163話 怒りの風星

 コハクの頭にポンと手を置いてやると、放心からハッとしたように傍に居た俺に気が付いた。大丈夫かと聞くとコクリと頷き、俺の外套の裾を掴もうとしたがその外套は自分の肩に掛かっている。


 どこか掴む箇所は無いものかと宙を泳ぐ手を胸に当てさせ、ヒョイと抱きかかえてやると、頭から生える丸い耳がくりくりと動いて頬を赤く染めた。おかげで片側だけほんのり赤くなっていたのが目立たなくなったので、俺としては一石二鳥の気分。


 抵抗することなく、抱えられえたまま俺の胸元をキュッと掴み…これで一石三鳥。保護者冥利に尽きるというものだ。


 不意に顔に触れた手が濡れていたので、その手をペロリと舐めるが水ではないと思ったのだろう。手を濡らした物の正体がわからず、不思議そうにしている。


 コハクは初めて涙を流したのだ。そんな事があり得るのかと、次は俺が戸惑う番だったが、泣き方なんて俺には教えられない。これを機に、いつかコハク自身が心揺さぶられる場面に会い、自然に知ってもらう他ない。


『悲しい時は泣けばいい』


 これを言うのは簡単だが、泣き方を知らない者には通用しない。確実に訪れる虚しい沈黙は御免だ。


 俺とアイレはコハクのお陰様よろしく今その場面に遭遇しているので、二人してキュッと唇を結んで涙を堪えているが、その事は互いに誤魔化し合っていた。


 ◇


 もうここに用は無いと、女騎士から聞き出した情報どおりに大通りを山手に向かっている。


 目標はムバチェフ商会。


 俺はすっかりのその名を忘れていたのだが、雪山でそこの奴隷商人を燃やし尽くしたという話をしっかりと覚えていたアイレが、乗り込むと言い出したのだ。


 奴隷商は全亜人の敵である。俺も多少の怨恨は抱えているものの、アイレの恨みに比べればそれも霞む程度。そもそも今回の企ての大元はムバチェフ商会にあったので、反対する理由も無かった。


「あれだな」


 目的地付近に到着すると、広大な敷地にこれまた巨大な建物が立っている。加えてご丁寧に堂々と大きな看板を掲げていたので、迷う事も見紛う事も無かった。


 夜半を過ぎているからか、巨大な建物の内部には少数の人間の魔力反応しか感じない。だが、肝心の店主ムバチェフがいるかどうかはさすがに分からない。


「ふん。こんなところに出入りしてる時点で全員敵よ。ロクな人間じゃないわ。全員建物ごと潰してやる!」


 フワリと浮かび上がろうとしたアイレに、遠回しに待ったをかける。


「君は優しいな」

「なっ、なによ急に」


「恐怖も後悔も与えずに終わらすのか」

「…いろいろ返して」


 何を返せばいいのか分からぬままジト目のアイレをそっとやり過ごし、つと前に出て腹と喉を強化した。この部分強化が大声を出すには最適だと、父上から教わった事がある。


 アイレがこれから派手に建物を破壊するのだ。敷地が広いのでさほど気にする必要も無いかもしれないが、その前哨戦とはいえ近隣住民にはお騒がせしたと、先に心の中で謝っておく。


 三人に耳を塞ぐよう言い、思いっきり息を吸って女騎士から聞いておいた店主の名を吐き出した。


「ムバチェフ商会会頭クレムリン・ムバチェフ! これより一味もろとも貴様に天誅を下す! 覚悟しろっっ!!」


 ビリビリビリ!


 生身では到底成しえない大声量が周辺一帯に響き渡り、巨大な建物から跳ね返った声が自分の耳にも届いた。間違いなく聞こえているはずだ。


「ひーっ、うるさっ」

「うるさっ うるさっ」


 なぜか腕の中でコハクが脚をプラプラと揺らして楽しそうにしているが、もう立ち直ってくれたのだろうか。それなら声を張った甲斐もあるというものだ。


 屋敷内の魔力反応がにわかに動き出した。図らずも近くにある領主の屋敷を囲んでいた松明群までもがこちらに向かって移動を始めたようで、商会の裏門から敷地内にワラワラと人が集まって来ている。


 その様子をアイレに伝えると、手間が省けたと言いい残し、ふわりと空高く浮いて行った。


『うぉん!(わたしもやるもんね! さっきのお返しだよっ!)』


 やり返す相手はまるで違うのだが、マーナはマーナで消化不良なのだ。何をするのかは不明だが、何も言わずに見送った。


 シュンシュンシュンシュン―――


 空中にいるアイレの頭上に、かなりの魔力が集まっている。なにか強力な魔法を放つようで、周囲の風が収縮しているようだ。役者が揃うまで、この風の収縮が止むことはないだろう。


「怖い怖い…」

「こわい こわい」

「ああ、こわいぞ。アイレを怒らせるもんじゃあないな」

「おねえちゃん こわい」


 コハクを抱えながらさっさとその場を離れ、そっと見晴らしの良さそうな屋根の上に飛び乗り、成り行きを見守る事にする。


 しばらくすると、剣を槍をと携えた強面の輩が敷地内に集まり始め、宙に浮かぶアイレを発見。同じく横にいるマーナにもなんだあれはと色々叫んでいるようだが、二人は一切の反応を見せなかった。


 周囲の様子から、クレムリン・ムバチェフと思しき男が現れ、声を張り上げた。


「誰だ貴様! 馬鹿みたいな声出しやがって、この俺を誰だと思ってんだ! 思い知らせてやるからさっさと降りてこいっ!」


 見上げながら怒気を放つ一味に向かい、アイレはスッとフードを取りながら言葉を返した。


「…あんたがムバチェフ?」


風人エルフ!? しかも女だと!?」


 先程の声が男だったにもかかわらず、目の前にいるのは風人の女であった事に皆一様に騒ぎ始めたが、アイレの一言で瞬時に緊張が頂点に達する。


「これから死ぬのに、説明の必要は無いわね?」

「ぐっ! 叩き落とせ!」


 ムバチェフの言葉と同時に次々に魔法と矢がアイレ目掛けて飛んでくるが、目前で魔法は掻き消え、矢はピタリと止まって全てカラカラと地に落ちた。ただでさえマーナの万物の選別エレクシオンは何が起こったのか分からないのだ。月明りしか無い今の状況では、この力を理解することは不可能だ。


「なんだ今のは!? お、おい! なんとかしろ!」


 武器を持った者達がアイレのいる高さに及ぼうと、敷地外の建物を足場にすべく駆けだした。


 だが、この動きを防いだのもマーナだった。


『ア゛オオオォォォォン!!』


 ブゥゥゥン


「うわっ!」

「なんだこれ!?」

「み、見えねぇ壁があるぞ!」


 連中は方々に散らばり抜け穴を探すが、分かった事はこの見えない壁に完全に閉じ込められているという事だった。


 信じがたい事に、マーナは敷地全周を万物の選別エレクシオンで囲い、『人の接触を拒否』していたのだ。


「マーナ、ありがと♪」

『わぉん!(本気出せばこんなもんだよ!)』


 逃げ道を失い、どうする事も出来ない連中はやたら滅多に空中に攻撃を放つが全て止められ、混乱が混乱を呼び始める。


 ゴゴゴゴゴゴゴ――――


 その混乱の最中に地を揺らすかのような重音が響き、彼らはようやく風人エルフの頭上に自分達に降りかかる災厄の塊がある事に気が付いた。


 風の力で吸い上げられた落ち葉や折れた木の枝が塊に触れた瞬間、ザシュという音を立てて粉々になる様は、彼らを絶望の淵に誘うには十分だったようだ。


「ま、まて…まってくれっ!」


 ガチガチと奥歯を鳴らしながら、その場の全員が空を見上げる。その様は、天からゆるりと降りてくる災厄に対する恐怖と、畏敬の念を含んでいるかのように見えた。


「これはあんた達が償うべき罪の重さの、ほんの一欠片」

『くぉーん!(やっちゃえー!)』


 広大な敷地と同様の大きさの風の塊には、犠牲となった亜人達の無念、未だ苦しめられている同胞の怒りが込められていた。



「終われ」


 ―――― 風の超巨星エア・ウェスタールンド



 ……――――――



 ジオルディーネ王国三大奴隷商会の一角を成したムバチェフ商会は、僅か一夜にして文字通り崩壊。店主はもちろん、店主の元で働いていた者達と専属の傭兵達までもが行方不明となり、旧敷地は天の怒りを買ったいわく付きの地として名を馳せた。


 更地となったムバチェフ商会跡地には、数年後に新たな領主が様々な遊具を置き、子供達の遊び場となった。中央には帝国の技術で作られた噴水が水を湛え、凍ることなくその豊かさと平和の象徴として長らく民の心を癒したという。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る