2:三日分の宿代
開け放った窓に足をかけたところで、見つかった。
「あんた何やってんだい! 待ちな!」
「待たない……って、わっ」
逃げ足には自信があったのだが、追いかけてきた人物は思いのほか俊敏だった。飛び降りる寸前に腕を掴まれて、二人共々階下へ転落する。このような展開にはもうずいぶんと慣れていたので、セトの方は難なく着地することが出来たが、道連れになったあと一人はただでは済まなかったらしい。打ちつけたのか、腰を押さえている。
「痛いねえ。あんた、平気かい?」
「オレはなんてことないけど、おばさんは?」
深く考えずにこう言えば、最後の一言に過剰反応が返ってきた。
「おばさんとはなんだい! あたしゃあこれでも、まだ三十にもなってないんだよ!」
「でもお姉さんって感じでもなさそうだしさ」
「悪かったね!」
たかが呼び方一つにそんなにこだわらなくてもと思うのだが、どうもこの年くらいの女はそういうものにうるさいらしい。肩を竦めて、セトは改めて尋ねた。
「なんて呼べば?」
「名前で呼んどくれ。ノタナさ」
「じゃあノタナさん。助けてもらった挙げ句ここまでして追い掛けてもらって悪いんだけど、オレ無一文。残念だけど宿代は払えな――」
「誰が宿代の話をしたのさ。あんたみたいなガキから金を取らなきゃならないほど困っちゃいないよ」
思わず瞬いた。意外だった。何の関係もない子どもを危険を冒して黒獣から救った上、宿にまで無料で泊まらせる――それもおそらく数日に渡って――など、こんな善人がよくもまあ居たものだと思う。
「それじゃ、なんで追い掛けたりしたんだよ」
「怪我も治らないうちから出ていこうとするからだよ。あんたいくつだい?」
おまけに他人の怪我の心配までしていたというのか。俄かには信じがたい。
「十二だけど」
「そんな年の子供が黒獣だらけの平原でなにやってたんだい。迷子かい? あれからもう三日だよ。親御さんはさぞや心配して」
「ご心配なく。親いないし」
「親いないって……孤児かい?」
「そういう感じ」
「帰る家は?」
「帰る場所は一応ある」
「ずいぶん痩せてるじゃないか。ちゃんと食べてるんだろうね」
心配はいいが、質問攻めにはそろそろ嫌気が差してきた。どんどん答えが投げやりになる。
「それなりには」
「嘘はおよし。私がごまかせると思ってんのかい」
嘘のつもりではなかったのだが、下手に否定すると余計に話が長くなりそうなので、セトは黙っておくことにした。いつまでもここでこうしている訳にはいかない。一度拠点が移ってしまえば、探し当てるのには骨が折れる。この女宿主の喋り相手もたいがいにして、早く戻らなければならない。
「心配してもらわなくても、どうにか生きていけてるから。じゃあオレはこれで。助けてくれてありがとうございました。この恩はいつか返します」
「恩を感じてるなら、今助けておくれよ」
「今?」
急いではいたのだが、こちらとしても恩を借りたままでいるのは落ち着かない。早く返済できるのならば願ってもない話だった。
ノタナは打ちつけた腰をまだ擦っている。痛みを堪えているのだろう、表情には出していないが薄っすらと汗が滲んでいた。
「腰を打っちまったみたいでね。情けないけど立てないんだよ。肩を貸してもらえると助かるんだけどね」
やはり、あの高さからの落下は素人には辛かったのだろう。もしかしたら骨にまで異常を来たしているかもしれない。元はといえば、ノタナは逃げようとしたセトを追いかけたせいで――それも動機はセトの身を慮ってのことだったという――怪我をしたのであり。セトは襟足を掻いた。あの力を使うのはかなり疲労するが、致し方ない。
「腰ってどの辺?」
「この辺りだよ」
痛むのは右腰のようだ。セトはノタナの後ろへ回って身を屈めた。両腕を翳して集中する。ゆっくりと生まれた青い光は、集い、そうして無事に患部へ吸い込まれていった。安堵すると同時に、重い疲労感を覚える。起きたばかりで使うのはいささか無理があったかもしれない。
「……はい。どう?」
どうにか息を整えて立ち上がった。一瞬立ちくらみがしたが、それだけだった。もう一度安堵する。視線を感じてそちらを見れば、ノタナが両目を一杯に見開いていた。
「あんた今何したんだい?」
「痛み引いてない?」
「引いたから驚いてるんだよ。こりゃ癒しの呪じゃないか」
「そうらしいけど」
「そうらしいけどって……あんた神僕なのかい?」
「違うって」
一般的に癒しの呪と呼ばれる、神僕たちが扱う治癒の力を持つ呪は、いつも明るい橙の光を放つ。セトのものはそれとは違って青い光だが、同じように傷が癒せるので、仲間内からもやはり癒しの呪と呼ばれている。
「そりゃそうだろうね。そんな年でなれる訳がない」
「なんでもいいけど、もうオレ行っていい?」
これきりでは恩を返したことにはなるまいが、今出来ることはこれくらいだろう。ならばこれ以上ここにいる意味はない。返事を待たずに立ち去ろうとしたセトだったが、ノタナがまたも彼を捕まえた。
「待ちな」
「まだ何か?」
「金がないぶん働いて返してもらおうかね」
話が違う。
「さっきオレみたいなガキから金取るほど困ってないって言ったよな」
「あんたも男なら細かいことは気にしちゃいけないよ。来な。まずは腹拵えしようじゃないか。そういや名前はなんていうんだい?」
細められた目がとても優しげで――こんな瞳を見たのは、母親が彼の元を去って以来初めてかもしれない――つい素直に応じてしまった。
「……セト」
「好き嫌いは?」
「食えるものならなんでも」
「あんたあたしの腕を嘗めてるね? とびきり美味しいご飯を食べさせてあげるよ。おいで、セト」
立ち上がるなり、セトを追い越して先へ行ってしまった背中を見送って、彼は一人戸惑う。本当はここで踵を返していても良かった。そうしなかった理由は、セト自身にも分からない。気づけばノタナの後を追っていた。
出された食事は、これまでセトが見たこともないようなものばかりだった。ほとんどは名前すら知らなかったが、いかにも美味しそうな匂いが漂っている。
無一文の子どもにほとんど見返りも期待せず、こんな手の込んだ料理を出すなんて、善人は本当に存在したようだ。少々面食らう。勧められるままに、疑うことも忘れて一口、口にした。
「どうだい?」
「……美味い」
「だろう? 料理には自信があるのさ。どんどん食べな」
食べきれるか不安なほどたくさんの皿が並んでいて、次はどれに手をつけたものか迷うほどだ。腹いっぱいになるほど食事をしたことなんてほとんどなかったが、ちょうどそうなったときに皿は全て空になった。これを見越して調理したのだろうか。人の胃袋の大きさを予測できる人間など、聞いたことがない。
「セトって言ったね。もう一回聞くけどね、なんであんなところに一人でいたんだい」
皿を下げ終えたノタナは、セトの正面の椅子に腰を下ろした。身を乗り出して問うてくる。
「ほら、人にはそれぞれ事情ってもんが」
「子どもが偉そうなこと言ってんじゃないよ!」
どうにもやりにくい相手だと思う。損得関係なしに他人にここまで干渉されたことは初めてで、どう応対すべきか困惑するばかりだ。
「……それなら迷子ってことで」
「真面目に答えな。それとも、話せないことなのかい」
黒獣に遭遇しては逃げ、逃げては新たな黒獣と遭遇しで、ひどく体力を消耗していた。ノタナともう一人の人間に助けられたのは、ほとんど限界状態のときだった。そのため記憶はおぼろげだが、もう一人の方は間違いなく白軍の制服を着込んでいたと思う。
「あのとき一緒にいたおじさ……お兄さん、白軍だろ?」
「ハリアルのことかい? ああ、あいつは北の支部長さ」
「北支部ってことは、ここは準都市?」
確かめながらもセトは驚いていた。気を失う前は、白都ルテル付近にいたはずなのだが。
「ああそうさ、エルティだよ」
そんなところまで連れてこられたのか。しかし、好都合ではあった。首都よりこちらの方が拠点に近かろう。またあの黒獣が闊歩する平原を横断せねばならないのは憂鬱だったが、一度は経験を積んだ。今度はもう少し上手く逃げられるだろう。
「で、ノタナさんは白軍関係者なのか?」
「私ゃあ白軍じゃないよ。関係してないこともないけどね」
「じゃあ話せない」
今さら捕まるのは御免だ、仕事でミスを犯したわけではない、喋らなければ何も分からないはずだった。しかしこれで犯罪か、あるいは限りなくそれに近いことをしていることはばれてしまっただろう。追い出されるか、もっと悪ければ白軍に突き出されるのではと警戒したが、ノタナはどちらも選ばない。それどころか、信じられないことを言い放った。
「ということは、まともな暮らしはしてなかったってことだね。帰るところはあるって言ってたけど、ろくに食べてもいないみたいだし、例えばあんたをここで引き取ったとしても何も問題はなさそうだね」
「……は?」
セトは耳がおかしくなったのかと疑ったが、どうやら違うらしい。ノタナは大真面目で続ける。
「私はね、ちょうど子どもが欲しかったのさ。そろそろ養子でももらおうかと思ってたんだけどね、あそこで会ったのも何かの縁じゃないか。うちで働かないかい?」
「おばさんそれ本気で言ってんの?」
あまりに信じがたくて、ついこう聞いてしまった。ノタナの顔が一気に険しくなる。
「誰がおばさんだい!」
「あ、そうだった。ノタナさん」
「もちろん本気さ。私はね、子どもだろうと何だろうと、男を見る目だけは確かなんだよ」
「悪いけど、年上はちょっと。五つくらいまでならともかく、ノタナさんどう見ても十五は年上――」
「ませたガキだね! 誰がそんな話をしたんだい。十年早いよ!」
「冗談だって、冗談」
「まったく、大人をからかうんじゃないよ」
ノタナの方は冗談ではないらしい。変な人間がいたものだ。続ける言葉がなかった。感心とも呆れともつかぬよく分からない感情が、セトの胸の内で渦巻いている。とにかく、このまま相手のペースに乗せられてはならないと思った。
「あんたが心配なんだよ。ほら、今だって私を信用してないって目だ。何があったか知らないけどね、たかが十二の子どもがそんな顔してんじゃないよ」
「おばさんは人がいいな」
「あんたそれ態とやってるね?」
「ばれた?」
「それで、こうやって躱そうとするんだね。生意気なガキだよ」
見透かされていた。何ともばつが悪い。仕方がないので、結局率直な物言いをすることにした。
「こんなガキ拾ってもいいことないって。諦めた方が身のためだと思うけど」
「いいや、諦めないよ。とにかく、四の五の言わずまずは三日分の宿代働いて返してもらおうかね。人手不足で困ってるんだよ」
受けた恩は必ず返せ、というのが首領の口癖だった。三日分の宿代と今度の食事代、それから命を助けられたことまで全て合わせれば、いったい何日ただ働きすればよいのだろうか。
「はいはい。お世話になります」
恩を作ってしまったものは仕方ない。渋々セトは了承した。
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