始まり
「先生の本、本当に売れないですねー!」
本人は自然に言った一言かもしれない。
たった一言でこんなにも相手を不快にさせる人は過去を振り返ってもこの男、ただ一人である。
「こう、光る物を感じないんですよね!内容がありきたりと言うか面白みが無いと言うか…」
いつも明るく人当たりの良い笑顔を浮かべながら連絡をしてくる樋口と言う男は私、売れない作家である小泉 夏穂の担当者だ。
「若さが無いんですよ!若さが!先生28歳ですよね?それくらいの女性なら恋愛小説とか美容とか考えません?何ですか、健康って。」
健康大事じゃ無いか…
28歳でメンチカツも豚の角煮も食べるのが辛いんだぞっ!胃もたれ激しいんだからな!
若い時から健康を見直すって大事でしょうが…
「ジャンル替えしましょう!恋愛とかどうですか⁉︎今なら友人紹介するんで恋人がいない先生でも体験すれば多少は書けるようになるんじゃないですか⁉︎」
どこからかプツンと言う音が聞こえた気がする。
頭では冷静に考えているが、肺に大量の息が入っていく感覚がする。
あ、ヤバいと思った時には吸い込んだ空気を大量に吐き出しはじめた。
「うるせー!!!毎回なんなんだ!ジャンル替えジャンル替えって、馬鹿の一つ覚えみたいに言いやがって。健康大事!それを伝えたくて整体師辞め、賃貸営業やめて作家になったんだよ!ふざけんな!!!」
樋口の電話を出て数分、挨拶以外に発した言葉に息切れを感じる。
このやりとりは、何十回と行っても慣れを感じることがない。
毎回、新たなイラつきを見出させるのは樋口の一種の才能かと思う。
電話の向こうの人物は心底楽しそうな笑い声をあげる。
「先生は普通に楽しい人なんだから、普通の内容書くより少しぶっ飛んでる内容を書いた方がいいですよ。」
いつものやり取りだ。
こうやって樋口は他のジャンルに移行を促してくる。
その度に、色々挑戦をした。
コメディ、歴史、純文学と試してみたが樋口のお目にかかるような作品は出来た試しがない。
「挑戦しましょう、次は恋愛です!1ヶ月以内に書けるところまでで良いので書いてください!あ、恋愛経験がないって言うなら友人を紹介しまっ」
樋口の話を最後まで聞かずに通話にある赤いボタンを力強く押した。
終わりはこんなものだ、気にしてはいけない。
彼とは2年近く、こんなやり取りを続けている。
今更だ。
自室の床に寝転んでため息を一つ零す。
売れないのも自覚している。
ただ、今まで整体師として健康を目標にし賃貸営業で体をボロボロになるまで酷使した。
学生時代も特に秀でたものはなく、ただただ時が過ぎただけだ。
今更何を経験しようとも、私はつまらない人間なんだろうと思う。
思考が負の感情でいっぱいになりかけた時、タイミングよく自室のドアがノックされた。
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