第3章(11歳)
第64話 本の謎
クロヴィスが第二王子ジュリアスのセクハラ被害に遭っていた頃。
アリアはアスバークとのドキドキ対面を迎えていた。
クロヴィスが見当たらないと怪しんだアスバークの研究室だが、登った高台を一段下りた場所にあった。
そこは荒廃していたものの、いくつかの住居が残っていて、ラクダ色の壁やひび割れた歩道、入り組んだ路地があった。そのひとつを奥に進めば、彼が住居兼仕事場にしている石壁づくりの研究室がある。
生温い風が吹き抜け、空気は乾燥していた。目に映る場所に緑はなく、生き物の気配もない。鼻の奥を焼くような土の匂いに、漢方のような香りが混ざっていた。
「外で話そうか。中は暗いから」
アスバークは高い壁に囲われた中庭にアリアを案内した。
小ぶりの木製テーブルとイスがあり、壁際には肉厚の花を咲かせる鉢植えが並んでいる。
「座って」とアスバーク。
アリアが示されたイスに腰掛けるとすぐに、テーブルにぬっと長い影が伸びてきた。先ほどの男の子の姿をした悪魔――ヒュウだったか――が出現していた。手に木製のトレーを持っている。
ヒュウは「先ほどは失礼しました」と微笑して、トレーのお茶セットを手早く並べていく。陶器のポット、ティーカップ、小皿にはさくらんぼが盛られている。
悪魔は無言のまま、ぺこりとおじぎをすると、くるりと背を向けた。
アリアは悪魔のうしろ姿を目で追った。今回はちゃんと影がある。と、視線に気づいたのか、影だけが踊るように手足をドタバタと振り回した。
「ヒューウ」
アスバークの咎める声に、悪魔はパチと姿を消す。
「まったく。あいつは子ども好きなんだけどね。最近は隠密活動ばかりだったから、機嫌が悪いのかもしれない」
そう嘆息し、カップに口をつける。中庭はテーブルがある中央部分だけ日が当たり、建物側は陰というより闇が棲んでいた。差し込む陽を浴びたアスバークの白い髪が、しっとりとした真珠のような輝きを放っている。
「毒は入っちゃいないよ」
お茶に手を付けずにいるアリアに、アスバークが視線をあげて笑った。
「多少苦いけどね。ティファ茶というんだ。昔はジャルディネイラで茶といえば、ティファ茶のことだったが、最近はあまり飲まれないね」
カップのお茶は、見かけは紅茶のような色をしていた。しかし口に含んでみると、たしかに苦味があり、味はコーヒーに似ている。ただ香りはちがって鼻を抜けていくのは香ばしさではなく、蜜のような華やかさだった。
「そのリボン」
アスバークの視線に、お茶を味わっていたアリアは髪に手をやる。お守りだと渡された赤いリボンに触れた。
「ずっとつけてて」
「そうか」
アスバークは満足そうにうなずくと、「ありさ。きみはおしゃべりなのかと思ったが、緊張しているのか?」と首をかしげた。白い髪がふわと揺れ、飼いならされた上品な小鳥を想起した。
ありさ、と呼ばれたことに、アリアの胸がとくりと鳴った。緊張しているというより、圧倒されている、のほうが正確だった。
話し合いの場にクロヴィスがいると邪魔だと思っていたけど、こうしてひとり魔術師アスバークと向き合っていると、あの叔父でも、そばにいれば心強かったかもしれないと思う。が、実際いたらいたで、べつの緊張感があったかもしれない。
突然目の前で消えたクロヴィス。驚くアリアに、アスバークは「別邸前に移動させただけさ」と軽い調子だった。
しかし、あんな風に扱われて、クロヴィスは怒り出すんじゃなかろうかと、再会が気鬱になる。帰宅の道中、馬車内でふたりだけになるというのに。
いっそ瞬間移動できるのなら、マルシャン邸まで飛ばしてもらえたら気まずい時間を省略できるとアリアは思ったが、自分のからだがどういう仕組みだかわからない原理で、空間を移動するのかと思うと、それはそれで安易に頼みたくない。
とはいえ、魂は空間どころか別世界にまで飛ばされてしまったのだ。その瞬間の記憶はなく、それこそ、なぜそうなったのか理由もわからないアリア――ありさだが、今日はそのことが少しでも理解できる日になるかもしれない。
緊張、興奮、それとも恐れ?
たずねたいことは山ほどあるのに、言葉が口を出る前に雲散して胃が空になりそうになる。それを埋めるように、アリアはカップにくちをつけ、お茶を流し込んだ。
温度が胃に到着するころには、すこし気分が落ち着くが、アスバークの視線にあたるとすぐに委縮してしまう。すっかり情緒不安定だ。
「そう怖がるなよ。いまのきみとぼくは、似たような年頃だろ?」
見かけ上は、とアスバークは目をちょっとばかし見開く。
アリアは表情に困り、苦笑としかめっ面の混ざる微妙な反応を返した。
「この姿はね」とアスバーク。
「ぼくが十三くらいのときなんだ。美少年だろ?」
口角の片方だけをあげて笑う。
自画自賛するように、確かに美少年ではある。美少女でも良さそうだ。
しかし魅力的かと問われたら、不気味さのほうが勝るといいたくなる。
この年頃にあるあどけない愛らしさが、彼にはひとつもない。クロヴィスやアリアにある、端正の中にも見え隠れする人間味が、このアスバークには欠片もないのである。
「きみはいくつになった?」
アスバークの問うてきたので、アリアは「十一です」と答えた。
が、
「いや。アリアではなく、ありさのほうだ。もっと年かさだろう」
そう、笑われてしまった。
「十八だったので」あれから、「六年経つから」
「だいたいクロヴィスくらいか」
「はあ、そうですね」
計算すると二十四だ。
「でも、その。なんとなく気分は子どもで」
自分がもう二十四だと思うと色々と虚しくなって、恥ずかしくなる。
二十四といったら、想像ではもっと大人のはずだった。仕事もしていただろうし、もしかしたら恋人がいたかもしれない。
それがどうだ。
この六年。成長はなく、どちらかといえば後退した気がする。
心は二十四より、身も心も十一歳のほうが、しっくりしてくるのだから、ある意味恐怖である。
暗い表情をしだすアリアに、アスバークは「まあ、どうでもいいのだが」と明るく打ち消して話題を変えた。
「小説の話を聞かせてくれ。きみはいつ、その本を読んだといったかな」
アリアは姿勢を正すと、祖母が亡くなったこと、そのあと蔵書整理をしていて見つけたこと、本は何度か繰り返し読んだことは覚えているが、いつ自分がこの世界に飛ばされたのか、そのきっかけや瞬間は記憶がないことを話した。
「その本は、他にもあったのか?」
「他にも?」
アスバークの問いに、アリアは戸惑う。
「一冊だけだった、と思います」
思い返してみる。あの本は比較的新しいものだった。
ページに日焼けはなかったし、表紙も色あせや汚れもなかった。祖母の蔵書は多かったが、小説は少なく、あっても日本の時代劇や現代もので、ロマンス小説を連想するものは、あの一冊だけだったと思う。だからこそ本棚で目立ち、ありさが手に取ったのだ。
「似たようなタイトルのものは? 雰囲気が同じとか、それらが何冊も並んでいた、ということはないのだな?」
「そうです。あの一冊だけ目立っていました」
一体何を確認したがっているのか気になったが、アスバークはしばらく自分の考えに引きこもってしまい、お茶を口にするばかりになった。
「きみの祖母が魔術師ということはないんだな」
沈黙のあと、突然そう言い出すので、アリアはびっくりした。
「もちろんです。というか、以前の世界には魔力や魔術は存在しません」
「絶対か?」
「それは」
魔女などの話はある。それが完全にフィクションだといってのけるのは簡単だが、魔術・魔力なども思想としては存在するのだ。ただこの世界の感覚とは次元がちがうというか、同じように語ることには抵抗がある。
「祖母は現実的な人で。だから、なんというか……」
どう説明していいものやら。迷っていると、アスバークの関心のほうがアリアの答えよりも早く他へ移り、「きみには魔力がない」と話しはじめた。
「まあ悪魔の説明によると、厳密には魂を構成している成分が、この世界の住人とは多少、匂いが異なるらしい。何らかの力はあるとしても、ぼくらが知る魔術を、きみが扱おうとしても無理なのだそうだ」
「はあ」
「つまりだな。きみとこの世界をつなぐものは、その本しか思い当たらないのだよ。しかし本の所有者だった祖母も、こちらに縁があるようでもないしな」
「縁はないだろうと思います。あの本は」
ふっと記憶がよみがえる。本棚。手を伸ばした自分。ページをめくる。文字を追う。広がるストーリー。グレイス。閉じた本。裏表紙。
「……、出版社がなかった、気がします。あと出版年月の記載も」
いつ祖母がこの本を買ったのか。調べようとして確認した記憶がある。しかし、それらがなく、ネットでタイトルを検索してもヒットしなかった。
「あの本。普通じゃなかったかも」
まさか祖母が書いたものではないだろう。見た目は売り場にあるような書籍だった。だが必死で思い返してみると、不自然な点はいくつかある。
「売り物の本じゃなかったのかもしれません。でもじゃあ、なんで祖母が持っていたのか、ますますわからなくなるけど」
誰かにもらった? 眉間にしわを寄せるアリアに、アスバークは気を引くように、指でテーブルを二度叩く。
「本の存在に、ひとつ当てがある」
「当て?」
「ああ」
にこりと笑う、アスバーク。アリアは首を傾げた。
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