鋼のガールフレンド

ミソネタ・ドザえもん

第一章

第1話

 目を開けると、俺は異世界に寝転がっていた。


 昨日の記憶は鮮明だった。ご飯を食べ、お風呂に入り、明日の授業に向けての予習を数時間こなし、友人と電話で軽い雑談をして、眠りについた……はずだった。いつもと何ら変わらない、いつもの穏やかな日常だった。


 そんな中、今俺の眼前に広がるこの光景は、ここが昨晩まで過ごしていた日常だった俺の世界からは逸脱した世界であることを証明しているように見えた。


 鼻腔をくすぐる灯油のような匂い。雷雲よりも分厚くどす黒い雲。そして、黄土色の砂漠。

 思わず身の毛もよだつ程、命の危険を感じるような悪夢が眼前には広がっていた。

 どれだけの時間周囲を見渡しても、やはり俺が元いた世界とここは似ても似つかなかった。ここは一体、どこなのだろう。


 そんな当然な疑問を抱いた俺の耳に、モーターの静寂な駆動音が掠めた。


「誰かいるかもしれない」


 思ったら、俺は即行動を起こしていた。ここがどこであるのかという疑問は未だ晴れない。だからこそ、一刻も早く誰でも良いから人と出会いたかった。出会って、疑問を解消したかった。そうしないと、気が狂ってしまいそうだった。


 誰だってそうだろう。夜眠り、目を覚ますと知らない土地にいた。それも、俺は夢遊病など患ってもいないし、仮に患っていても、今見える世界はあまりに現実から逸脱した光景だった。


 それこそ、そう。世界が滅亡した世界。終末戦争を終えた世界。この世界を見て抱いた感想は、まさしくそれだった。荒廃とした世界は、俺の胸の奥底に燻った恐怖心を煽るには十分だった。


 だからこそ俺は、今現在胸を襲っている悪魔のような恐怖心に打ち勝つために、人との出会いを求めた。この地がどこなのか、どうしてここまで荒廃してしまったのか、説明してくれる人と出会いたかった。他にも疑問は尽きない。でもまずは、それを知らないことには先に進める気がしなかった。


 しかし、事は俺が望む形にはそう上手く進まなかった。


 砂漠に足を取られながら必死に走って、小高い丘を昇って、息が荒れる頃、俺はそれと出会った。

 緑色の車体。不整地でも滑走を可能とさせる厳ついキャタピラ。そして、おぞましい程に鈍く輝く砲台。

 どう見てもそれは、戦車だった。


 ただそれは、ガソリンで動く戦車ではなく、電気自動車のように電気で動くモーター駆動の戦車だった。


 それに出会った途端に俺の心臓が高鳴ったのは、恐らく砂丘の上を足を取られながら必死に走ったからではなかった。戦車がキャタピラによる駆動を止め、俺くらいはあろう砲台を、まるで鎮圧対象でも見つけたかのように、こちらに振り回してきたからに違いなかった。


 戦車が何をしようとしているかは、直感が理解した。

 恐怖で足は震えていた。


「や、やめてくれ」


 囁くようなか細い声で呟いた。しかし、戦車は無慈悲だった。

 無慈悲に、俺の願いなど聞き入れることなく、砲台が軋んだ。

 しばしの轟音の末、戦車は耳鳴りを及ぼす程の爆音を鳴らしながら、電磁砲を放った。俺に対して。身動き一つ取れない、俺に対して。


 ただ眺める他なかった。成すすべなく、眺める他なかった。


 俺の体は宙を舞った。


 全てに思考が追いつかず、俺はジェットコースターにでも乗った時のような回りまわる視界をただ呆然と眺める他なかった。

 そして、砂に体は打ち付けられた。思いの他強い衝撃で砂に叩きつけられたためか、真っ先にぶつかった鼻筋が痛んだ。鼻血でも出ているのではなかろうかと思うくらい、じんじんとした激痛が続いた。


 そんな鼻先の痛みが鮮明になるにつれて、俺は気付いた。


 あれほどの電磁砲を直に受けたのにも関わらず、どうやら俺は九死に一生を得たようだ。

 いいや違う。九死に一生を得たのではない。先ほど、俺の体が宙を舞った。初め、俺はあの現象は俺の体が電磁砲に打ち抜かれたから起きた現象だと思った。でもそうじゃなかったみたいだ。

 俺の体は何モノかによって電磁砲を避けたのだ。回避の代わりの代償行為として、俺の体は宙を舞ったのだ。

 だから今、俺は鼻先以外に痛みを感じていないのだ。


 では一体、何が、何モノが俺を助けた?


「大丈夫ですか?」


 答えを導き出すまでもなく、女性の声が聞こえた。


 俺は砂まみれになった顔を上げた。鼻先の砂が脆くも地面に落ちていく。そんなことに気を取られることもなく、俺は見上げた先を見据えた。そこには、黒いボロボロのコートを羽織った女性が立っていた。亜麻色の髪。透き通るような藍色の瞳。鼻立ちの良い顔。コートを羽織っていて体の具合はわからなかったが、背は女性にしては高かった。俺くらいはあろうか。一目見て思った。誇張抜きに、モデルのような美しい女性だと。


「大丈夫ですか?」


 彼女に見惚れるあまり閉口したままだった俺に、彼女は再び尋ねてきた。


「だ、大丈夫です」


 緊張から声を上ずらせながら、俺は答えた。頬が少しだけ熱かった。俺は照れていた。


「そうですか」


 思ったよりも平坦な声で、彼女は俺の無事を喜んだ。

 見惚れるような美しい彼女に愛想を尽かされたような錯覚を覚えて、少しだけ残念な気持ちを胸に抱いた。しかし、しばらくして今がそれどころではないことを思い出して、額に汗が滴った。


「た、助けてください!」俺は額の汗を拭って続けた。「あの戦車に殺されかけているんです。だから助けてください」


「はい。わかりました」


 浮世離れした話だと思い、どうやって彼女にその話を信じてもらおうか。そう頭を捻り始めた時、俺の耳に彼女の二つ返事が伝わった。


 思考が追いつかない俺だったが、途端、体は再び宙を舞ったことに気がついて、全ての思考を奪われた。そして、何かが起きたことを理解した時には、俺の体には風を切る衝撃が伝わり始めていた。


 強烈な衝撃だった。その衝撃により、目を開けていることすら困難だった。地元で時たま楽しんだスキーをしている時だって、こんな衝撃を肌身で味わったことはなかった。体感速度は、恐らく百キロを超えていた。そう思うくらい、尋常ならざる速度を肌身で感じていた。


 現状を理解しようと今この状況で得られる情報を必死に探った。そして、手首を掴む何かから振動が伝わっていることに気がついた。それは人の手のような形をしていることにも、しばらくして気がついた。


 まるで誰かに手首を掴まれて走り去っているようだと思った。


 ただ、それがありえないことと気付いて、俺は余計に現状への理解をしかねた。人が体感速度百キロにも勝る速度で走れないことを、俺は知っていた。もし走れようものなら、それこそギネス記録にでもオリンピックにでもその名を永遠に刻むことが出来よう。だから、そんな話ありえるはずがない。そう思ったのだった。


 しばらくして、少しずつ体に伝わる風の衝撃が弱まっていった。浮いていた足も、砂のように柔らかい地面をしかと踏みしめることが出来るようになっていった。


 衝撃が完全に止んだ頃、俺はゆっくりと目を開けた。随分と力強く目を閉じていたためか、視界は当初ぼやけていた。その視界が少しずつ鮮明になっていった。そして、気付いた。眼前に広がっている今の光景は、先ほど見た砂漠の地平線から何一つ変化はなかった。


「もう大丈夫です」


 しかし先ほどの女性の声が、俺に身の安全を保障した。


 声は、俺の目の前から聞こえた。ゆっくりとそちらを振り返ると、彼女の手が俺の右手首を掴んでいることに気がついた。


 女性経験に乏しい俺は、頬を真っ赤に染めて彼女の拘束から逃れた。


 そんな俺の様子を見て、彼女は可愛らしく不思議そうに小首を傾げた。


「戦車はもういません」


 しばしの沈黙の後、照れている俺に、彼女は俺が脳裏の片隅で懸念していたことを教えてくれた。慌てて周囲を見回せば、確かに先ほどまで仰々しくそこにいた戦車は、俺の視界から消え失せていた。


「君が助けてくれたの?」俺が言うと、


「はい。そうです」


 平坦な声で彼女は言った。どうやら彼女のおかげで、一先ずの危機からは逃れられたようだ。


「あれは何なの?」


「敵国の戦車です」


「て、敵国?」


 思わず声を荒げてしまった。敵国とは、なんとも穏やかではない。身の毛がよだった。恐怖心を煽られたからか、少しだけ冷静さを欠いて俺は続けた。


「ここはどこ? 君以外の人はいないの?」


「ここは北緯三十五度三十九分五十九点二秒。東経百三十九度十八分五十七点六秒です。はい。ここに人はいません。また、あたしは人ではありません」


「ほ、北緯ぃ?」


 矢継ぎ早に尋ねたら、矢継ぎ早に答えられた。しかも北緯だとか何だとか、地名で答えて欲しかったのだが。思わず声を荒げてしまった。


 眉をしかめて彼女の言葉を噛み砕くことしばし、俺は自分でもこれまで起こしたことがないほどのオーバーリアクションをして見せた。一重の瞼をこれでもかと見開いて、口をポカンと広げて、額を伝う冷たい汗をしかと肌で感じていた。


「ひ、人ではない?」


 彼女の言葉を聞き返していた。人ではないという彼女の言葉を。

 そんな馬鹿な話があろうか。彼女はどう見ても人にしか見えなかった。誰もが見惚れるような顔立ち、肉体を持つ彼女が人ではないなど、とても信じられなかった。

 しかし、困惑している頭が冴えていくにつれて、俺は先ほど体感した風を切る衝撃の正体に気がついた。

 あれは当初思った通り、彼女が俺の手を引いて走ったことにより起きた衝撃だったのだ。何よりの証拠は、風が止みきった時に彼女の手が俺の手首を掴んでいたこと。風の衝撃を感じる前後から、ずっと俺の手首は誰かに掴まれている感覚があった。その感覚の正体は、彼女の手だったのだ。俺は彼女に手首を掴まれながら、成されるがままこの広大な砂漠を移動したのだろう。


 そして、理解した。俺は人が体感速度百キロにも勝る速度で走れないことを知っていたから、理解した。もし走れようものなら、それこそギネス記録にでもオリンピックにでもその名を永遠に刻むことが出来よう。それくらい人にとって、その境地は前人未到の境地だったのだ。だから、そんな話ありえるはずがない。そう、ありえるはずがなかったのだ。人がそんな速さで走ることは出来ないのだ。

 ただ、彼女はそれが出来た。何故か。


 彼女は、人ではなかったから。だから出来た。俺の解釈は一つして間違いはなかった。


 全ては彼女が人ではない何モノだから起き得たことだったのだ。


 ならば一体……。


「き、君は一体、何モノなんだ……?」


 背中に冷たい汗が滴った。先ほどまで見惚れていた彼女の顔立ちに、いまや俺は恐怖心すら抱いていた。先ほど俺を襲った戦車のような得体の知れない恐怖を、死を直感し得る恐怖を、彼女から感じ取っていた。


 俺の問いに、


「人型暗殺用ロボット、『マナ』です」


 彼女は口角一つ上げることなく、右手で敬礼をして言った。思わず見惚れるくらい、様になっている敬礼だった。


 ただ、彼女の発した暗殺という不気味な言葉の意味を噛み砕いた途端、彼女に抱いていた穏やかな感情は見事に全て消え去っていた。


 そうして、俺は一人の暗殺用ロボットとの数奇な『出会い』を迎えることになったのだった――。

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