モノクロの視界から

丁_スエキチ

本文

 目を開けて真っ先に見えたのは真っ白い天井だった。そのまま身体を起こすとそこは無機質な病室で、花瓶に生けられた花、窓から見える街並み、全てが灰色の世界が広がって――

「うわあああっ!!」

 飛び起きた。

 見慣れた自分の部屋だ。パジャマの青色、勉強机のくすんだ茶色、壁のクリーム色、当然のように全てに色がついていることを確認して、ホッとする。まだ春先だというのに寝汗でぐしょぐしょになったパジャマが気持ち悪い。

 あれから随分時間が経って、目だってとうに元通りになっているというのに、未だに白黒の視界を夢に見る。

 世界の色と、大切な友達を失った、あの事件のことを。


 汗で濡れた服を脱ぎ捨て、軽くシャワーを浴びる。身体に纏わりついていた不快感を洗い流すだけで気分が少し落ち着いて、さっき見た一面灰色の景色は夢だった、と改めて確認できる。

 そうやってせっかくカラフルな現実に戻ってきたというのに、真っ白なワイシャツと真っ黒な学ランに身を包まなくてはいけない。乾いた笑いが口から漏れた。


「大声で叫んでたけど、大丈夫?また、あの時の夢を見たの?」

「うん。別に平気だよ」

「……そう」

 リビングに顔を出して早々、朝ご飯を作っていた母さんが不安げに声をかけてきたが、素っ気なく返す。

「まだ、お友達のことを気にしてる?」

「別に。もう昔のことだって割り切ってるから」

 そんなことはない。未だに引きずっている。もちろん、四六時中彼女たちのことを考えているなんてことはないけれど、いつも心のどこかにささくれみたいに引っ付いていて、時々思い出したようにフッと顔が浮かんでくる。そして懐かしさや口惜しさがないまぜになって息苦しくなる。今朝みたいに。

 それでも僕は嘘をつく。あの動物園は母さんにとって、『大切な息子が得体の知れない怪物に襲われた、おぞましい呪いの場所』になってしまったんだ。意識を失って病院に担ぎ込まれた僕の姿が目に焼き付いているに違いない。過ぎたことだと言ってなんでもないふりをして、僕にも忘れてほしいと思っている。だから、僕の正直な想いを伝えたところで、かえって心配をかけるだけだ。

 一度、母さんと大喧嘩したことがあった。パークから帰ってきて数ヶ月経った頃、「カラカルにまた会いにジャパリパークに行くんだ」と言い張ったのがきっかけ。母さんは普段の振る舞いからは想像もつかないようなヒステリックな声で「あんな危ない所にまた近づくなんて認められない」って言い出した。最終的には大泣きされて、気が動転した母さんをそれ以上見るのが怖くて諦めたんだったっけか。

 ジャパリパークは遠い。少なくとも、ランドセルを背負うくらいの子供が、小遣いで行けるような場所ではなかったのは確かだ。



 ジャパリパークには世界中のいろんな動物が集まっている。そして、その子達と文字通り友達になることができる場所だ。

 両親に連れられてジャパリパークに足を踏み入れたとき、うまく言い表せない高揚感で胸が一杯だった。いや、緊張感と言うべきかもしれない。ずっと楽しみにしていたことが遂に叶うワクワクと同時に、期待外れだったらどうしようという不安を感じてしまって、鼓動が早くなって、緊張感に怖じ気づいた僕を、

「ようこそジャパリパークへ!はじめまして!」

「なに緊張してるのよ、別に取って食ったりしないわよ?」

 出迎えてくれたのが、サーバルとカラカルだった。

 不安なんてすぐに吹き飛んだ。二人と一緒に遊ぶのがただただ楽しかった。明るい笑顔と優しい声で、僕を引っ張って冒険へと連れて行ってくれるサーバル。口調はつっけんどんなくせに、僕のことをよく見ていて、背中を押してくれるカラカル。

 そこにパークガイドのお姉さんも一緒になって、あちこち見学した。途中でイエイヌさんと飼育員さんもやって来て、みんなで遊んだ。

 気がつけば、彼女達が大切な友達になっていた。どうしてあんなにすぐ打ち解けられたのか、思い出せない。

 だからこそ、よく晴れたあの日、目に映る風景をスケッチブックに描いていたとき、セルリアンとかいうぶにぶにとした大きい怪物が突然現れたこと、そして気がついた時には世界が白黒に見えていて、サーバルとはもう会えないと知らされたことが、今でも鮮明に、ありありと思い出せる。

 大切な友達が、僕の代わりに、「いなくなった」。

 あっけない終わりだった。

 せっかく仲良くなれたのに。

 一緒に絵を描く約束もしていたのに。

 ただ、病院の人に聞いた話では、フレンズはセルリアンに食べられて動物に戻り、そしてまたどこかで新しくフレンズとして生まれるのだという。だから「もう会えない」なんてことはなくて、「また会える」と励まされた。

 それがせめてもの救いだった。不安に溢れた彩りのない世界の中で、立ち直るためのよりどころになる言葉だった。

 

 退院してすぐ、パークを出た。サーバルもカラカルもいない日常に帰ってきた。

 月に一回、僕の体調に異変がないか確認するための書類がパークから届いて、カラカルからの手紙が同封されていた。不器用な文字で書かれた手紙を読むたび、またジャパリパークに行ってカラカルに会いたいと強く思ったけれど、あらゆる危険に過敏になった母さんを説得するのは僕には無理だった。実際、ニュース番組ではジャパリパークでのセルリアンの襲撃事件が報道され、パークはちょくちょく休園していた。

 そのうち、書類が届く頻度が三ヶ月に一度になり、半年に一度になり、年に一度になった。あるときからカラカルからの手紙もなくなった。僕がカラカルのために描いた絵が同封されていたから、そういうことだったんだろう。寿命のせいかセルリアンのせいかはわからないが。あのときだけは、僕が泣きじゃくって責めても、母さんは何も言わなかった。

 また会えるって信じていたのに、どうしようもなかった。僕にはどうにもできなかった。

 僕は、大切な友達を二人失ったんだ。

 いま一時的に休園しているジャパリパークが営業を再開しても、サーバルも、カラカルもいない。「また会える」二人は、僕のことを知らない。それがひどく悲しくて、怖い。

過去に縛られて変わってしまったのは、母さんだけじゃなかった。時間が経てば経つほど、病院での救いの言葉が呪いへと変わっていく。

形を変えたいびつな再会は、僕にとって一方的に悲しいものだろう。そう思うようになってから、ジャパリパークに行きたいという思いも薄れていった。


だから、ジャパリパークは遠い場所のままだ。背が伸びて、小遣いも増えて、あちこち色んな場所に行けるようになった今でも。



 放課後の美術室で、一人きりで絵を描いて過ごす時間というのは、自由だ。

 今は、何にも縛られずに気ままに筆を走らせることができる。そして、何に縛られてもいい。過去に縛られた僕は、辛い記憶に飲み込まれて白黒になってしまいそうな、あの島で見た風景をキャンバスに描いている。また行きたいわけではないのにな、と苦笑いを浮かべてしまう。

 だが、何を描こうと僕の勝手。どうせ僕以外は幽霊部員の美術部だ。熱心な新入生はいないし、顧問の先生も滅多に顔を出さない。窓の向こうで休憩中の運動部の人たちが談笑しているが、その声はこの部屋には届かない。それでいい。一人っきりの特等席で、誰とも関わらずに好き放題していられる。

 気がついたら、人と関わるのが怖いと感じるようになっていた。いつからだろう。カラカルからの手紙がなくなった頃からだろうか。

 学ランを羽織るようになってからはなおさらで、心から友達と呼べるような存在が作れない。どこかで一歩引いてしまう。ずっと続くのが当たり前だと勘違いしてしまうのが嫌だ。優しさとか、暖かさとか、そんな素敵なものを突然失うのが怖い。忘れられるのが怖いんだ。

 だったら、殻の中に一人で閉じこもって、灰色になりかけた想い出に溺れている方がいい。


「ふーん、それ、どこかの景色?」

 突然の声にぎょっとして、軽く飛び上がった。いつの間にか夢中になっていたようで、後ろに誰かがいることにまったく気付かなかった。

 振り返れば、そこには見覚えのある顔。クラスメイトだろう。名前は、……何だったか。

「ゴメンね、邪魔して。忘れ物取りに来たんだ」

「……そっか」

 忘れ物を回収しようとしたらクラスメイトがいたから、なんとなく声をかけた、ってところだろう。自分の縄張りに入られたような気分になったが、ここは授業にも使う美術室であるから仕方がない。キャンバスに向き直ろうかと思ったけれど、向こうで探し物をしている最中に絵を描くのもなんだか気まずいので、ぼんやりと目で追っていた。ちょっと待っていれば出て行くはずだ。

「あったあった。筆箱忘れちゃってね」

 すぐに見つかったようだ。右手にはストラップのついた筆箱が握られている。


 ジャパリパークのロゴが入ったストラップ。

 サーバルの耳としっぽをモチーフにしたであろうデザイン。


「それじゃ、お邪魔しましたー」

「待って!」

 思わず、引き留めた。口に出してから、自分の言動に少し驚いた。

「ん?何?」

「あ……、えっと……」

 どうして、声をかけた。

「……そ、そのストラップ、もしかして」

 人と関わらないようにしてきたのに。

「これ?ジャパリパークってあるじゃん。あそこの土産。いいでしょ」

 繋がったら、また失ってしまうかもしれないのに。

「これが分かるってことは、さてはキミ、ジャパリパークに行ったことあるね?」

 それでも、今ここで動き出さないと、また後悔するような気がして。

「……うん。だから、もっとその話、聞かせて」



「もっときみの話を聞かせてよ。わたし、きみとお友達になりたいから!」

 そうだ、あの時の。思い出した。あの時のサーバルの言葉と一緒だ。

 彼女の言葉からおしゃべりが始まって、サーバルが変なこと言って、カラカルがツッコミを入れて、気付いたら三人で笑ってたんだ。


 なんだ。僕は友達が欲しかったのか。

 失うのは怖いけど、それでもあの輝いた日々にやっぱり憧れていたんだ。


 今、二人が背中を押してくれている。

 モノクロになりかけた想い出が、彩りに溢れた今この瞬間の世界に向き合えと言ってくる。

 ありがとう、サーバル、カラカル。



 殻を破るのは、案外あっけないことだった。

「わかるわかる!イエイヌちゃん、めっちゃ可愛いよね! またパーク開園しないかなー。いやーそれにしても、筆箱取りに来ただけなのに、まさかフレンズの話でこんな盛り上がるとは思わなかったわ」

「ほんとにね。誰かとこんなにおしゃべりしたこと、久々だよ」

「キミ、クラスで全然しゃべんないもんね。意外だったよ」

「……これからはもっと色々話そうかな」


 サーバルやカラカルとはもう会えないけれど、想い出そのものはちゃんと僕の中に残っているし、大切な友達はまた作っていける。

 想い出がモノクロになったって、前に進んでいける。

 いや、違うな。想い出をモノクロになんてさせない。あのキラキラした虹色の日々を、白黒の視界で上書きなんてさせやしない。

 そのためにも、僕は絵を描き続ける。

 そして、

「僕、君と友達になりたい」

「あはは、何それ。クラス一緒なんだし、もう友達みたいなもんでしょ。でも、そうだね。改めまして、よろしくね」

 さっきまで描いていた風景画も、心なしか鮮やかさを増していて、ちょうど視界を覆っていたモノクロのフィルターが取れたような色だった。













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モノクロの視界から 丁_スエキチ @Daikichi3141

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