第30話 花は咲いた

もしも、撫川がこの事件の犯人だとしたらその時はどうする。

隠し遂せるものなら、このナイフは隠蔽するのも厭わない。

それでも逃げられなければ、その時は…二人で逃げよう。

それでも追い詰められたらどうする。

そのときは…その時は…。


二人で死ぬか。


撫川の返答を待っている僅かな間に、久我はそこまで考えた。

まるで明滅する裸電球のようにチカチカと現実味のない考えが頭の中で錯綜した。

だが、答えは出ていた。

例えどんなことがあっても、自分だけは撫川の側に立とう。例え全てを敵に回しても。

少し前まで、久我は本心と本分と二つの心に揺れていた。

だが今は、自分の中には一つの道だけがはっきり見えていた。

最も尊く最も愚かな一本道が。


「…そのナイフは、ひくっ、ナイフは…っ、ひくっ。兄が自殺したナイフ…、、っ、」


しゃくり上げながら辿々しく話す撫川を久我は険しい表情で見つめた。


「何でそんなもの、持ってるんだ?」

「形見で、お守り、、っ、警察から随分、経ってから…っ、返されて、それでずっと、持ってた」


撫川はこのナイフを枕の下にずっと入れていた。誰かを傷つけるためではなく、自分に刃を向けるために。

いつか死ねるかもしれない。兄の所に行けるかもしれない。そう思って肌身離さず持っていた。


そんな様子の撫川を目の前にして腹を括った久我が撫川の前に跪ずいた。


「いいか、撫川。オレはこの先、何があってもお前の味方になる。もし、お前が殺人鬼だとしても、警察に反いてでも俺はお前を守る。だから俺を信じろ。俺にだけは嘘をつくな」


久我はそこで一呼吸置いた。そして気持ちを整えてから撫川に尋ねた。


「…お前、人を殺したか」

「え…、ある訳ないよ、そんなの!刺青殺人のことを言ってるの?」


即答だった。

信じられないと言う顔をして、濡れた眼差しが動揺してはいても、真っ直ぐに久我の目を見てくる。


「そうだよな、分かってる。すまん。もう二度と聞かない。悪かった」


撫川のその言葉が信じられた。

惹かれているからだけじゃ無い。

彼の歩んだ道を共に歩いた自分だからそれが分かる気がした。


「久我さん…、僕はいつも貴方に嫌な思いをさせる。この前だって、貴方は悪く無かった…。なのに何で僕の味方になってくれるの?」


その答えは多分、撫川も分かっている筈だった。でも、彼の口から聞きたかったのだ。

その言葉を。

欲情に駆られたあの夜では無く、今聞きたいと思った。


久我は突然の直球質問に焦ったが、ここで誤魔化すような返答はしてはダメだという事ぐらいは分かる。

久我は撫川の両手を握りしめ一途な眼差しを撫川に向けた。

暫しの時間を要して後、ようやく久我はずっと抱えていた自分の気持ちを言葉に変えた。


「…好きだ」


たった一言。

告白など苦手な久我が精一杯振り絞った一言だった。

ロマンチックなシチュエーションでは無かったが、撫川の胸中が静かに熱く沸騰していた。

初めて好きな人から好きだと言われた。言葉では言い尽くせない幸せが、涙となってポロポロと頬を転がり落ちた。

こんな時、どんな顔をすれば良いのか分からない久我は、こんなに美しい瞬間の撫川を見逃していた。

気恥ずかしさに俯く久我の首を撫川が抱きしめた。


「僕も…貴方が好き」


その瞬間、その体温と共に撫川が花のように香った。


自然と求め合う唇が深く重なり、夢中で互いを確かめ合った。

甘い吐息を貪りながら抱き合うと二人、高鳴る鼓動を感じた。

心も身体も欲しくて欲しくて堪らなかった。

久我がシャツの下の素肌を弄ると、息を乱した撫川がその手を止めた。


「…だめ。待って、久我さん」


そう言って止めても、一旦火のついた久我は容易に止まれない。

撫川の手を払い除けると尚も撫川を求めてくる。


「久我さん、待って…待って、お願い!今は嫌だ…!身体、綺麗にしたい…!」


さっきまで浅野に好きにされた身体には、浅野の唾液がベッタリと張り付き、下半身には己が乱れた痕跡が残っていた。

こんな穢れた身体を久我に捧げたくはなかった。

撫川は渾身の力で久我を押しとどめていた。


「…う、っく…ぅ、」


必死に抵抗されて久我のなけ無しの理性で踏みとどまった。

奥歯をギリギリと思い切り噛み締めながら、撫川を抱きしめたまま声をくぐもらせた。


「…何かあったからか…?こんな格好で走って来たって事は、誰かに襲われたのか?俺に…話せるか?」


撫川はコクコクと頷いた。

二人とも湧き上がる欲情を抑え込むのに息も絶え絶えだった。暫くきつく抱き合う事でそれを何とかやり過ごす。


「クラブで僕をナンパした人、覚えてる?」

「忘れもしないよ。あの時は悔しかったからな。そいつにやられたのか」

「あの人、彫り師で…、鳳の…兄の知り合いだった。兄の事を知りたくて…馬鹿な選択をした。その割には大した事が聞けなかったけど。……途中で久我さんのこと思い出して最後まで出来ずに逃げて来た。本当にバカだった。…でも、なんか変なんだ。わざわざ正体隠して僕に近付いたり…。あの人本当は何がしたいんだろう」

「撫川。お前にオレも隠し事はしない。今オレは鳳を洗うように言われてる。剥がされた刺青はいずれも君の兄さんの彫った刺青だった。そしてその時の凶器がお前の持っているような整形手術用のナイフだったんだ。警察はそこら辺に何か繋がるものは無いかと探ってる」

「僕が知ってるのは養護施設にいた頃と、十六歳から二十歳までの四年間の兄の事だけだよ、でもあの浅野という人はそれ以前の兄を知ってた。それにあのナイフ、あんなものでどうして首を切ったのか不思議だった。あんなナイフ一緒に暮らしていたのに見た事なかったし、普通のサバイバルナイフとか包丁とかの方が手に入れ安いのに…だから他殺じゃ無いかと疑ったりもしたけど警察は取り合ってもくれなかった」


久我は何かを頻りに考えているようだったが、やがて抱きしめていた腕を解いて撫川を見た。


「なあ、撫川。…オレの家に来い。こんな事があると一人にしておくのは不安だ」







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