心の死、あなたの表情

春嵐

01

 友人の寿命が、残り少ない。


 彼は、相貌失認に近い特性を持っていた。顔を把握して個人を特定できるが、他人の表情を把握できない。笑っているのか泣いているのかの判断が、できなかった。


 声や涙など、表情以外のコミュニケーションには敏感に反応できる。ただ、静かに黙っている相手の感情を推し量ることができない。


 だから、友達になった。


 普段から、人の顔色をうかがって、自分を隠して生きてきたから。彼の前では、何も隠さなくていい。心のままに話すことができた。


「死ぬ前にさ」


 友人。普通に病室でのんびりしている。


「ドラマとか、見てみたいな」


 心にも不具合があった。

 そのせいで、あと数日の命。


 身体が死ぬわけではない。心が死ぬ。そして、彼の身体には、彼ではない誰かが新しく生まれる。人格が完全に新しく塗り変わるらしい。


「ドラマ観賞か。いいな。冷加れいかも呼んでやろうか」


「君の恋人は?」


「真季か。あいつは来れないと思う」


 自分の恋人は、女優をやっている。何百年に一度の名優と言われていた。ただ本人は、それを気にしている。今は長期の撮影で、ここにはいない。


「せめて、あいつのドラマでも見てやるか」


「君の恋人が来ないなら、やめようかな」


「そうやって、いつも、人のために動くんだな、お前は。自分の欲求とか、やりたいこととかは、ないのか?」


「ないよ」


 ふたりでいると、落ち着く。

 自分は、顔色や表情を気にしなくていい。彼は、心のことやこれからのことを気にしないでいられる。


「僕さ。気になってることがあるんだ」


 友人。真面目な顔。彼が人の表情を読み取れなくても、彼の表情をこちらが読み取ることはできる。


「生きてる意味について」


「そりゃあ、また、遠大な疑問だな」


「うん。僕は、これから死ぬ。身体がじゃなくて、こころが、だけど」


 彼。自分の心の死を、受け入れているように見える。


「これまで生きてきた証とか、自分が生きていた意味とかがさ。ないんだ、僕」


「そんなことは」


「ないんだよ。何も。自分の中で、自分のためにしたことが、なにひとつ、ない。そういう人生だった」


 応えられない。友人の言っていることは、本当だった。他人の表情を読み取れないのに、他人に尽くした人生。空虚で、何一つ遺さない最期。


「ばかみたいだなって、思ってしまうんだ。僕は。僕の人生は。たいしたことが、なかった。そう思うよ」


「お前がそう思うなら、そうなんだろうな」


「君のそういう、ストレートなところ。大好きだね」


「お前といるときだけだよ」


 普段、潜んで、隠れて生きているから。彼の前でしか、ありのままでいられない。


 彼が死ねば、こういう、ありのままの本当の自分も、死ぬ。


「死ぬなよ。生きろよ。俺は、お前がいなくなると、心からの話し相手がいなくなる」


「冷加がいるよ。女優もいる」


「冷加はお前の彼女だし、女優はそもそも俺の近くにいない」


「君も大概わがままだな。死のうとしている人間に対して、死ぬなとは」


「本心だよ。死んでほしくない」


「身体は残るからさ。死んだあとの僕とも、仲良くしてくれよ」


 彼は、そういって、笑った。


 寂しそうな笑顔だった。

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