていつ来たって困るけど、今か。まだ社会に居場所なんてない、もう1年もせずになくなる場所しか持ってないのに、一体誰が自分の価値を認めて守ってくれるのか。私には、私のすることには、私の生み出すものには価値がありますと証を立てるものが何もないのに。どうにかして何かにならないといけないのに、そんなのは困る。将来の不安なんてぬるい言葉には収まらない。誰にも価値を見出されず、この不気味で怖い主観の中で、死んでしまうまで延々と。本当はいないはずの“それ”の気配に怯え、身の回りの全ての隙間から“それ”の視線を感じ、全ての物音と温度から“それ”の動きを感じながら。きっと自分の周りのあらゆる隙間を目張りしながら。

 それは、怖い。そんなことはあってはいけない。それは否定しないといけない。でも、それを否定した先に見えるものは、もっとずっと怖いかも知れない。だって狂ってないならこの気配はーー

 誰か正気を保証してくれと心の中で哀願しても、周りにいるのは後ろのそれだけ。仕方がないから、どうしようもないから、自分で自分の正気を保証するしかない。自分の主観の中で正気と思えば、どんな時でも自分は正常だ。例え赤くてぬるぬるとしたこわいものが微かな音と熱気を発していたとしても。いや、それは否定しないといけない。そんなものはこの主観の中には絶対にいない。自分の中ではそんな気持ちの悪いものはいないし、自転車は大きめの石か何かを乗り越えただけで何も轢いてはいない。自分の中ではそれで完結しているし、それで誰も困らない。

 ひたすら視線を足元に固定して早足で歩き続ける。ぴちゃりとも、ぬちゅりとも言えない気持ち悪い音が後ろから聞こえる。冷や汗で湿った首筋を生温い空気の流れが撫で、首から背中まで鳥肌がぶわっと立つ。開いた毛穴の全てから嫌などろどろが流れ込んでくる気がする。そしてそれは多分正気を運ぶ血液とゆっくりゆっくり入れ替わって、嫌な気持ちで体の中を満たしていく。体に変な力が入っているせいで、何度か躓いて転びそうになる。

 いない、いない、きっと何もいない。いないいないばぁ、なんて冗談にもならない。でも冗談の1つも言わないと本当におかしくなりそうだ。そうだ、自分はきっとギリギリなんだろう。化け物、幽霊、そんなものはいるはずないけど、そういうものがいる気になることはあるだろ。今日は過去問はやめておいて、軽く復習だけしたらゆっくり紅茶でも飲みながら読みかけの小説を読み終わらせよう。なんだかカレーが食べたい気もするから、母さんに頼んでみようかな。確か今日は休みだったと思うし。それで熱い風呂に入って早めに寝れば、明日は絶対いつも通りだ。

 視線を落としたまま、信号もろくに見ずに横断歩道を渡る。黒白黒白と目まぐるしく色が変わり、少し気分が悪くなる。嫌だな、と思った瞬間に、首筋に生温かい液体がかかり、悪寒が走った。あまりの直接的な刺激に、思わず立ち止まって後ろを向く。振り向いてから後悔と恐怖に襲われたけども、そこには普段の通学路があるだけで、何も変わった所はなかった。ただ、降り出した雨が首筋に当たっただけだ。

 なんだーー

 何もいないじゃないかーー

 安心感に包まれて、体から力が抜ける。早く帰ろうと思った所で、甲高いクラクションの音が鼓膜に突き刺さる。驚いて振り返ると、轟音と風圧に気圧される。わけも分からずに目で追うと、それは大型のトラックだった。ふ、と目線を元の位置に戻すと、何かに轢かれたように顔が半分潰れた血塗れの赤ん坊がこちらを指差し、だぁ、ばぁ、と意味の分からない音を発して笑っていた。

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