メイド・イン・男
真楽実弦
メイド・イン・男
若い執事、ヴィルヘルムは機嫌が悪かった。
孤児だった彼を使用人として家に迎えてくれた貴族夫妻。失敗ばかりの未熟な子供を捨て置かず、十年以上も雇ってくれた恩義ある夫妻が急死した。使用人一同、遺された幼い娘をこれから支えていく決心した矢先、遺言書により顔も知らない長男が当主になった。それだけなら良かったのだが。
今まで農家の家に預けられていたという長男だったが、家へ戻ってくれば金遣いは荒く、毎日のように宴会を開いた。同時に、ヴィルヘルムたち使用人は、毎日のようにらんちき騒ぎの後始末に追われた。
今日もまたパーティーの日であったが、今回は帝都で主催されたパーティーに参加するらしいと彼は聞いていた。どうして曖昧なのかといえば、招待状の存在をつい昨日に若当主から聞いたばかりであって──
「どうしてこう次から次へと……。例え皇帝だろうが女帝だろうが許されんぞ……」
「あ、帝都に行くついでに色々と質にいれよ。ドレスとか宝石とか、まとめておいて」
……はずみで、思わずお気に入りの万年筆を折ってしまった事も不機嫌に拍車をかけた。
それでも何とか荷物を揃え、帝都行きの汽車を確保し、聞かされたパーティー開始時刻に何とか間に合わせた。しかし──
「……さて、どういう事態なのか説明を求めます。ミラ・ベル」
表情には出さないが、その語気に怒りが込められているのは明白だった。メイドのミラは彼の前で呆然として、路上にも関わらず膝をついていた。歳は近い二人だが、財産管理や使用人の人事まで任されているヴィルヘルムの方が圧倒的に力があった。
汽車からの荷下ろしの最中、少し目を離した隙に若当主の姿は無く、メイドもおらず、まさかと思ってパーティー会場に急いでみれば、若はおらずメイドは涙目、ひどい有り様であった。
「黙っていても仕様がありませんよ。怒りませんから、ほら」
「……本当に?」
「本当」
「減給もない?」
「クビにはするかも」
ミラはうつむき、逡巡し、
「減給で済ませてくれるなら……」と妥協の末に口を開いた。
「皆さんが荷下ろししている時、ご主人様がが何処かに行くのが見えて、追いかけて一緒にいたんですけど……。招待状が、ありましたよね?」
「私は見せて貰えませんでしたけどね」
「そ、その宛名が……その」
ミラは恐る恐る一通の封筒をヴィルヘルムに差し出した。それを引ったくるような勢いで取り、宛名を見ると
『シャルロット・ガーフィール』と女性名
「これ……お嬢様の名前じゃ……」
訳が分からず黙り、数秒の後、ハッとして気づいた。
「つまり、
「はい。それで受付の人と揉めちゃって、その──」
もう聞くのが嫌になってきたが聞かない訳にはいかない。胃がキリキリしているのが手に取る様に分かる。
「それであのバ、いや、若はどちらへ?」
「あの……はずみで招待状が飛んじゃって……探すのに必死で……」
「方向くらいは見ていたでしょう?」
「えっと、たしか『帰る』って言って駅の方に……」
まさか、と危惧するよりも早く、やって来た方角から汽車の警笛が聞こえてきた。
「バカ……」
力無い声は誰かに届く事もなく、宵の空へ虚しく消えていった。
肩と腰が痛い──
まだ二十歳も迎えていないというのに、肩が重くて腰はガタガタする。心労とはここまで体を蝕むのか、とヴィルヘルミナは自分がまるで一瞬の内に老け込んだような感覚を味わっていた。もはや怒る元気も尽きていた。
「……さて、私は受付まで行って詫びてきます。顔が分からないから一緒に来なさい」
「わ、私も!?」
「いいから、来なさい」
しゃがれた老爺の様な声がしわくちゃな怒気を纏って聞こえた。覇気の無く、もの静かな声音でも人を震え上がらせる事は出来た。
果てが見えない程長い石塀に空いた門には、長く並んだ貴族富豪の列と、その受付をする女中たちの姿があった。
「どうです、受付にいましたか」
「ん〜。いや、いないです。私が見たのはもっと、ドレスを着て偉そうな人でした」
「それは多分偉そうなんじゃなくて偉いですよ。それなら待つしかあり」
「それなら私が探してきます!」
「えっ、ちょっと待っ」
止める間もなくメイドは走り、風の様に行ってしまった。呆れ気味に溜め息をつき、
「元気なのはいいんですが、あの迂闊さは何とかなら──」
「見つけました!こっちです」
なんて一息つく暇もなく、ミラはたちまち戻って来た。若いっていいな、と同い年の少女にそんな感情を抱いた。ミラが先導して、二人は石塀に沿って走り、何も無い所で突然止まった。そこから、ヒールの高い靴にも関わらず器用に塀をよじ登る。ヴィルヘルムもそれにつづくと、広い庭園の中で月明かりに照らされる人影を真下に見た。見たところ令嬢のように見える。
「あれですか」
「あれです」
件の女性は数人のメイドを侍らせ、小川に架かる橋を渡っている。庭と月と当人の美しさが相まって、現に素晴らしい景色だった。
「しかし、見つけたはいいとして、これじゃ謝罪も何も犯罪者ですよ」
「えっ!だって見つけてこいって言うから〜」
「言ってませんよ!?」
「誰かいるの!?」
声で気づかれてしまったのか、二人は急いで頭を下げて身を隠した。
「どうかいたしましたか?」
「今そこに誰か……。気のせいかしら」
慎重に首をもたげて見ると、令嬢らしき女は周囲を見渡し、声の出所を探しているようだが、まさか真上だとは思わなかったらしい。
「お客様は真っ直ぐ本館に向かいますから、相当不躾な方でなければ、ここに来る事はありませんよ」
メイドがそう宥めると、渋々といった風に女も落ち着いた。
「そういえば、不躾といえば、さっきの男」
またメイドの一人が口を開いた。さっきの男と聞いて、まさか自分の主人では、とヴィルヘルムの中で疑念が沸いた。
「『参加は使用人含めて女性のみ』って読めなかったのかしら……。一緒にいたメイドも慌てるばっかりで役に立たないし」
疑念が現実となったが、今さら何を言うでもなかった。
「だからこそ私は、御身自ら出迎えるべきではないと反対したのです。あぁいった手合の者を近づけては、御身の品位にも──」
「分かってる。気をつけるわ」
女は些かぶっきらぼうに応えた。メイドたちは特に気にするでもなく、話を続けた。
「あの名字、たしか地方の小貴族のものでした。先の時代には交流があったようで、幾らか金も貸していました覚えがあります」
「しかし現当主があのザマでは、貸した金も今すぐ回収した方がいいでしょうね」
冗談ではない──、と思わず声を張り上げそうになった。ヴィルヘルムは急いで降りるようミラに言うと、駆け足でその場を離れた。
「まずいですよこれは……!」
「そんなにまずいんですか?」
ピンときていないミラとは対照的に、ヴィルヘルムの手の内には嫌な汗が滲んでいた。
「金の貸し借りは信用が第一です。貴族どうしであれば特に。一人が見限ればまた一人二人と消えて、それに続いてまた一人……。今そうなってしまえば、屋敷や土地どころか、当家には何も残りません」
「え、えっ!それは困ります。弟妹がまだ小さいから私が働かなくちゃいけないのに」
分かっている。が、もはや使用人が頭を下げた所で済む事では無くなった。
頭が真っ白になった。がっくりと膝を落とし、先代の夫婦と忘れ形見の娘に詫びた。
(申し訳ございません。私の不甲斐なさ故に、幼い御息女一人守る事も──)
「!……いえ、まだ手はあります」
ミラは顔を上げた。
「いいですか、招待状は確かに御嬢様宛でした。ですが、貴方は文字も読めない赤ん坊へ手紙を贈りますか?」
「いいえ。贈りませんけれど?」
それがどう関係あるの、と言わんばかりにミラは首を傾げた。
「つまり、あの方は御嬢様の顔は知らない。これ程の規模のパーティー、招待客の数は計りしれません。顔の知らない人間も呼んでいるのでしょう。そんな中でどうやって客を見分けているか」
ヴィルヘルムは一通の封筒を取り出した。
「招待状です。これの有無で客を見分け、宛名から誰かを見分ける。そして逆に言えば、これを持って令嬢っぽさがありさえすればいいのです」
「えぇと、つまりどういう事でしょうか?」
無茶は承知で申し上げます、と神妙に前置きをおいて、
「貴方がお嬢様になるのです」
長い沈黙が二人の間に流れた。
「えっと、それはどういう……?」
「そのままの意味です。変装して潜入し、名誉を回復させて下さい。うまくいけば、没落も免れるかもしれません」
ポカンとして、言われた事を理解しようと反芻する度に訳がわからなくなる。
「むむむ無理です無理です!意味分かりませんよ!」
「私だって自分で言ってて意味分かりませんがこれしか無いんですよ!本当は貴方一人に任せるのは心配で仕方ないんです!」
「どういう意味ですか!」
言い争いの声は長く絶えず、両者が息を切らせるまで続いた。
がらがら声でガンつけながらミラは言った。
「そ……そんなに言うんだったら……あなたが行けばいいじゃないですか、女装でも何でもして──」
言って、ミラの思考に電流が走った。
「いきなり黙ってどうしたって言うんですか?」
ヴィルヘルムは反対に、えも言われぬ怖気が走った。何か閃いた風なミラの笑顔に、嫌な予感しか覚えなかった。
「分かりました。やります、その仕事」
と、急に素直なミラに、先程の胸騒ぎは杞憂かと思わされた。だが、それが杞憂で終わらないと、すぐに分からされた。
「条件として、ヴィルヘルムさんも付いてきて下さい。私と同じように
ヴィルヘルムはどうかこれが質の悪い夢であれ、と願った。
こうして、あまりにも無謀で勝ち目の薄い戦いが、諦めに近い首肯で幕を開けた。
ひとまず使用人一同は荷物と共に、予約しておいた宿屋に向かった。二人は他の使用人たちに事情を話し、今晩は待機するよう指示した。そして荷物置場兼ヴィルヘルムの寝室に集まり、準備を急いでいた。
無謀にも潜入作戦だったが、意外にも幸運に助けられる形で準備は順調に進んだ。
一つは変装用のドレスや宝石。これは若当主の指示で持ってきた荷物にあった。荷物の封を次々と切っていくと、中にはドレス、ジュエリー、ウィッグ等々、前当主の妻の遺品が入っていた。
「まさか、無駄に増えた荷物がこんな形で役立つとは……」
どれもパーティーに着て行くにも遜色ない代物だった。貰い物だろうか、未使用の化粧用品まで揃っていた。
「しかし、本当に大丈夫ですか?他人の、ましてや男性のメイクなんて経験無いでしょう?」
「私だって女の子です、メイクの一つや二つが出来なくてどうするんですか。普段は仕事で出来ない分、張り切っていきますよ〜」
ミラは自信に満ちた笑顔を見せた。そして数分の間、擽られる様に顔を自由されて、
「はい完成!出来映えは着替えてからのお楽しみ!」
二人はカーテンを挟んでそれぞれ着替え始めたが、
「しかし何で私が、執事の私が、仕事の出来るこの私が……こんな……」
「仕事は出来ても性格はちょっとアレですよ。けっこう口悪いし」
(メイクが失敗なら今度こそクビにしよう)
布切れ一枚挟んだ向こうの声に、ヴィルヘルムは心の中で決意した。
初めての女ものの服に苦戦し、
「まだですか〜?こっちは待ちくたびれましたよ」
と言われながら、やっとこ着替えを終えて、間を仕切るカーテンをとった。
深窓の令嬢──
目の前にいたのは、まさしくそれだ。
悪趣味にならない程度の指輪やネックレス。仕事の邪魔だと纏められていた髪も解き放たれ、カールをしながら黄金色に輝いていた。
わりと可愛い顔だと専らの評判だったが、本気の化粧がここまで人を変えるとは。
「おぉ……すごい」
思わず感嘆するヴィルヘルム。ミラも鏡を見て御満悦だった。そして、それなら自分はどうなんだろう、と気になったが、自分で確認する勇気はなかった。
「わ、私はどうですか?変じゃありませんか?」と感想を求めるだけに留めた。
「いえいえ!むしろよくお似合いですよ。やっぱり素材がいいと何しても似合いますね」
そんな事を言われると。柄にもなく気恥ずかしい。彼女が言うなら大丈夫だろう、とヴィルヘルムはミラの審美眼に賭けた。
「やっぱり『歳上の小うるさいお局様風』にしたのは正解でした。普段のイメージから限りなく近くできましたね」
……今だけは我慢しよう。とヴィルヘルムは自分へ必死にそう言い聞かせた。
「堂々とだけしていてください。あとは私が何とかしますから」
ミラには、そう言い含めた。時間の無い中で、貴人としての最低限の所作は教えたが、如何せん彼女の
「令嬢方との会話は自然にお願いしますよ。
「えぇっ、注文が多いですよ」
「助け船は出しますよ。まずは第一の関門です」
令嬢とメイドに扮した二人は会場の前に姿を現した。パーティーの開始まであと僅か、会場へ向かう者は二人の他に無く、宵の街で一目をひいた。正門に目をやると、先程の女性の姿は無く、代わりに女中が一人いた。
「ごきげんよう」
令嬢は可憐な笑顔を見た。
「遅れまして申し訳ございません。招待状はこちらに」
メイドは女中に封筒を手渡した。女中は受け取った封筒と手元の台帳を交互に見比べ、
「もうすぐ我が主より挨拶がございます。どうぞ、お早く」
二人は女中へお辞儀をして、そうして足早に門をくぐっていった。
門から先はだだっ広い庭が客を待ち、その静寂の中に二人はポツンといた。
「以外と……」
「バレません……でしたね」
こうも順調にいくと逆に不気味だった。今までの苦難からすれば、もっと一悶着があってもおかしくないのだが──
「まぁまぁ、とにかく順調ならいいじゃあないですか。上手くいかなきゃ一巻の終わりなんですし」
調子にのらない、とヴィルヘルムは戒めたが、正直こんな場面で気楽になれるのは羨ましい。先程とは別人の様な自信を持って、ずんずんと歩いていき、その後ろをヴィルヘルムが小走りに付いて行った。
人に食事に豪華な装飾、庭園とは全く違う空間が扉一つを挟んで存在していた。
「おぉ……!すっごい!」
子供のように目を輝かせるミラに、
「壊しても弁償は出来ませんからね」と小声で釘をさしておくのを忘れない。そうして暫く周囲の光景に目を奪われていると、今立っている床から一段高い所、所謂ステージに司会らしき女中と、先程の令嬢がいた。
「皆様、遠路はるばるようこそおいで下さいました」と、型式通りの始動から、型式通りの挨拶が続いたので無視した。
「これより主催者である皇位継承第一位、ヒルダ皇女より御言葉をいただきます」
と言う司会の声が聞こえるまでは──
「皆様、ようこそおいでくださいました。私が皇女のヒルダです」
そう言って令嬢は微笑んだ。一気に蒼白顔になる二人。その精気さえも取り込むように、皇女殿下はステージ上にもその美貌を赤く咲かせていた。
「もう帰ります」
血の気の無い顔でミラは言った。
「どうか落ち着いてください」
「これが落ち着いていられますか。むしろ何でそんなに冷静なんですか!?」
「自分より慌てている人がいると冷静になれるんですよ」
しかしこんな所で、まさか皇族をお見かけするとは──。色々な事が起こりすぎて脳の処理が追い付かない。
「しかし不幸中の幸い、他の来客も皇女主催とは知らなかったようですし、私達もあまり目立たずに済みました」
どう考えても不幸と幸いとバランスは崩壊していたが。皇女相手に謀るとなれば、下手すれば斬首なんて事もあるのでは、と考えたがミラの精神衛生の為に黙っておいた。
しかし、ミラの精神は既に限界に近く、
「兎に角もう帰るって言ったら帰ります!」
そう言うと同時に振り返り、出口の扉に向かおうとして──
「ごきげんよう」と皇女がこっちに向かって声をかけているのが見えた。
衝撃のあまり、二人は声の出し方を忘れた。
「ごきげんよう、今宵の晩餐は楽しんで下さっていますか?」
聞こえなかったとでも思ったのか、皇女は再び声をかける。
ここで答えなければ流石に失礼──
断頭台が脳裏をよぎり、早く答えるようにミラの背中をこっそりと小突く。
「ほら、貴方がお嬢様ですよ」
「え、えぇとてもご機嫌よいですわよ」
「そうですか、それは何よりですわ」
色々と怪しかったが、皇女は満足したらしく笑顔を見せた。ステージの上にいた時よりも自然な、素朴な笑みに見えた。
「お名前を教えて頂けませんか。恥ずかしながら私、今日が初めての社交界でして。出来るだけ沢山お友達を作りたいのです」
「シャルロット・ガーフィールと申します。今日はお会いできて光栄です殿下」
「こちらこそ、お会いできて嬉しいわ」
ごく自然な、緊張など微塵も感じさせない挨拶。端から見れば、物腰の柔らかい御令嬢にしか見えなかっただろう。
(これならいける!)
ヴィルヘルムは確信した。
「御嬢様、例の事を……」
ヴィルヘルムはそっと耳打ちして、シャルロットもといミラへとパスを出す。
「分かっています。安心して」
ミラは 柔和な笑顔を見せて応えた。それはまるで本物の令嬢の様であり、彼がよく知る
(根が単純だから役に入れ込みやすいのか?)
呆気にとられて、そんな事を考えている間にミラが鋭く切り込んだ。
「先程は私の兄が殿下に無礼をしたと耳にしました。兄に代わって私が謝罪いたします」
「お兄さんって、あぁ、受付で見たあの人かしら?私は気にしていないわ。むしろ謝らなければいけないのは私の方なの」
「それはどういう──」
「殿下」
ミラが喋るよりも早く、皇女の後ろに控えていた女中が現れた。
「殿下、そろそろ向こうのお客様へ御挨拶に行きませねば」
「もう少しだけ、この方たちとお話をしたいのだけれど」
「我が儘はおよし下さい」
女中から少しきつい調子で諫められると、皇女は残念そうに、本当に申し訳なさそうに謝った。
「ごめんなさい。お話はまた何時か」
そうして二人は皇女と別れた。
残された二人、
「何とかお詫びだけは出来たわ。あとは殿下のお優しさに祈るしかないわね」
「あ、はい」
「貴方も慣れない環境の中でよく頑張りました。折角ですから、食事を楽しんでから帰りましょうか」
「あ、はい」
皇女への謝罪という目的を達成した今、最早ここにいる理由は無い。寧ろボロを出さないうちに退散するべきだ。
ヴィルヘルムは分かっていたが、それが頭のの外に出る事はなかった。ボーっとして、頭の中心に大きな穴が空いた様な気分だった。
困難な仕事を遂行できたのは良かった。目的は完全に果たされ、達成感も勿論あった。だがそれ以上に疑念が強くて素直に喜べなかった。
「私……来る必要ありましたか……?」
孤独な質問に誰も答えてはくれない。
結局その後も二人は会場にいた。ミラが食事や音楽を楽しみ、その傍らでヴィルヘルムがメイドの仕事をこなしていた。役への没頭と丁寧な仕事ぶりは周囲の目を完全に欺き、貴人たちの中に自然に溶け込み、目立たず、何の障害も無かった。
「そうです。いい事のはずなんです。ですけど、なんでしょうね、この喪失感は……」
ヴィルヘルムは自分に言い聞かせるも納得はしていなかった。ミラは廁へ行き、流石に付いていく訳にはいかないので、こうして一人で待つ羽目になった。何もする事が無く、何となく、窓から夜景をボーっと見ていたが、
「何かしてないと、退屈だぁ……」
そう呟くと、不意に横から声がかかった。
「それでしたら、私とお話しませんか」
声のする方へ顔を向けると──皇女。女中がおらず、一人だったの
「またお会いしましたね」
と、気さくに話しかけてきた。また突然すぎて戸惑うが、トラブル続きで麻痺した精神はすぐに受け入れた。
「私でよろしければ……」
「ありがとう」
──ありがとう
一国の皇族たる人が、一介の下臈へかける言葉にしては、違和感があった。一向にこの皇女の性格を掴めなかったが、かえって好奇心が湧いた。
「何かしないと落ち着かないの、分かります。私もいつもメイドさん達に囲まれて、料理も洗濯も出来なくなっちゃったから」
「以前は御身自ら家事を?」
「うん、まだそんな風に畏まった呼ばれ方をされていない時に」
皇女の表情にうっすらと陰りが現れていた。
「私はずっと乳母に育てられてきたの。自分が皇族だなんて知らなかったし、皇宮に入ったのも二ヶ月前に初めてだった」
たしかに、『お二人』と言って主と使用人を一纏めにしていたのは、上流階級の人間にしては違和感があった。
「それで今日も無理を言って、受付に立たせて貰ったの。あなたのご主人様には失礼をしてしまったけれど。けれど、良い主人をお持ちなのね」
良い主人、と彼の主人が形容されるされるのは、全くピンと来なかった。
「どういう事でしょうか?」と、聞くより他なかった。語る口は饒舌で、とても楽しげだった。
「あなたのご主人と一緒に、メイドさんが一人いらしたの。そこで私の使用人が、メイドさんに『無能』とか『主人に恥をかかせて使用人失格』くらいの事を言ったの。そうしたら、あなたのご主人が言ったの。『馬鹿なのは自分だけだ。
ヴィルヘルムは目を円くしていた。まさか、そんな事があったとは、あの若当主がそんな言うとは、想像もしなかった。
「私、王宮に着てからはずっと遊んでいたの。突然自分が世界で一番偉くなったみたいな気分で。でもそれじゃ、やっぱり落ち着かない。今日は私の使用人たちが、私の社交界慣れしない内にそういう関係にならないように、女性だけで開いたの。そうやって皆が私を気遣って、私の為に頑張ってくれるの。なら反対に私も皆の為に何かしたくなるの」
熱ぽっく語る皇女は、話し相手の表情がいつの間にか堅まっているのに気がついた。
「あっ、ごめんなさい。長いしつまらないですよね、こんな話」
「……いえ、とても心に響きました。忘れていた大切な事を思い出せました」
それならよかった、と安心して言った。
「そろそろ戻らないと。抜け出して来たのがバレちゃうので」
皇女は去り際に、また会いましょう、と手を振った。メイドは深く、心から頭を下げた。
それとほぼ同時に廁から出たミラは、当然のように当惑した。
「いったいどうしたの?」
ヴィルヘルムは無言でミラへと正面から向き合い、
「御主人様」
そう声をかけ、
「あなたは余計な事ばかりして役に立ちませんが、あなたのその努力が何時か実を結ぶと、私は信じています」
気を引き締め、凛々しい顔で、宣言した。
「え、えっ、なんですか藪から棒に」
「さぁ?行きましょうか」
ヴィルヘルムは笑った。これからも苦労はあるだろうが、何とかなると希望を持って。
メイド・イン・男 真楽実弦 @rr-life
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