162話 泣き方は知らない

 空からジンの怒りの咆哮が聞こえる。この声で男らの武器を振るう手は止まり、全員が視線を奪われた。マーナはビクリと身体を震わせながら冷汗をかき、コハクの耳はピクピクと声のする方へ向く。


「今度はなんだ!」


(や、やばいよっ! むちゃくちゃ怒ってるよっ!)


「じん きた」


 腕の中で固まったままのマーナが震え上がっているのをよそに、コハクはジンが来た事の嬉しさが込み上げてくる。攻撃が止んでいるので今なら大丈夫だと側まで寄り、珍しくも自ら手を差し伸べる。


 いつもやってもらう通りに、優しくリディアーヌの頭を撫でた。


 こうされると嬉しくなるのだ。少女は知っている。



「こわくない」



「な…」


 まさか亜人に頭を撫でられるとは思わないリディアーヌは、驚きと同時に自尊心を深く傷つけられたのだろう。恐怖も忘れ、頭に置かれた手を咄嗟に払いのけ、


 パンッ!


 宙に浮いた手は、そのままコハクの頬へ向かった。


「あ う」


「亜人のクセに、このわたくしの頭を触るなんて無礼だわっ! パウリナっ! この亜人を今すぐ処分しなさい!」


《 このにんげんっ… 》


 マーナは百年以上生きているが、人間を嫌いになったのは初めてだった。


「っ!? お、お嬢様っ!!」

「リディアーヌ! なんという事―――」


 名を呼ばれたパウリナと母メルカが娘の蛮行と耳を塞ぎたくなる言葉を諫めようとしたその時、



 ッドンッ!!



 シュオン――――



 黒い影が着地と同時に獣人の少女に襲い掛かっていた男らの近くを通り過ぎ、周りにたむろしていた輩の間を、赤い糸のような一閃が繋いだ。そのまま目にも留まらぬ速さでパウリナを囲んでいた三人の男の周囲を回るや、音もなく首と胴が離れる。


 最後は中心にいた彼女の首筋で剣が止まった。


 一人残らず、一声も上げることなく、惨殺された男達。死体はバラバラと地面に転がり、パウリナは背後から首筋に当てられた冷たい刃でようやく影の主を認識した。


 あと数センチで命に届く。

 息が出来ない。

 動けば死ぬ。


 本能的にそう察知したパウリナは、気が狂いそうになるほどの恐怖心を植え付けられてしまった。


「お前は…違ったな」


 背後から色の無い声が届き、スッと刃が離れたが何か出来るはずもない。持っていた剣と膝が同時に落ち、その股は涙と小便で濡れた。


 ◇


「コハクっ!」


「………」


 この世界に生まれ、初めて人を斬った実感は驚くほどに薄かった。それほどに俺は仲間が受けていた仕打ちが許せなかったのだ。


 無意識に強化していた夜桜に返り血はなく、時短く薄赤く光る刀身が、人を薙いだ唯一の証だった。


 俺は一呼吸置き、コハクの元へ駆け寄る。


 コハクのローブは宿に置いて来てしまった。外套を脱ぎ、ボロボロになった着物で立ち尽くしているコハクに急ぎ掛けてやる。


 だが彼女の様子がおかしい。自惚れかもしれないが、俺を見るなり駆け寄ってくるものと思っていた。外套を掛けてやっても俯いたまま、微動だにしない。


《 ジン、動いていい!? こいつに噛みついてやるんだ! 》


 マーナの様子も先程と違い、壁際で蹲っている少女に向かっていきなり吠えたのだ。改めて少女に視線をやると、目の前に突然現れたバラバラになった死体の山と俺を見て、明らかに震えていた。


「この子もこの輩の仲間なのか?」


 さすがに違うと思うが、あのマーナがここまで怒るのも珍しい。一応聞いてみる。


《 違うよ。けど、コハクは守ったのに頬っぺたブッたんだ! あじんのクセにとかワケわかんない事言ってさ! 》


 しゃがんで先程から俯いたままのコハクの頬を見ると、ほんの少し赤くなっていた。


 背中に傷などは一切なかったので、害を及ぼす攻撃は完全に防いでいたという事。この赤らみは、害が無いと思っていた者からの不意に当てられた悪意、つまり目の前の少女に頬を打たれた跡に間違いはなさそうだ。


 だがそれよりも俺が驚いたのは、頬を伝う涙だった。コハクは一切声を上げることなく、マーナの背を濡らしていたのだ。


「君が叩いたらしいが、本当かい?」


 俺の言葉にビクリと反応し、カチカチと奥歯を鳴らしながら少女は首をフルフルと横に振った。


《 ウソつきウソつきウソつき! なんだこいつ! 》


 さて、どうしたものか…コハクに抱かれたままのマーナが目の前で起きた事を見紛うはずも無し。どうでもよい者の為に”嘘”というエネルギーを使う事もないのがマーナだ。


 少女からすれば、自分が危害を加えた相手の庇護者が目の前で死体の山を作ったら、その本人を前に首を縦に振れるはずもないか。


 あまり子供を脅すものでは無い。その代わり…


「動いていいぞ。よく我慢したな。でも噛みつくのは無しだ」

《 むっ! …わかったよぅ。おさんぽ誘ったわたしも悪いしがまんする 》


 マーナはピンと張っていた背筋を丸め、信じられない角度で首をもたげた。突然動いたぬいぐるみの存在を気に掛けられる者はいない。どころか、先程から独り言を喋っている俺にすら何も言えない程に、三人は恐怖の感情に支配されている。


「この子はんだが、お前達はどうなんだ」


 言い切ってギロリと座り込む二人を睨みつけるが、騎士風の女は放心状態で反応は無い。だが、もう一人の女が腕だけでこちらに這い寄って来た。


「も…もうしわけ…あり、ません」


 震えて掠れる声。真っ青になっている顔を何とか上げている様子で、足腰は立たず憔悴しきっていた。


「娘は、なにも…なにも知らないのです。恩人にも非道なことを…全ては私の責任です。どうか私の命で…お、お許しをっ…」


 何を言っているのかはっきりと聞き取れなかったが、とにかくコハクを叩いたのは娘で、自分の命で償うと言っているらしい。


 この者の命を奪ったところで、コハクには何の慰めにも償いにもならない。


「いい覚悟だが、お前の命はこの子にとって何の価値も無い。一人で勝手に悔いてろ」


「ううっ…」


 それ以上何も言うことは出来ずに、ズリズリと這って娘の元へ向かう母親。今の俺の心は凍っているのだろう。その光景に何の感情も生まれなかった。


 相変わらず放心状態の騎士風の女には、先程勢い余って殺意まで当ててしまった。事前に輩と戦っていた光景を見ていたおかげでギリギリ刃は止められたが、こっちには申し訳ない事をしてしまったかもしれない。


 皆殺しにしてしまったので輩の素性を聞きたかったのだが、アテが無くなってしまった。


 目が覚めるまで待とうかとコハクに寄り添ったその時、俺を追って来ていたアイレが到着した。


 ブワッ タンッ!


「な、な、ナニコレ!?」


 当然、そうなるな。


「俺がやった」


 事の成り行きをつらつらと話す気にもなれなかった。だが、仲間として知らせなければならない。


 百聞は一見に如かず。俯いたままのコハクに掛けた外套を少しめくり、その背を見せた。


 瞬間、全てを察したアイレの瞳が翠緑に光り、月明りに照らされた街路に浮かび上がる。同時にドンッと言う音が鳴り響き、彼女を包み込むように渦巻く風が吹き上がった。


 落ち着けとは口が裂けても言えない。俺自身は怒りをまき散らしのだから。


「…コハクがそこの二人をかばって、こいつらにやられたって事でいいかしら」

「概ねそうだ。だが傷は…受けてない」

「間が気になるけど。とにかくよかった…で、何者なの?」

「あー…すまん。聞く前にやってしまった」

「でしょうね。あたしもそうする。なら」


 アイレは壁際の少女を抱きかかえる女と、虚空を見つめる騎士風の女を一瞥し、騎士風の女に向かってカツカツと歩み寄る。


 バシッ!


 容赦なくその頬を殴った。


 俺には取れなかった手段だ。女には悪いが、コハクの受けた仕打ちの意趣返しをアイレがしてくれた気分になってしまった。


「あんた、いつまで呆けてるつもり!?」


「あ…ひっ! エ、エルフ!? ごめんなさいごめんなさいっ!」


 正気に戻ったパウリナは目の焦点が合った途端に視界に入った風を纏う風人エルフを見て、さらに恐怖を加速させられる。今度は頭を抱えてうずくまってしまった。俺のせいで、今の彼女にとっては亜人も恐怖の対象になってしまったのかもしれない。


「ジン、こいつに何したの…」

「ちょっと殺意を当ててしまってだな」


 はぁ、とため息をつき、蹲る騎士風の女に容赦なく言葉を浴びせた。


「あんたその恰好、どうみても騎士よね。私にとってジオルディーネの騎士は恨んでも恨み切れないのよね。実際、戦場で数えきれないくらい殺したわ」


 まぁ、そうだろう。ジオルディーネ王国とミトレス連邦は戦争中なのだ。今目の前でアイレが剣を抜いたとしても、誰も止められないし、俺も止めるつもりはなかった。


「今すぐ頭を上げて、質問に答えなさい。でないと…殺すしかなくなる」


 氷の様に冷え切った声で脅しをかけると、騎士の女はブルブルと震えながら頭を上げ、アイレの顔を見上げる。


「よくできました。怖かったでしょう? あいつの殺気。普通の人にはこたえると思うわ」


 なぜか俺を引き合いに出し、笑顔で顔を上げた女に話しかけた。


 騎士は普通の人に入るのか? これもアイレの得意とする人心掌握術なのか…怖すぎる笑顔は俺には到底真似できそうにない。


 だが、風は全く止んでいないどころか強くなっている気がする。未だ怒っている事は間違いない。


「あいつらは何?」

「どうして襲われてたの?」


 この二つの質問で欲しい情報は十分に手に入ると判断し、アイレは女騎士の反応を待った。


 意を決し、ゆっくりと女騎士の口から語られた言葉は、全て俺の聞いていた情報通りだった。



◇ ◇ ◇ ◇



 母メルカと娘のリディアーヌは疲れ果てた様子で馬車に揺られていた。


 馬車の目的地は帝都アルバニア。エリス大公領を抜け、帝国南部三公の一角であるセト公爵領を経由し、北上してゆく旅路である。御者と側付きが一名ずつ、護衛としてユリエフ伯爵家に仕える騎士が三名と、ピレウス王国を拠点とするBランク冒険者パーティーがそれをサポートしていた。


 この人員ならば長距離の旅路も安全だと言えた。自分達の治める街であるリージュよりも道中の馬車の方が安全なのは皮肉としか言いようがない。


 街の門まで自分達を送り届けた騎士パウリナは、妻子を無事街の外へ送り出した事を主であるユリエフ卿に報告した後剣を置き、騎士を辞すると言って夜の街に消えていった。


 傭兵に追い回され、先輩でもある仲間の騎士を殺された。関わっていなかったが、自分より遥かに強いはずの国王直属の騎士が実力で排除したはずの冒険者に、圧倒的な殺意と実力差を見せつけられてしまった。


 果てや奴隷扱いしてきた風人エルフにまでその命を脅かされたのだ。まだ若く、将来性のある騎士だったが、今回の出来事は彼女の心を折るには十分だった。


 母メルカはパウリナに掛けられる言葉も無く、その背を馬車の中から見送った。自分も相当疲れてはいるが、娘に伝えなければならない。今王国がどうなっているのかを、これから自分達はどうなるのかを。


 娘が獣人の子に行った所業は、娘を大人しくアルバニアへ連れていくため、夫と相談して事前に何も伝えてこなかった事に原因がある。


 娘にも、獣人の子にも可哀そうな事をした。悔やんでも悔やみきれなかった。


 車中で全てを語った母に、娘のリディアーヌは幼いながらに全てがガラガラと崩れ去っていく思いがした。


 王国貴族である事は自身の誇りだった。屋敷に出入りしていた教師から、ジオルディーネ王国は周辺国家を飲み込み、大国として繁栄を極める国だと教わって来た。


 亜人は人間よりも劣る種族で、人間の助けが無ければ何もできない者達だと教わって来た。


 伯爵家どころか、王国がこの世から消えようとしている。消える原因はアルバート帝国に滅ぼされるから。そして自分はこれから祖国を亡ぼすであろう国で、人質として過ごす事になる。


 当初は混乱し、泣き叫ぶリディアーヌだったが、しばらくすると泣き疲れて母の膝の上で眠った。


 後日、無事帝都アルバニアに到着した二人。


 祖国は魔物に類する者を使って戦争を引き起こした。

 亜人は劣等種なんかじゃない。

 蔑んでいた亜人に守られたにも拘わらず、少女に放った言葉と所業。

 『こわくない』と自分を励ました少女の胸中。


 リディアーヌがそれらを本当の意味で理解できるようになったのは、アルバニアでの軟禁生活が始まった三年後の事だった。


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