今日は執事の誕生日。恐悦至極にございます。

九里 睦

短編:本文


 人の心なんて難解なものはない、そう思った。


 大きな声を上げられた、眼前の少女の様子を伺う。

 眉に力が入っています。普段は凛として優しげな目も釣り上がっていて、ナイフのようです。怒りの感情。それしかわからない。


「私がなんで怒ってるのかわからないみたいね!」


 お嬢様は……セナ様は長髪を乱暴に翻し、駆け出していく。追いかけなくてはならない気がしました。


 ですが、足が動きません。

 今追いかけたところで、何もわからないままの私に、セナ様はさらに憤りなさるでしょうから。


 なぜセナ様がお怒りになられたのか、本当にわからないのです。熟考しましたが、私には、わかりません。


 質素な作りの自室に備えられた身支度のための姿見を見る。

 そこには、全てを見られていたつもりでいた目が、情けなく、驚愕の色をしてありました。


 ことの始めは、セナ様が私の誕生日を祝おうとしてくださったことにあると思います。


 従僕以外が動くには珍しいほどの早朝、私の部屋にいらっしゃったセナ様は、

「今日は貴方の誕生日だそうね。いつも働いてくれている労いよ、何か欲しいものを言いなさい」

 と仰られました。


 こんな朝早くにご起床なさってまで従僕に対し、感謝の意を表されるセナ様は、とてもご立派に成長なさっているようで、私は嬉しく思いました。それだけで、私には十分でした。


 なので、

「お暇も、お給金も十分に頂いております。これ以上は戴くわけにはいきません」

 とお断りを申させていただきました。


「それはお父様からでしょう。私からも、何か贈らせてちょうだい」


 セナ様は尚もそう仰られました。

 これ以上、固辞するのは失礼に当たると考え、私は、

「ありがたき幸せですお嬢様。付きましては……僭越ながら、他の従者たちにもこのように一言だけでもよろしいのです、労いの言葉を掛けていただけないでしょうか。彼らも喜ぶことでしょう」

 と応えしました。


「違うのよ。貴方の誕生日なのよ?」


 思えば、この辺りでセナ様は憤りなされていたのかもしれません。声が、いつもよりも低いものだったような気がします。


「私にはお嬢様からも、十分に戴きましたとも。こんな朝早くに、わざわざ、ありがたいことでございます」


 そうです。従僕たる私には、主人らの感謝、これ以上の褒美は無いのです。


 そう伝えたと思ったのですが、

「貴方、私の労いは受け取れないっていうの!?」

 セナ様は、大声をあげられました。


 そして私は、その場に突っ立つ間抜けな目をした木偶の坊に成り下がったのでした。


 なぜなのでしょうか。

 昼過ぎごろまで、手では普段の仕事を行いながらも頭ではずっとそのことを考えてしまいました。

 そんなことでは、銀の器を磨く手も鈍ってしまい、メイド長には、

「珍しい。どうしましたか? 今日は曇っている食器がありますが……体調を悪くされましたの?」

 とあらぬ心配をさせてしまい、申し訳なく思っています。


 このメイド長のすすめもあり、ご主人様たちのお食事が済まされた後、私は少し早めの昼休憩を戴くことになりました。


 皆が働いている中、一人食事をするのは憚られる、自室で食事を摂ることにしましょう。

 このままでは大きなミスを冒しかねません。ですが、主人の心の安寧を損ねることも、また同様にあってはなりません。


 なかなか食事に手がつけられませんでした。


 スープに湯気が立たなくなった頃、扉がノックされました。


「どうぞ」


 私の部屋を訪れたのは、お嬢様でした。


「お嬢様!? 今朝は申し訳ありませんでした」


 お嬢様は思い詰めた様子でいらっしゃいました。


「お嬢様……?」


 顔を上げたお嬢様は、今にも泣き出してしまいそうな表情をしています。


「セバス、私の方こそ申し訳ないことをしたわ」

「そんな、お嬢様、悪いのは私でございます! お嬢様のお気持ちを計れず、無神経なことを口走ったようでございます」


 お嬢様は首を横に、何度も振りました。お嬢様の艶やかな髪が、それに少し遅れて付いてゆきます。


「違うのよセバス。私、お父様とお母様に叱られたわ。貴方の家はこの家に代々支えているのよね」

「……はい、私で三代目でございます」

「その家では、従者としてどうあるべきか、幼い頃から教育されるのよね?」

「はい、お嬢様をはじめとするご主人様たちに不都合、不便のないように様々を叩き込んできたつもりでございました」


 本日、教えに反き、お嬢様のお心を乱してしまいましたが……。

 所詮、私はまだ若輩者の未熟--


「『主人の喜びが従者の喜び、主人の悲しみは従者の悲しみ』」

「……ありきたりですが、我が家の家訓にございます」

「ありきたりでも、貴方のように徹底できれば、これ以上のない、素晴らしい家訓よ」

「あ、ありがたき幸せにございます、お嬢様」

「そんな最高の従者の貴方に、あんなことを言って、勝手に怒った私が悪かったのよ。貴方は本当に、十分だと思ってくれていたのね」

「はい。言葉にするには不遜にございますが、例えるならば、恐悦至極にございました」

「そう。貴方は本物の『従者』なのね」


 そして、お嬢様はいつもの、きりりとした表情に戻られました。先を見据えられる、素晴らしい目をしていらっしゃいます。


「決めたわ、私。セバス、貴方、私を名前で呼びなさい」

「お、お嬢様、それは!?」

「セナよ。そう呼びなさい」


 主人を、名前で呼ぶ。それはその方の専属になることを表します。

 そして専属となり、その方のお傍で右腕とも称される仕事を任される……このことは、従者の世界では、爵位を賜ることも同義にございます。

 私の祖父が成しえ、三代の間この家に仕えることを許された、偉業といえること。


 それを、私が。


「私で、よろしいのでしょうか……?」

「何? 今日ずっと考えて、貴方にはこれ以上ない誕生日プレゼントだと思ったのだけれど。お陰でメイド長に勉強に身が入ってないって怒られたわ」

「…………恐悦至極にございます。喜んで、務めさせていただきます、セナ様」

「ふふっ、よろしい。これから……いえ、これからもよろしくね、セバス」

「はい!」

「……因みにだけど、貴方の居場所を教えてくれたのもメイド長よ」


 ……あのメイド長には頭が上がらなくなるかも知れませんね。


「あ、セバス、あと一つだけ」

「なんでございましょうか?」

「また、こうやって喧嘩しましょう?」


 お嬢様はそう言って笑みを浮かべられました。


「人の心って、難解でしょう? でも、それって当たり前よね。私と貴方の生まれた場所、育った環境、全てが違うのだもの。今日みたいに、すれ違うことだって、幾らでもあると思うの。だからぶつかって、その度に分かり合っていきましょう。そうすれば、今の私たちみたいに、もっと信頼して、いい関係を築けると思うのよね」

「……そうにございますね。偶には、こうやってぶつかることも、必要にございますね……」

「うん!」


 お嬢様が、花の咲くような笑みを浮かべていらっしゃる。それが嬉しくて、私にも、笑顔があふれてきました。


「ですがお嬢様。なんでもかんでも力技というわけにはいきませんことよ、悪しからず」

「「メイド長!!」」


 齢五十を超えるメイド長が、密やかに伝わる、「大ボス」の名にそぐう仁王立ちで、そこに立っていました。


 驚いた私たちは顔を見合わせて


 次いで声を揃えて、笑い合いました。



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今日は執事の誕生日。恐悦至極にございます。 九里 睦 @mutumi5211R

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