第29話 手の中のナイフ

好奇心が勝った。

この男と兄との間に何があったのか知りたかった。

このチャンスを逃せば浅野は何も話てはくれないかもしれない。撫川なりに、兄を追い詰めたのが本当に自分なのかずっと知りたかった。何か一つでも分かったらと言う気持ちだったのかも知れない。


「君は鳳くんの本当の弟?それとも…弟と言う名の恋人?」


浅野が撫川の耳を嬲りながら囁いた。


「…僕の方が知りたい。弟で…恋人だったのかな……僕には分からない」


それは本当のことだ。撫川が血の繋がった兄弟だと分かったのは、鳳が死んだ後のこと。

遺品の中からDNA鑑定を受けた書類が出て来たのだ。

もしも、ずっと前からそれが分かっていたとしても、撫川は兄を一人の男として愛しただろう。

兄が弟と知っても自分を愛してくれたように。


…いや、そうだろうか。


兄はそれを知っていたから苦しんだ。そうでは無かったのか。

貴方を愛していると言った二日後、兄は死んだのだ。


「…あっ!」


突然、浅野の指が胸の飾りに触れて腰が跳ね上がる。


「兄とは…っ、兄とはただの友達?それとも……んっん、」


そこを執拗に捏ね回されて息が乱れ、思わず耐えるように指を噛んだ。


「…ボクが知りたい。ボクのこと彼はどう思っていたのかをね。告白する前に彼はボクの前から姿を消してしまった」

「肩の…、牡丹は…」

「鳳くんの処女作だよ。半年かけてたった一輪。でも、彼は君の身体には刺青を彫ら無かった。何故?」


ーー何故。


誰にも言えないことがある。

それは兄との約束事。


「…はっ、ン…っ、」


股座に手が差し込まれ、浅ましくも期待してソレが勃上がる。


「鳳くんは君を抱いたのかい?こんな風に、欲望を滾らせて?」

「あぁ…っ…はっ、は…あぁ…」


握られて揺すられる。こうやって自分は誰の手にだって感じる。最低だと思うのに、勝手に強請るように腰が揺れた。

手を取られ、浅野の猛りに導かれた。兄のでも無く、鹿島のものとも違う。誰とも違うカタチ。触れた事のない手触り。それは撫川の手の中でみるみる質量を増した。

後ろの孔に何かのゼリーが押し込まれ、馴らすように指二本で抽送されると、そこから先は乱れて何も聞けず、何も答えらず、快楽に翻弄された。


ああでも、こんなんじゃ無い!

こんな快楽が欲しいわけじゃ無い。もっと何か違う、何か…。


不意に今まで情事の時に感じた事のない寂寞と罪悪感に襲われる。

「撫川」と誰かの声が聞こえ、脳裏を久我の顔が一瞬掠めた。

自分を好きにしている男に対して言い知れぬ嫌悪が撫川の身体と意識を駆け巡り、激しい拒絶反応が沸き起こった。


「ヤダ…っ、嫌だ…!」


抵抗すると腰に伸し掛かられ、シャツの胸元を力任せに左右に暴かれそうになる。


シュッ!


撫川がブルゾンのポケットから取り出した何かからハンカチが滑り落ちた。

見るとその手には鋭いナイフが光っている。撫川はそれを己の首に当てがった。


「それ以上何かしたらここで死んでやるから!」


それは本気の目だった。

浅野は動きを止めて、その細いナイフに視線が吸い寄せられた。


「ーーこのナイフは…!」


浅野が怯んだ隙を突いて、撫川は奴の股間を蹴り上げる。


「うっ、ぐ…!」



蹲る浅野の下から素早く抜け出すと、下半身も露わな姿で外へと飛び出した。


「…っ待てよ!」


慌てて追いかけようとしたが既に遅い。浅野は閉まるドアを見つめながら這いつくばっていた。


「あのナイフは…あれは…」





撫川が知らないマンションを飛び出すと、そこは見慣れた街の風景だった。

いつか貰った名刺に記されていた通り、花屋とは目と鼻の先のマンションだった。

フラつきながらも逃げるように花屋までを走った。尻は辛うじて隠れはしているものの、下半身裸の男が人通りが少ないとは言え真っ昼間の公道を走る姿は一種異様な光景だったに違いない。

撫川は浅野が追って来るのではと後ろを気にしながら走っていたが、前を向いた瞬間何か硬い壁のようなものに激突し、尻餅をついた。


「わうっ!!」


「!!…すみません、大丈夫です…か…え?…撫川…?」


聞き覚えのある声に驚いて撫川は顔を上げた。

そこに立っていたのは久我だった。


「久我さん…」

「撫川!大丈夫…」


久我は撫川を起こそうと手を差し伸べたが、そのありえない姿に一瞬、固まってしまった。

慌てて撫川は捲れ上がったシャツの裾で前を隠して素早く立ち上がる。


「どうしたんだ…!その格好は!」


久我は驚きながらも人目から撫川を庇うようにその身体を抱いて道路に背を向けた。


「…久我さん、なんでここにいるんだよ!なんで、なんでこんな…こんなタイミングで…!うぅっ、うわあぁぁぁ!」


撫川は突然声をあげて泣き出した。それは安堵と、後ろめたさと、緊張が解けた感情の咆哮だった。

その胸に縋り付くように久我の腕の中で号泣する撫川に、困ったのは久我だった。

訳分からなかったが、取り敢えず宥める手つきで背中をあやしながらも一刻も早く隠れたいと思った。これでは変質者で二人とも通報されかねない。

抱き合ったまま、店の裏口まで急いでコソコソ移動すると、幸いにも撫川がブルゾンのポケットに裏口の鍵を持っていた。

中に入ると花は無く、店内もがらんとしていたが、まだ花の香りは残っている。

撫川を椅子に座らせ、震えて強ばる手に何か光るものが握られているのが分かる。


「こんなものまで振り回したのか?いったい何があったんだ……大丈夫。もう大丈夫だから手を離せ」


そう言うと、撫川が握っていたナイフをゆっくりとその指から引き離した。


なんだ?このナイフ、特殊な形だ。ああ、これ見たことがあるぞ?たしか、これは…これは。


整形手術用のナイフ?!


刺青を剥いだ犯人が使っていたナイフ。そのサンプルとして資料に添付されていたのが、この形に良く似たナイフだった。


恐る恐る撫川を見ると、身体を震わせながらまだしゃくり上げて泣いていた。

まるで子供のように。


「…撫川、このナイフ…どうした…」


久我は別の意味でナイフを持つ手が震えていた。


まさか…まさかな…。

そんな馬鹿な…!










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