第18話 冬の蛍
こうして赤ん坊は警察に届けられ、健康診断を受けると生後二ヶ月ほどであることが分かった。
赤ん坊の状態から置き去りにされてから然程時間が経過していないこともあって、すぐに施設の付近はくまなく捜索されたが赤ん坊の母親は見つからなかった。
その年のクリスマスはこの新しく来た幼い兄弟にみんな夢中になっていた。
赤ん坊はその顔立ちから見て女の子かと思われたが、皆の意に反して少し身体の小さめの男の子だった。
こんなハプニングがあってもクリスマス会は予定通り行われ、明かりを消した部屋でクリスマスツリーと赤ん坊を囲んで皆で写真を撮った。
ツリーを飾る沢山の豆電球がチカチカと明滅する中で、五歳になる女の子が赤ん坊をしげしげと覗き込んで言ったのだった。
「クリスマスツリーの蛍みたいにキラキラお目々が可愛いね」
あの沢山の豆電球が幼な子には蛍の明滅に見えたのだろうか。
名前のない赤ん坊はこの時からみんなにホタルちゃんと呼ばれる様になったのだった。
誕生日はクリスマスから遡って二ヶ月前の十月二十四日になり、苗字は施設の名前である楠木養護園から取って楠木となった。そしてその名前は蛍と書いてケイとして登記されたのだった。
そのまま蛍はこの児童養護施設預かりとなり、十歳で幸運にも撫川夫妻の養子となって、撫川蛍として、この施設から出て行ったのだった。
その時からもう十六年が経過していた。
「ところで…ホタルちゃんは、元気なんですか?」
一頻り昔話をした後、田村が心配そうな顔をした。
「…はい、」
それ以外久我はなんと言えばいいのだろう。
すかさず湯川が聞いて来た。
「ホタルちゃんは…、何か悪い
ことをしたんですか?」
それはもっともな心配だった。
こうして訳ありげに警察が調べに来ているのだから。
久我はマニュアル通りの当たり障りのない返答をした。
「いえ、ある事件に巻き込まれて形式的に調べているだけですから」
世間を賑わせている刺青殺人事件に関わっているかもしれないなどとはとても言えない。職務的にもだが、道義的にもそんな事は言えなかった。
久我は話の矛先を変えた。
「他に、撫川さんの話を聞けそうな人はいませんか」
「そうねえ、悠也君とは…もう疎遠でしょうしねぇ…」
考え込む湯川の口から急に自分と同じ名前が飛び出して久我は驚いた。
「…悠也君、とは…?」
久我は身を乗り出した。
「あ、ええこの子ですよ。ホタルちゃんのお兄ちゃんで……ぁ、」
写真を指差しながら
話をし始めて湯川はすぐにまずい事を言ったと不自然に言葉を途切れさせた。
田村を見ると、話すなとばかりに顰めっ面が微かに首を横に振って湯川を睨んだ。
久我はそれを見逃さなかった。
「お兄ちゃんって、撫川さんは一人で置き去りにされていたんじゃ無いんですか?」
「あのっ、これはもうずいぶん昔の話ですからね?」
田村は不自然な前置きを入れた。
「……この、ホタルちゃんと良く一緒に写ってる男の子が
写真を見ればどれもこれも、撫川はこの悠也くんの隣で楽しそうに笑っている。
「彼がここに預けられたのは十歳でした。よくある話でね、父親の後妻と反りが合わなくて預けられて来たのですが、いつの頃からか、ホタルちゃんをの事を自分の弟だと言い出しましてね、最初は兄弟が欲しくてそんな事を言うんだと思っていたんですが…」
言い淀む田村を差し置いて湯川がしゃしゃり出た。
「あの、シュシュって分かります?あの、こう言う髪を束ねる物というか…」
湯川はポケットから苺柄のプリントされたそれをポケットから取り出して久我に見せた。こういう物をよく知らない久我でもそれは見たことがあった。
「ホタルちゃんが拾われた時に腕に花柄のシュシュが嵌めてあったんですけど、悠也くんがそれを見て弟だって言い出したんです」
「え?だってそんなの何処にだって同じようなの売ってますよね?」
「最初はみんなでそう言ったんですが、継母がその柄と同じワンピースを着ていたと…。その布でシュシュを作っているのを見たと言うんです」
「それで…どうなりましたか…っ、まさか本当に」
久我は先を急いで椅子から腰が浮き上がる。
「分かりません」
「ええっ?調べなかったんですか?!」
「…はい」
「何故ですか!調べたら本当の兄弟だと分かったかもしれないのに!」
久我の荒げた言葉は相手を非難しているようにも聞こえた。
「分かった所で何になると言うんですか!」
穏やかだった田村の口調も荒くなった。
「兄弟揃って引き取ってくれるんなら良いですよ?大概は子供一人を希望されます。そして幼いほど引き取り手が見つかる確率が高いです。ホタルちゃんにとって、可哀想だが兄がいる事が妨げになると我々は考えたんです!
だから、十歳の子供に口を噤ませたんですよ!お前に兄弟はいないんだと…」
「お兄たん、待って待ってお兄たん」
「ダメだ!俺はお前のお兄ちゃんじゃ無いんだからお兄たんなんて呼ぶな。分かったか?ホタル」
「うん、分かったお兄たん」
「うん、分かったよ。分かったよ。兄さん」
夕暮れの花屋の作業場で、椅子に座った撫川が、自分の発した言葉で、はっと短いうたた寝から意識を取り戻した。
幼い自分と兄の夢を見た。
顔を上げると、作業場の狭い窓から冬のトロ火のような残照が爛れたように窓から低く差し込んでいる。
ああ、夢か…。
「…ーません、」
「おのぉー、すみません!」
客の声で撫川はようやくぼんやりした頭を覚醒させた。
「ああ、すみません!ぼんやりしてました!」
椅子から飛び上がり、慌ててカーテンの影から店へと飛び出した。
「おのぉ、このガーベラで花束を作って貰えますか?」
「は、はいっ、いらっしゃいませ!何色のガーベラに致しましょうか」
皮ジャンを着た厳つい男が可愛らしいガーベラを指差しながら撫川を見て、驚いた顔をした。
「あれえ?君か!ははっ!偶然だね!」
そう言う男から、微かに刺青の匂いを撫川は感じた。
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